見田宗介作品ベスト3、「我々はみんな死ぬ」ことの価値

DSC_9947.JPG先日死んだ見田宗介氏の作品や考えも、せっかくの機会なので紹介せねばと思う。
まずおすすめ本を挙げるけれども、そういうものはマニア向けなので、よくわからない人は飛ばしてもらっていい。
それでもぜひ、後半の彼の考えのところは読んでほしい。

鶴見個人が選ぶ見田作品ベスト3はこうなる。

①『自我の起源』(93年)
②『気流の鳴る音』(77年)
③『時間の比較社会学』(81年)(すべて真木悠介名義)

以下は補足的に。
・『現代社会の理論』の「4章2項と7項(単純な至福)」(96年)
・『社会学入門』の「6章 人間と社会の未来」(06年)
・『〈現在〉との対話5 見田宗介』の「4章 波としての自我」(86年)


さて、まず②の『気流の鳴る音』のなかの、自分としては絶対に読んでほしいところについて書く。
それは本文ではなく、巻末にボーナストラックのように入っている「色即是空と空即是色」という短い文章だ。
ここで言っていることは、4章「心のある道」の結論にもなって出てくる。つまりこの本のなかでも、一番か二番目の主張と言える。

何が書いてあるのかというと、、、、


戦後南の島の収容所でつかまっていた戦犯たちが、死刑判決を受けてまた収容所に戻る。
その帰り道。
何度も見ていたはずの通っていた道や小川が鮮烈に美しいものに見えたと、みんな同じように書き残しているのだそうだ。
なぜそういうことが起きるのか?
それまで先のことばかり思いわずらっていた意識が、先がなくなったとたんに、「今生きている世界」に向いたのだ。
よく見れば美しいものに囲まれていたのに、まるで見えていなかったのだ。
そして見田宗介はこう書く。

「真に明晰な意識にとっては、われわれすべては死刑囚であり、人類の総体もまた死刑囚である」。

つまり、いずれ必ず死ぬあなたも私も、彼らと同じだと。これは心に焼きついた。
この先は例によって、そのあたりからの引用で済ませよう。

「いっさいの価値が空しくなったとき、かえって鮮烈によみがえってくる価値というものがある」。

「この物質性の宇宙の外に、どのような神も永遠の生命も存在しない。
ここまで幻想を解体し認識を透徹せしめた時に、はじめてわれわれは反転の弁証法をつかむ」。

「われわれの行為や関係の意味というものを、その結果として手に入る「成果」のみから見ていくかぎり、人生と人類の全歴史との帰結は死であり」

松尾芭蕉にとっての「奥の細道」は、終点にたどり着かず、途中でやめてしまったらすべて台無しになるなんてことはない。
「道を歩くこと」そのものに価値があるからだ。
そんな例えも出てくる。

「いっさいの宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、このような認識の透徹そのもののなかにしかない。
すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣にとりもどすことにしかない」。

空しさ(つまり死ぬこと)から目をそらすのではでなく、それをまっすぐに見てやることでしか、空しさは超えられないと言っている。
これも来た。

空しいからこそ、美しい。
「色即是空」とは「すべては空しい」の意味。けれどもその続きがあることが忘れられている。「空即是色」とは「空しいからこそすべてがある」というような意味だ。


あまり自分の解釈を付け足しすぎてもなんなので、あとは勝手に読み取ってもらおう。
ちなみに、「いずれは死んで無になるとわかっている人間が、どうすれば空しさにとらわれずに生きていけるか」は、見田さんの切実な問いのなかの1番目か2番目くらいに入るものだったと思う。


ちなみにこの2位の『気流の鳴る音』についても一応。
我々現代人は、自然とともに生きていた人たちとは、当然考え方が大きく違ってしまっている。
その考え方のどんな特徴が、我々の人生を貧しくしているのかを徹底的に分解している本、と言える。
そのひとつが、このような「先のこと」「成果」にばかり意識を向ける考え方なのだ。
また物事の「意味」ばかり考える癖についても、大きく扱われる。


もちろんこれだけで、いきなり人生が空しくなくなるわけではない。
「見田宗介がそう言ったからといって、本当なのかな」という気持ちを忘れないことも大事。
けれどもこれを心がけて生きるのと、考えないのとでは、死ぬ間際の感覚はずいぶん違ってくるだろう。


ちなみに③の『時間の比較社会学』における、この「死のむなしさを超えること」については、phaさんの『人生の土台となる読書』のなかにも、わかりやすく書かれている。

しかしまあ、あれもこれも書こうとすると焦点がぼける一方なので、ここでやめておく。
けれどももう一回書かざるをえなくなった。
1位『自我の起源』についても、本当に少しだけ、もう一回書く。

※写真は『気流~』のなかの、件のページ。阿呆のように線を引いたのは鶴見。

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