「自分らしく生きられる社会を」と意識の高いやつらが言えば言うほど、真の弱者が死に追いやられる。
こんな論理が、今かなり広まっているから驚きだ。
「意識の高いやつらが~と言うほど、真の弱者が死に追いやられる」には、すでにたくさんの言い方がある。
たとえば「エコ」。
そしてこの論はこのシリーズの最新バージョンということになるだろう。
ここでの〈真の弱者〉とは、カネのないキモいオッサンとか、氷河期世代でニートひきこもり、といった人が、何となく想定されているようだ。
重度の障害者やホームレスなどが含まれないところが味噌だ。
「自分らしく生きられる社会を」と提唱すると、能力のある人はスポーツ選手やアーティストなどになれるが、能力のない人はそうなれない。能力重視の社会になるのだから(←ここの論理展開に大きな飛躍がある)、自分らしく生きられない人は死にたくなる、という主張がメインのようだ。
ところで、ここで〈真の弱者〉と呼ばれるような人の界隈で自分は生きている。日常的にまわりはそんな人ばかりだし、自分がやっている居場所に来るのも当然そんな人たちだ(もちろん自分だって同じ弱者だが)。
そしてそんな人たちが、「自分らしく生きられる社会」になって死に追いやられるなんてまったく思えないのだ。
むしろ江戸時代や明治時代、そして昭和に至っても、みんなが同じような「ちゃんとした」「しっかりした」、そして色々な意味で「強い」人間を強いられている社会のほうがはるかに死にたくなるだろう。
「自分らしく弱くていい」「自分らしく、ちゃんとしていなくていい」という風潮が、どれだけそうした人を生きやすくさせたか。
「意識の高いやつらが気に入らない」というのが、こうした論者のベースにある気分だろう。
だから「意識の高いやつら」を「真の弱者のことを何もわかってない」として、「あいつらがあなたたちを生きづらくさせてるんですよ」と、真の弱者の怒りの矛先をそっちに向けようとする。
けれどもそうした論者は、現実社会で〈真の弱者〉の近くで生きているのだろうか。
〈真の弱者〉に現実的にも近い場所にいるのは、むしろ「意識の高いやつら」のほうだと思う。
そしてなんと「自分らしく生きられる社会を」と主張する勢力を、「ネオリベ」のイメージに寄せていこうとさえしている。
今日本でそう言っている勢力は、まさにネオリベを批判してきた勢力ではないか。
こうした論に惑わされないように気をつけましょう。
と、今回はこのくらいで。
このくらいの記事を軽い気持ちでもっと書きたい。
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