大江健三郎『セヴンティーン』と自意識過剰という病

「俺は自分を意識する、そして次の瞬間、世界じゅうのあらゆる他人から意地悪な眼でじろじろ見つめられているように感じ、体の動きがぎこちなくなり、体のあらゆる部分が蜂起して勝手なことをやりはじめたように感じる。
恥ずかしくて死にたくなる、おれという肉体プラス精神がこの世にあるというだけで恥ずかしくて死にたくなるのだ。」
(大江健三郎『セヴンティーン』〈短編集『性的人間』所収〉より)


DSC_0587.JPG実は大江健三郎から大きな影響を受けている。
そして『セヴンティーン』は最初に読んだ作品であり、ダントツに好きな作品だ。

高校の時この一節に触れて、「これは俺だ」と思った。
この青年がどのように日々を生き、どのようにこれを克服したかというのが、この作品のテーマだ。

まずはこの作品について書こう。
(最後のほうにネタバレの箇所を明示しているので、読むと決めている人はそこは避けてください)。


さて、「俺は自分を意識する」という「症状」を、単に社交不安障害(対人恐怖症)と言ってしまうとちょっと違う。
「自意識過剰」とでも言うべきだろうか。
もちろん「うぬぼれ」なんていう意味ではない。
つまり考えすぎ、意識しすぎという状態に陥っていて、その過剰な意識が全部自分自身に向いているという状態だ。


自分は変な臭いを放っているのではないか(自己臭恐怖)。
自分は容姿が醜いのではないか(醜貌恐怖)。
自分は重い病気にかかっているのではないか(疾病恐怖)。
「にやりと笑う、睨む」など不快感を与える表情をしているのではないか(表情恐怖)。


これらも対人恐怖症の一症状とくくられてはいるが、他人とのコミュニケーションの障害ではない。
やはり自意識過剰と言うべきか。
この心の病にはまだまだ日が当たっていないので、カミングアウトする人も少なく、うつや発達障害に比べてこのような解像度の低い状態を強いられているのだろう。


こんな自意識過剰は、この作品中にいくらでも出てくる。
自分のおどおどした内面を見透かされているのではないか。
バカにされているのではないか。
動きがおかしいのではないか(と意識するために、かえってぎこちなくなる)。

この状態がどれほどの苦痛であるかはよくわかる。
そしてそれがなくなった今と比較して、あんなにとんでもない状態はそうそうあるものではないと振り返ることもできる。


**********ここからネタバレ*************

この青年は作品の最後にこの病を克服する。
それは彼が、ある政治思想家の政治演説のサクラのバイトをすることから始まる。聴衆から嘲笑を浴びた彼は、罵声を浴びせ返す。彼はその時、どぎまぎしていない自分を感じた。そして彼は人が変わり、その思想に身を投げ出し、病は克服されるのだった。
(実際にはこのように突然症状が寛解することはほとんどないが。また自分はここで彼が向かう思想にまったく共感しない)。

************ネタバレ終わり************

読み終えて「すげえ」と思った。


「実存という深みでは、政治的な道徳的な価値判断は先行しない」
収録された渡辺広士氏の解説には、こう書かれている。
自分はここに線を引いた。


じつぞん【実存】
③ 実存哲学で、特に、人間が自分の存在を問題にし、自己を失っているような状態から脱して、真に自己であろうと努力するあり方をいう。
(「精選版 日本国語大辞典」)


実存という深み。
この自分が苦しみを感じ、そこから脱したいと思うこと。
それは他のどんなことよりも、本当に本当に、重大なことなのだ。

これまで長い間、おそらくそこのところを骨身にしみてわかっていない人から、「そんなことではなくもっと別の価値を重視しろ」という偉そうな言葉がよく飛んできたものだった。


もちろん大江作品が好きな理由はこれだけではない。
あまり大した続きもないが、長くなるので2回目に続くことにする。


※ある実在の「政治少年」との関係については、ここでは深入りしない。作品に率直に向きあうためにも。
そこを詳しく知りたい人は『テロルの決算』(沢木耕太郎)の一読もお薦めする。

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