京王線ジョーカー氏が本当にやりたかったこと

書きにくいことだが、こんなことは自分が言わなければ誰も言わないだろうから書く。

京王線ジョーカー事件の犯人の裁判での証言の肝心な部分が、率直に言えば、どうしても信じられないのだ。


念のためにあらかじめ強調しておきたいが、自分は彼に「自殺をすればいいのに」と言いたいわけではない。

書きにくいのはこういう誤解のせいだが、そのせいで考えを言えなくなるのはおかしい)。



彼はこれまでに二度、自殺に失敗したと言

最初は中学生の時、自宅の屋上で首を吊ったところ、「何かの拍子にロープが外れて」失敗したそうだ。

そして社会人になった18歳の時、また自宅の屋上で首を吊ったが、気づいたら病院のベッドの上だったそうだ。


一度ならあるかもしれない。

けれども二度も同じ場所で、首吊りを失敗するというのはどうか。

首吊りを成功させる条件なん、わざわざ調べなくても子供にもわかる。

それを二度も失敗したと言うのだ。


そして彼の言い分では、このことが無差別殺人に走った大きな原因となった。


つまり、自分で死ぬことはできない。

死刑になって死ぬしかない。

そう考えて、「大量殺人から死刑」という遠大な道を選んだという。

確実に死ぬために「確実な首つり」を選ぶのではなく。

あるいはもっと確実な別の自殺手段を検討するのではなく。



ではその「死に方」はそんなに確実だったのだろうか。

彼はまず、「殺人のモチベーションを保つのに苦労した」と語る。

それを克服してとほうもない準備を重ねて犯行にこぎつけても、技術的にも大量殺人などできなかった。

死ぬためにはこれしかないと言う割には、ずいぶん難しかった

これのどこが首吊りより確実なのだろう。

それは途中で彼にもわかったはずだ。


なにか真面目に検証するのもバカバカしくなってくる。



以前にも書いた、自分は彼の犯行のある点にずっと注目している。

それは、彼がやったジョーカーそっくりの服装は、彼が言う「大量殺人を犯して死刑になる」という目的とは一切関係がないということだ。

確実に目的を果たしたいなら、普通の目立たない格好でやればいいではないか

わざわざそれが可能な唯一の日であるハロウィンを選び、ジョーカーに扮する理由は何もない。



普通に考えて、彼がやりたかったのは「それ」だったのではないだろうか。

つまりバーンと目立つやりかたで大騒動を起こすこと。

そして「自分はジョーカーのようにないがしろにされてきた」とアピールすることだ。

彼は目的を達したのだ。



ここで再度言うが、彼に自殺をすればいいと言っているわけではなく、これ以上彼を貶める気もない。

自分はむしろ他の人より彼に同情しているほうだろう



自分の存在をないがしろにされつづけた人のなかからは、己の「存在」を爆発的に世に知らしめたくなる人が出やすいと思う

(オレノソンザイヲ、アタマカラ、カガヤカサセテクレ)

そのひとつの形が「無差別大量殺人(未遂)」なのではないか。



世間に話すのは、そのストーリーでいいじゃないかと思うのだ。

「私はジョーカーのようにないがしろにされ続けたので、こうして己の存在を爆発させるのだ」と動機を話して、共感を得ればいい。

ないがしろにされ続けた人間のこういう感性は、そんなものをまったく感じずに済んできた幸運な人たちにも、広く知られるべきだ。

そしてうまく説明すれば、十分共感を呼べるものだ


長くなったので、続きはまた別の項で書きたい。

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