心が苦しいのは社会のせいなのだから、心を癒してはいけない。
原因である社会を変えなければいけない。
原因である社会を変えなければいけない。
こんな言い方がある。
例えば不眠症は、社会に原因があるかどうかわからない。「すべて社会のせいだ」というところに無理がある。
それでもこの説は、一方ではかなり支持されている。
このようなある種の姿勢をよく見かけないだろうか?
世の中に悪いことがあるなら、すべては社会制度や政治のせい。こういう方向に持っていく姿勢だ。
「社会制度や政治のせい」は結局、「政府のせい」ということになるだろう。
そしてそれは「その問題の解決方法は、人々がワーッと怒りで立ち上がって悪い政府を倒すことだ」という見方とセットになっている。
(選挙で倒すのもその一部である)。
これは民衆の革命が、世界で割とよく起きていて、先進国でもそれが叫ばれていた時期(70年代まで?)に定着した考え方だろうから、「革命モデル」と呼んでおく。
「問題はすべて政府のせいであり、解決はすべて政府を倒すこと」という姿勢と言えばいいか。
(このネーミングは大雑把なものだけども)。
こうすることによって解決できる問題があるので、自分も随分こうした方向も提唱してきたし、実践もしてきた。
けれども「これのみ」と考えすぎることの弊害も見てきた。
「道は革命モデルだけ」と考えてしまうと、問題の原因を政治・政府以外のところに置く人、そもそも関心を持たない人は邪魔になる。
政治について意見を言わない、と芸能人やミュージシャンが批判されているのをよく見る。
よからぬこと言ったのではなく、言っていないことを「言わないのか」なんて叩かれる筋合いは、誰にもない。
これは政治に関心を持たない人全般にも、なだらかに向けられている。
政府に怒らない人には、「もっと怒れ」が来る。
自分がやっている主張や活動でも気をつけていることだが、関心を持たない人に「お前、関心持てよ」なんて言える資格なんか誰にもない。
自分がやって見せたり、提唱したりして、その魅力や説得力で惹きつけるしかないのだ。
「革命モデルだけ」という立場からは、「政府を倒す(政治を変える)」以外の手段を提唱する人も邪魔だ。
「心を癒してはいけない」もそうだが、他の方法で解決しようとする人も邪魔なのだ。
自分もその立場から攻撃を受けることもあった。
自分の居場所活動にまで、政府と戦っていないみたいな文句を言ってくる人間もいたのだ。
自分たちで解決できることなんて、山ほどあるに決まっているのに。
長くなったので、後半は分割して出そう。
言いたいのはこういうことだ。
あたり前だけど、問題の原因はひとつではないし、方法もたくさんある。
そういうモデルに固執すると、解決できるものもできなくなる。
(特に問題の原因を見誤ることのダメージは大きい)。
自分の考えていることがすべてと思って、人に命令したり攻撃したりするのはやめようということだ。
これだけだとちょっと言葉足らずだが、後半をあわせるとずっとわかりやすいと思う。
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