さて、例えば。
かつて、親が子供を殴っていて、子の人生を勝手に決めていたのは不幸だった。
(太古から自分の子どもの頃まで、ずっとそうだった)。
世の中はこうやって生きやすくなってきたのだな、本当によかったと痛感する。
けれどもこの問題はもともと、政府のせいではなかったし、民衆が政府を変えることで解決したのではない。
最近ではまずSNSで騒がれて、やがてマスコミに取り上げられることで修正される問題だって多い。
これまた革命モデルではないが、世の中をよくする社会変革だ。
0円ショップが全国にくまなく広がったらどうだろう?
革命モデルだけしかないと思い込んでいると、こうした大改革はないも同然に思える。
虐げられた民衆が怒りでワーッと立ち上がるという、あのビジュアルが来ないかぎり何も変革が起きていないことになってしまい、イライラするばかりだ。
自分も居場所をやっているために、ある方面の人から「戦えない人たち」などと見下すように言われたことがある。
何であれ、問題に向き合って、戦っていない人なんかいるだろうか?
「どんなふうに戦うのが本物」なんてないんだ。
(本当は「戦う」なんて言葉も、趣味ではないのであまり使いたくないが)。
社会をよくする行動なんて、どんなやりかたでもいい。
一定のやり方を踏まなければ、そう呼ばれないなんてこともあってはならない。
なんとなく社会全体が、そんな思い違いをしてしまっているけれども。
ムカつく問題に立ち向かってきた人すべての力で、社会は改良されてきた。
特定の人がやったのではなく、みんなでやってきたのだ。
そんなのは、あたりまえのことだった。
そう思って過去を振り返ってみると、とてもしっくりくる。
あれやこれのムーブメントも、どれも先々の幸福を大きくする、世の中の改良につながっていたのだなとわかる。
あらゆる問題の原因が、そして解決の道が、すべてひとつに決まるなんてことはない。
そこから外れている人に、「もっとこう考えろ、こう行動しろ」などと言わないでもらいたい。
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※ついでに言えば、今のこの社会なら、全員がワーッと立ち上がって反抗しても、結局新しいリーダーは選挙で決めるだろう。
それならそういうことが起きたとしても、結局は今とそんなに大きな違いがあるとは思えないのだが。
※※さらについでに言えば、この革命モデルで想定されている怒る主体が、文句のある人全員というより、やけに「貧しい人」にかたよりがちだと思うことはないだろうか?
これは、マルクスという学者が150年前に言った革命モデルが、そういうものだったことの影響が大きいと思う。
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