「死ぬために殺した」という証言は本心なのか?(後編)

「死にたい人は、他人に危害を加え、巻き込んで死のうとするものだ」といったおかしな見方が広まったら嫌だなと思って前回の記事を書いた。
するとその直後に東大刺傷事件が起きてしまい、そんなことがごく普通に言われるようになってしまって、まいった。

毎年2万人も自殺する人は出るけれども、それらのほとんどの人がそんなことをしようなんて考えない。
このことは、この長い記事の初めに言っておきたい。


「死にたくて、死刑になって死のうと思い、殺人(未遂)をやった」という論理が信じられないと前回書いた。
そう語った焼き肉屋立てこもり犯は、「射殺されようとしてやった」と証言を変えた。
本人によって「死刑になりたくてやった」は否定された。
「射殺~」も相変わらず荒唐無稽なのだが、変わるくらいなのだから、その程度のものなのだろうと思わせる。
(これについては、文末に紹介した犯罪心理学の専門家の意見も、よかったら参照を)。


そんなふうに犯人が犯行直後に語った動機を、いきなり真に受けていいのだろうか。
もちろん自分だって、そんなのはひとりもいないなんて言う気はない。
それでも「本心ではないのではないか」と思ってみる必要はあるんじゃないか。


京王線事件と東大事件
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「死刑になるためにやった」の京王線事件の犯人は、「人の多いハロウィンの日を狙った」と言った。
けれども、事件があったあたりの京王線は、ハロウィンだからと言って混みぐあいに変化はない。
また、あの格好で犯行に及べる日は、ハロウィンの日しかない。
つまり犯人は、あの格好で事件を起こしたかったのではないか。
そしてそれは「死刑になるために」という「本来の目的」とは、何の関係もない。
「しかたなくやった」のではない動機がにじみ出ている。
それでも犯人がそう語ったので、自殺の一形態、「拡大自殺」だなんだと評論されている。


東大刺傷事件については、ちゃんとした証言が出ていないので、まだわからない。
けれども犯人の、
「死にたかったので、事件を起こして罪悪感を背負って、切腹しようとした」
というアクロバティックな論理は、同じように信じがたい。
「『切腹して死ぬ』という目的を遂行するには、罪悪感を背負う必要があったので、やりたくもない放火や殺人未遂事件を起こした」
ということだろう。
これはさすがに、受け入れがたいと言ってもおかしくはないだろう。

「死にたかった ⇒ 自分で死ぬ」というごく普通のプロセスのなかに、なぜこの人の場合は「事件を起こして」というとんでもない要素が入るのか。
人を刺す事件ならどこでもいいはずなのに、なぜ受験の日の東大まではるばる行ったのか。
電車内で可燃性液体に火をつけようとしたり、刺したりには、それなりに動機があるのではないか。
ちなみに「車内で液体」や「死にたかったから」は京王線事件とも同じだ。
まあ、まだよくわからないので何とも言えないが。

少なくとも、本人は殺人未遂はしたけれども、自殺はしていない。
これを「殺人未遂事件」ではなく「拡大自殺(自殺の一形態)」と扱うのはおかしくないか。

死刑になりたくてやった京王線犯や立てこもり犯も、どちらも死んでいないが、自殺扱いされている。


もっとも一度「死にたくてやった」という方向で、証言なり報道なり警察発表なりしてしまったら、その方向の要素をくっつけていって、どんどん固めていくだろうが。
犯人としてはそうしておいたほうが、明らかに印象がいい。
警察とマスコミは、その方向でまとめてしまえば簡単だし目を引く。
その背後には、死にたい人はそんなものだろうという、いい加減な見方もあるだろう。
それに異を唱えるメリットが誰にもない。
だから自分がこういう主張を今するのも、気がすすまないのだが。


「拡大自殺論」はヤバい
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「死刑になろうとして」「罪悪感を背負って死のうと」系のアクロバティックな論理は、「死にたかったから」というところに無理に犯行全体の原因を持ってこようとするから生まれるのではないか?
もちろん死にたい気持ちはあっただろう。
けれどもそれとは別に、ブワーッと何かやりたい衝動もあったのではないか?
過剰に抱えた怒り、うっぷん、ストレス、うらみを爆発させたかったのではないか?

