贈与には見返りを求めてはならない、か?

DSC_8910.JPG『アナキズムを読む』という本に、人間関係とか贈り物とお返しなんかについて、短い文を書いたので(それだけではないけど)、ちょっとそれに関連して。
「贈与にはお返しがあってはならない」「無償の贈与でなければ…」などと非常に頻繁に言われることについて。

くにたち0円ショップをはじめて、もう9年になった。
ここではもちろん道行く人に自分の物をあげるのが基本なのだが、参加者どうしでもさんざん、「これいらない?」などと物のやり取りや貸し借りをしている。もちろんお土産や差し入れも飛び交っている。
それを9年もやっているのだから、贈与とお返しについては、相当経験を積んだ自覚はある。

その経験から思うのは、ギフト・「エコノミー」などと言われるが、贈与とお返しも実は人間関係の一部というか、下部構造でしかないなということ。
人間関係では、常に誰かに気づかってもらったり、それに対するお礼の気持ちが湧いたりを繰り返している。その気持ちが言葉になったり、世話という無形の何かになったりする。
そしてある時は、物やお金という形のある物になり、それが贈与とお返しと呼ばれるだけだ。


贈与は経済ではないということだ。

それを経済と見る見方は、人間関係と物のやり取りが売り買いによって完全に切り離されてしまった今の世の中の視点で、昔からずっと続いているものを見てしまっている。
そういう過ちを犯しているように思える。
もともと贈与に限らず、経済だって人間関係と一体化していた。

贈与を人間関係のほんの一部分と、あるいはひとつになったものと見るなら、「贈与は一方的でなければ、純粋でなければいけない」というのも、ちょっとわからない(その人に返さないで、他の人に恩送りしろなんていうのもある)。
気持ちに「お返しがあってはいけない」なんてことがあるだろうか?

もちろん自分も、放出した物、身近な人にあげた物にお返しなんか求めないし、本当に気にしないでほしいので、何とも言えないが。
けれども、ありがとうとは思ってほしい。
0円ショップで物をもらっていく人のなかには、どうしてもお返しがしたい人が結構いて、何かを差し入れてくれたりする。それは気持ちが物品化したものだから、自分は快くもらっている。あってはならないこととは思えない。

くどいようだが、自分個人としてはお返しなんかいりませんよと言うし、自分でもらってもお返しは気にしませんからと宣言したいが、それでも世の中全体としては、そういうやり取りはむしろ促進すべきことのように思うのだが。

なかなか微妙なことなので言い方も難しいが、一応書いた。

※本には「0円で生きる」の自己書評として書いている。ちなみに自分は、何かの(何であれ)主義者だと自称したことはありません。

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