「政府と戦えよ」という圧、「革命モデル」について(後半)

間が空いてしまったが、前回の続きを。



①すべての問題は社会制度や政治の、つまり政府のせいである。
②それを解決する方法は、民衆が怒りで立ち上がり政府を倒す(変える)ことである。

こういう方向に寄せて社会の問題をとらえようとするひとつの流れがある。
それを便宜的に「革命モデル」と呼んだ。
そして、この革命モデルだけしかないと思い込むのは問題だと言ったのが前回だ。
(もちろん政府に訴える必要がある社会問題はあるので、自分も政府に文句を言うが、単にそういうことを言っているのではない)。


さて、例えば


かつて、親が子供を殴っていて、子の人生を勝手に決めていたのは不幸だった。
(太古から自分の子どもの頃まで、ずっとそうだった)。
それが減ってきたのは、とてつもなく大きな社会変革だった。
世の中はこうやって生きやすくなってきたのだな、本当によかったと痛感する。
けれどもこの問題はもともと、政府のせいではなかったし、民衆が政府を変えることで解決したのではない。

何がこの大変革を起こしたのか?
何かを「これだ」と言い当てるのは難しい。
けれども戦後のロックや若者映画などのサブカルチャーは、確実に大きな原動力になった。

音楽や映画や小説を通して、親や教師など上からの支配の批判をあれだけやった分野はめったにない。
自分がよく聴いた80年代の日本のパンクが反抗していたのも、まずは親をはじめとする上からの抑圧だ。
もちろん洋楽ロック全般でもそれは基本で、クイーンには「お前の母親を縛り倒して、今夜ふたりでいいことしよう」と歌った曲もある。
ジェームズ・ディーンなんかの、若者が主人公の映画をあげてもいい。




ムカつく抑圧があり、文句を言い反抗したので、抑圧が減った。

まったく革命モデルではないが、素晴らしい社会変革ではないか。
「社会派でなかった」とある方面からは低く見られるサブカルチャーは、それを担った。

いじめも、うつなどの心の病への差別も「革命モデル」とは関係なく存在し、そして解決に向かった例だ。
そんな社会変革の例なんて腐るほど見つかる。

最近ではまずSNSで騒がれて、やがてマスコミに取り上げられることで修正される問題だって多い。
これまた革命モデルではないが
、世の中をよくする社会変革だ。

0円ショップが全国にくまなく広がったらどうだろう? 
それも実にいい社会変革だ。


革命モデルだけしかないと思い込んでいると、こうした大改革はないも同然に思える。
虐げられた民衆が怒りでワーッと立ち上がるという、あのビジュアルが来ないかぎり何も変革が起きていないことになってしまい、イライラするばかりだ


自分も居場所をやっているために、ある方面の人から「戦えない人たち」などと見下すように言われたことがある。
何であれ、問題に向き合って、戦っていない
人なんかいるだろうか?
「どんなふうに戦うのが本物」なんてないん
だ。
(本当は「戦う」なんて言葉も、趣味ではないのであまり使いたくないが)。


社会をよくする行動なんて、どんなやりかたでもいい。
一定のやり方を踏まなければ、そう呼ばれないなんてこともあってはならない。
なんとなく社会全体が、そんな思い違いをしてしまっているけれども。

ムカつく問題に立ち向かってきた人すべての力で、社会は改良されてきた。
特定の人がやったのではなく、みんなでやってきたのだ。


そんなのは、あたりまえのことだった。
そう思って過去を振り返ってみると、とてもしっくりくる。
あれやこれのムーブメントも、どれも先々の幸福を大きくする、世の中の改良につながっていたのだなとわかる。


あらゆる問題の原因が、そして解決の道が、すべてひとつに決まるなんてことはない
そこから外れている人に、「もっとこう考えろ、こう行動しろ」などと言わないでもらいたい。


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※ついでに言えば、今のこの社会なら、全員がワーッと立ち上がって反抗しても、結局新しいリーダーは選挙で決めるだろう。
それならそういうことが起きたとしても、結局は今とそんなに大きな違いがあるとは思えないのだが

※※さらについでに言えば、この革命モデルで想定されている怒る主体が、文句のある人全員というより、やけに「貧しい人」にかたよりがちだと思うことはないだろうか?
これは、マルクスという学者が150年前に言った革命モデルが、
そういうものだったことの影響が大きいと思う。

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