「この悪事が起きたのは○○のせいだ!」と人が叫ぶ時、よく見ておこう

ある悪い出来事Aが起きた時に、「なぜそれが起きたのだろう」と誰もが考える。
Bのせいだ、いやCのせいだと。

悪いことをした人の「属性」にバッシングが向かうことが特に多い。
心の病気だった、育ちが貧しかった・よかった、などの属性を持っていると、「✕✕病のせいだ!」などと、△△の専門家だったりすると「△△なんかダメだ!」と叫ばれたりする。


例えばオウム事件が起きた時も、ありとあらゆる原因が叫ばれて糾弾された。
宗教、ヨガなんかも致命的な痛手を受けた。

けれども、それ、十分に検証されて言われているだろうか?
「それあんまり関係なくない?」ということがあまりにも多くないか?


AとBの関係は、結果と原因、つまり「因果関係」という。
「Aが起きたのはBのせいだ」などと考えることを「推論」という。

自然科学ではこの推論の正確さが命なので、どこまでも厳密にやる。
けれども、SNSで社会的なことを言うレベルなら、「Bのせいだー!」と誰かが大声を上げれば、あまりにもあっさりと受け入れられてしまう。
(「印象に焼きつく」ような結びつけ方であることのほうが大事)。


まだ世の中は、この「因果関係の推論」の正しさには、それほど注目していないのだ。
だからこそ、狙い目になってしまっている。


この因果関係の推論は、考える本人の期待に左右されやすいと言われている。
人は「こうあってほしい」と思う方向で推論するということだ。
その正しさを立証する材料を集める段階でも、期待に沿うように集めてしまう。
沿わないものは切り捨てたりする。
もともとBを叩きたいから、わざわざBのせいに見えるようにこじつけることだってあるだろう。


陰謀論が非難されるのは、このAとBの関係が薄いのに、無理やり結びつけてしまっているからだ。
スピリチュアルと呼ばれる分野での議論も、そのような傾向を持っているとは言える(だからと言って「精神性」そのものが大事でないことにはならないが)。
ただ、悪い出来事についての「〇〇のせいだ!」議論でも、陰謀論とさほどかわらないほど関係が薄いのに、強引に結び付けてしまっていることなどザラにあるのだ。


仮に100のうち5だけ関係があるとすれば、5だけ叩いていいということになる。
5しか関係ないのに、70も80も叩くことはできない。


「それあんまり関係なくない?」
いちいちこう言ってみることが流行ってほしい。

DSC_8346.JPG「なぜその人はそこと結びつけたのだろう?」
こんなふうにも考えてみることもお薦めする。その次には。
なぜその人は、その無理な結びつけをしたかったのか。
もしかしたらBを結びつけて叩くことのほうが、内なる望みだったのかもしれない。


「それあんまり関係なくない?」
この視点で、よーく見ておこう。
騙されないように。そして悪を叩く風を装った人の醜さまでもよく見よう。


※例えば『考えることの科学』という本の最後のほうの章は、こういうことを知るのに役立つが、この本でなくも論理学のやさしい解説書なんかは、その役に立つ。

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