最深部の問題とか最終的な問題と呼んでいる問題がある。
例えば誰かとのつきあいとか、社会の制度といった浮いては消える問題よりも、はるかに深いところにある問題という意味だ。
生き物の生死とか、地球環境とか、宇宙とか物理とか、そういった問題よりももっと深いと思う。
我々が持ってしまう世界への絶望やムカつきの根源に何があるのか。
人が生きるうえでもこれが一番深い思いになったりするので、書くのにも慎重になる。
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まずどれだけ科学や理性を発達させたところで、やはりこの世の中は「運次第(あるいは偶然)」で成り立っている。
「でたらめ」ということだ。
生まれる家族や土地。人の持つすべての遺伝子、人の容姿。これらは100%運で決まる。人生において出会う相手も、運の力がはるかに大きい。
(自分にとって人生最悪レベルの人物との出会いは、自分で選んだものだっただろうか?)
いや、それよりも、ちょっとした「つき」の有無で、誠実さや頑張りなどが吹き飛んだりすることがどれだけ多いだろう。
人生において努力で何とかなっている部分なんか、3割くらいなんじゃないだろうか。
人間は科学を発達させて結果を制御したり、社会を整えて「正直者がバカを見る」ことが少ないように工夫してきた。
それでもやはり、これだけのことが運次第であるところを見ても、この世界はまったく「できが悪い」のだ。
(実際に途上国では、もっと運や偶然の力が大きいだろう。大人の世界より子どもの世界のほうが、運や偶然に左右されやすいとも思う)。
どんなに誠実にコツコツやっても、バカ正直にやっても普通にうまくいかないことが多いし、うわべをうまく取りつくろったタイミングや要領のいいだけの人間がいいところをさらっていったりする。
単に運が悪かっただけで死ぬような目にあった人、あるいは単に「つき」がなくて、いつも不遇な目にあっている人。
こうした人が持つ絶望、怒り、恨み…は、特定の人や制度に向かうわけではない。
それはこの世界全体、この世としか呼べないものに向かうはずである(神と言ってもいいかも)。
(なのでそれは、この世界の一部分を壊すとか、誰かに危害を加える方向には基本的には向かわないだろう。念のために)。
そして大事なのは、その絶望や怒りは「合っている」ということだ。
そんな時に耳にするとガックリと落胆させられる言葉がある。
「いいことをすれば必ず報われます」
「真面目に一生懸命やった人が最後には幸せになります」
「悪いことした人には必ず罰が当たるから大丈夫」
「神様は必ず見ています」
何でもいいが、そんなようなものだ。
そんなことはない。
この世界はそんなに大したものじゃない。
この世界は「勧善懲悪」なんて原理で動いていない。
この世界は人間が勝手に決めた「善」と「悪」の判断を超えている。
(善人は長生きするなんていう統計結果があるだろうか?)
この世界に溢れている道徳的な教えやら教訓やら。
そういったものは、「運次第」という本当のところを認めてしまったら、誰も誠実に頑張らなくなるから、人を「善」にとどめておくために言っているのだ。
(宗教というものは、大体そのためにある)。
単に運が悪いだけで、ひどい目にあった人は、普通ならできない取材をたくさんしたライターのようなものだ。
それだけたくさん、大切な真実に触れたのだ。
道徳的な教えを言う人がどんなに立派な人と見なされていても、もし本気でそう思っているなら、その人はやはり〈実際に〉大切なことがわかっていない人なのだ。
我々が感じる、この世界全体や道徳に対する「ふざけるな」。
その源泉はそこだ。
単なる不運から死ぬような目にあったなら、なおさらそう感じるだろう。
そして自分が思うのは、このことを織り込み済みで生きるほうが絶望しないのではないかということ。
下手に今ある道徳を信奉しているよりも、はるかにマシなんじゃないだろうか。
(ただし、宗教や道徳の教えのような何かがいらないとも思わない。やらないほうがいいことはある)。
新刊の「あとがきの最後の8行」には、「それではどうするか」というところを書いた。
言うほど大したものでもないが。
ただ、入念にバランスなど考えて書いたので、うかつに触れられない。
そこは読んでもらうとしよう(別に読まなくてもいいけど)。
※実存主義哲学が言う「不条理」という概念がこれに近い(人物で言えばカミュとか)。
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