「死刑になりたくてやった」を信じていいのか?(前編)

どうしても理解できないのに、世間が受け入れている言葉がある。
「死にたかったので、死刑になりたくて(凶悪犯罪を)やった」
というあの言葉だ。

まず、どうしても死にたいと思う。
そして自分では死ねないと思った。(←この段階はあっさり通過される)
そこで「そうだ死刑になろう」と思った。(←この時点でもうわからない)
そのために、やりたくもない凶悪犯罪を犯そうと、計画を立て大胆に実行した。(←1ミリもわからない)

あまりにもわからなさすぎるので、本心ではないのではないかと勘ぐっている。
これまで本心でない可能性を、なぜ考えてこなかったのだろう?

少なくとも長いこと死にたいと思っていた自分の場合は、そういう発想は一瞬も湧かなかった。
死にたいのに、そんな気力はどこから来るのだろう?
自らの体験からのみ、疑問を持っているのではない。
自分で死ぬことは怖いのに、死刑ならなぜ怖くないのだろう?
筋が通らないと思うことには、疑問を持ち続けるべきだ。


焼肉屋に立てこもった犯人の、「死刑になりたかったからやった」という動機が、また大々的に報道された。
まず、この犯行で死刑にならないことはわかりきっている。
そして犯人は野宿友だちに、「刑務所に入れば飯も寝るところもタダだ」と語っていた。
野宿友だちのひとりは、「死にたいとは言っていなかった」とも語る。
立てこもっている間に「電車内の事件のようにしたかった」とも言っている。
(「死刑に~」は京王線事件の犯人の語った動機でもある)。
さらに犯人は立てこもっている最中に、テレビ局に「取材をよこせ」と電話で要求した。
(死刑になるための手段でしかない犯行で、それが必要だろうか? このことは、ジョーカーそっくりの格好をした犯人を見た時にも思った)。

これらから、「死刑になるためにやった」というのは、本心とは違うと言っていいと思う。
その言葉を言ったからといって、真の動機であるかのように報道することに問題はないんだろうか?
少なくとも一件は、こういうことがあったわけだから。



もちろん、凶悪な犯罪に走る人の人生は、死にたいと思うくらいにうまくいっていないだろう。
死にたいくらいのきつさがあったのは想像に難くない。
それは、たいていの凶悪犯についも言えることだと思う。
そこにマスコミが何度も大報道することで、「死刑になりたくてやった」という常識では考えられない動機を、本心とは違っていても言ってしまう道筋をつけたのではないか。

もちろんこうした犯人には同情を感じるので、ただでさえ悲惨な犯人をさらに責めたいわけではない。
それは言っておきたい。
年末年始に新宿で野宿していたのだから、自分の親しい人が夜回りで会っている可能性もある。
もし渋谷だったら、彼の野宿友だちは、自分の友だちだったかもしれない。
けれどもこういう言葉を真に受けた、「死にたい人は他人にも危害を加えるものだ」みたいな「評論」がたれ流されるのはなんとかしたい。
目的はそんなところにある。
そんなイメージが広く浸透するだけでも嫌だ。


長くなってしまったので、続きはまた後半に。
(いっぺんに書くと、短くしなければと焦るので)。
(Twitterの埋めこみスペースがでかすぎる)。

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