「死にたい気持ちとともに、何か大きい事件を起こしたい気持ちも同居していた」
こう解釈するなら、後者の気持ちは、この手の事件を起こしたたくさんの犯人と同じだ。
それでいいじゃないかと思うのに、なぜか「死にたかった」をすべての原因にして、因果関係でとらえようとする。
そのせいで「死にたい人はこうすることがあるものだ」という方向に、なんとなく論を持っていかねばならない。

それを理論化しようとしたのが「拡大自殺論」だ。
その中心論者・片田珠美氏の基礎になっているのが、「自殺と他殺は表裏一体」という、フロイト以来、戦後日本の精神医学界でも支持されていて、今はほぼ捨てられた理屈だ。
それについては、以前この記事で詳しく書いた。
自殺する人は、かつては今よりもっと犯罪者っぽい扱いだった。
その原因のひとつが、この「自殺と他殺は表裏一体説」だったと言える。


なぜ彼らだけが大事件を起こしたのか?
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米コロンバイン高校での銃乱射事件の犯人たちは、犯行後に自殺したが、犯行全体が自殺の一形態だなんて言われているのを聞いたことがない。
きちんと殺人として研究されている。
最後には自分で死んだ殺人犯だ。
その見方が自然なのではないか。

年間2万人以上いる自殺する人のほとんどは、殺人事件を起こそうとしない。
ほんの数人の死にたい人がそういうことをしたなら、なぜ彼らだけがそれをやったのかを考えなければ何にもならないではないか。
かれらのなかだけに、他の死にたかった人たちとは違う何があったのか?
犯人には、怒り、うっぷんをブワーッと晴らしたい欲求もあったという方向で考えて、それをどうしたら止められるか、「うっぷんを爆発させないためにどうするか?」を広く議論するほうがはるかにマシなんじゃないか。


「死刑になりたかったから」の模倣
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長くなってしまうがもう少し。
あるHPによると、「死刑になりたかった」と犯人が語った事件は、池田小事件(01年)の宅間守以降に集中している。
「拡大自殺」などと言われだしたのも、この事件以降だそうだ。
自分は90年代に古今東西の膨大な自殺の事例を調べたけれども、死刑になるために凶悪犯罪を犯したという例は知らなかった。
宅間守は犯行後にとにかくめちゃくちゃな発言を多発したけれども、そのなかのひとつが「死刑になるためにやった」だった。
土浦の連続殺傷犯についても、同じことが言える。

宅間以降、「死にたかったからやった」という動機までが模倣されているように見える。
秋葉原事件の加藤智大などは、よく言わなかったものだなと思ってしまう。
自殺扱いになるかどうかは、犯人の犯行後の気分次第だなと感じる。
これからもどんどんそう語る犯人は出るだろう。
それをいちいち「自殺の一種」として考えるのはいいことなのか、ということだ。


精神障害でも、ゲーム中毒でも、大犯罪の原因がそれということにされれば、当人たちは困惑する。
それは「死にたい人」だって同じなのだ。

「死にたい」と「殺したい」は、まったく別の気持ちだ。
ごく普通に、そのように考えたい。



※興味がわいた人は、こちらの専門家の記事もどうぞ。
「マスコミが模倣犯を育てている」心理学者である私が軽はずみなコメントをしない理由(PRESIDENT Online)
「私はこれまで、拘置所で多くの重大事件の加害者と面接してきた。なかには「死刑になりたかった」などと口にする者もいるが、その大半は、深く考えずに「適当に」言っているにすぎない」。
「大事件を起こした直後に容疑者が漏らした言葉を、なぜそのまま真に受けるのだろうか。容疑者はいろいろと嘘をつくし、不正確なことをたくさん言う」。
「「拡大自殺」という「分析」も、本人の「死刑になりたかった」という言葉を真に受けた拙速で軽率なものである」。


※ブログ史上最長の記事になったので、とうとう小見出しまで入れてしまった。

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