「人間関係を結ぶかどうか」とはまた別に、「集団に入るかどうか」の問題がある。
集団に入るべきかどうかについては、新刊のなかでも言っていなかった。
ちなみに社会学で言う社会集団の定義とは、まずその集団に所属している自覚のある複数人から成っていること。
そして持続的に、たがいに活動をしあっていることが条件だ。
つまり満員電車に乗り合わせている人たちは、たがいに活動していないし持続的でもないので集団ではない。
「不適応者の居場所」も集団ではないと思っている。
規模については、自分がイメージしているのは、クラス、〇〇校生、✕✕部、サークル、職場、町内会など、そこそこ大きいものだ。
自分が挙げている人間関係のメリットには、「人から肯定される」とか「思っていることの共有」なんかがある。
そして言いたいのは、これらは「今日は〇〇さんと話す」「来週は✕✕さんと一緒に行く」といった「個別の人間関係」ですべて満たすことができるということ。
つまり「集団に入らなくてもいい」ということだ。
自分は集団に入ってしまうこともあったし、まったく入っていない時期もたくさんあった(今は入っていない)。
それを振り返れば、そういう結論になる。
どの学校、どのクラス、どの部活なんてことがその人の肩書きのようになってしまう環境にいると、集団に入っていないと大変なことになるのではないかと感じる。
けれども外れてみれば、それは関係なかった。
ただし集団に入ることにも、何かメリットがあるはずだ。
それは「力」の感覚なのではないかと思う。
自分の内部で力を感じるメリットも、外部に対して力を示せるメリットも、どちらもある。
そこは「個別の人間関係の組み合わせ」にはない。
(もちろん大きな作業をするためには、誰かが集団を作らねばならないけれども)。
「仲間が多いことは力が強いこと」。
これは、新刊のなかの大きな主張だ。
このことはもっと一般的に、当然のことと見なされてほしい。
他人の集合写真を見ると劣等感を感じるのはそのためなのだ。
その力を感じるのは、別に悪いことではない。
スポーツのそろった応援や、ライブでの一体感なんかは(あれらは集団とは呼べないけれども)、その力の感覚をうまく味わっているのだろう。
もちろん集団には、「みんな一緒」にさせようとする作用が必ずある。
そのデメリットとのバランスで、「自分は参加するかどうか」を考えるのがいいのだろう。
※追記
日本の教育界で、特別活動(学級活動、全校行事、部活などの授業以外の活動)を中心になって推進している杉田洋という人がいる。
彼は集団こそが人間を成長させるという「集団至上主義」とでも言うべき立場に立っている(『よりよい人間関係を築く特別活動』などより)。
彼自身がそれを「人間関係」と呼んでいたりして非常に紛らわしいが、学校で日々訓練しているあれらは「人間関係」というより「集団」なのだ。
嫌なのは「人間関係」ではなく「集団」なのかもしれない。いやその可能性が高い。
両者を混同しないように気をつけよう。
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