対人恐怖症は「大人になれないせい」と見なされていた

DSC_0454.JPG吃音(どもり)の原因が、かつては家族や本人のせいとされていたことを、ひきポスというひきこもりのサイトの記事で知った。
記事を書いた人はそれをこのままにしたくないと語る。

これを読んで、対人恐怖症(社交不安障害)にも似たような過去があったことを書きたくなった。


対人恐怖症は少なくとも80年代まで、本人が「大人になれないせい」で生じる病理現象とされていた。
「本人の未熟さのせい」と言いかえてもいい。
当時の精神病の本には、「友人とはたがいに信じあうものなのに、その友人が怖いなんてなんと子供なのか」なんて書いてあるのだ。アホか。


いや、対人恐怖症だけではない。たいていの恐怖症(強迫神経症)や不安障害も「大人になれないせい」だった。
うつや怠惰まで「アパシー」と呼ばれ、「大人になれないせい」にされた。
「不登校(登校拒否)」ももちろんこのくくりのなかに入る。
自分も以前に少し書いたことがある。


ではどうすれば「大人になった」と認めてもらえるのか。
それは「社会性を身につけること」なのだ。
具体的に言えば就職する(社会に出る)ことだ。「社会に適応できる」こと。学校に行けないなら、行けるようになること。
「内向性から外向性へ」みたいにも言われてもいた。自分の内面世界に閉じこもって、営業マンっぽくなれない人はダメなのだ。これは内面世界全般を否定されているようで空恐ろしかった。
そしてそれができない者は「精神病」という病気であり、治療をして「社会性を持った大人」に「治す」必要があるわけだ。


まあ社会の主流でやっている人間たちが、恐怖症・不安症という不思議な症状を目のあたりにした時に、いかにも考えそうな理屈ではある。
それにしても医療なのに、なぜこんないい加減な説がまかり通ったのか。
それはこの当時の精神医学界が、フロイト派(精神分析派)の影響を色濃く受けていたからと言える。
いや、まずは当時「弱い者・できない者を叱って矯正する」という風潮があって、この学説は利用しやすかったと言うべきか。

フロイトなんて言っても、もうあまり知られてないかもしれないが、80年代くらいまでは影響力を持っていた。
フロイトはもともと口唇期、肛門期などと、人間が生まれて発達していくいくつかの段階を仮定した。
そしてフロイト派のエリクソンは人生を8段階に分けた。このエリクソン仮説の「青年期⇒成人期」の部分が、日本の精神科医に影響を与えていたと言うべきか。


フロイトによれば、ある段階で問題があると、健全に次の段階に進めなくなる。それをフロイトは「固着」と呼んだ。
(なんかこういう解説は、だいたいのところがわかっていればいいのに、正確に書かなきゃいけなくて面倒だ)。

つまり、青年期に笑われるなど問題が起きて対人恐怖症になってしまい就職できない人は、青年期固着を起こしているというわけだ。


ちなみにこれらの説には、医学的な根拠はないと言っていい。
そして、吃音の家族原因仮説もこのフロイト的解釈と言える。

(ちょっと検索したら出てきたサイトを参考までに。「フロイト派の精神科医たちは吃音が幼少期の「口唇サディズム期の葛藤」を表すと考え」たそうだ。なんとバカバカしい)。


今からでは笑ってしまうようなこうしたフロイト派の仮説は、80年代くらいまでの心の病の解釈をねじ曲げた。
少なくとも未成年の心の病の大部分で、「発達できない本人の未熟さ」が原因とされた。
もちろん自殺願望についても同じだ。
そして今はこっそりと方針を転換したので、その過去のことが見えなくなっている状態なのだ。


こう書いていて、昭和とはまさにこんな時代だったなと思い返す。
何が「昭和は天国だった」だ。
それが忘れられないためにも、80年代以前の精神医学について語ってほしい。
おそらくそれを唱えた偉い先生は、もう引退されているだろう。
その弟子に当たる人たちに振り返ってほしい。

こっちも自分が何と戦っていたのか、伝わらなくなってしまって困る。

(関係ないが2000年に生まれた人と話していると、この人にとって90年代は、自分から見た50~60年代に、80年代は40~50年代に相当するのかと思うと愕然とする)。


※写真は80年代当時、よく読まれた精神病の本。他に小此木啓吾氏の果たした役割も大きかった。

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