先日ある読書会に出ていた時、一緒に参加していた友人がこんなことを言った。
「どうせ死ぬんだと思った人が無差別殺人をするのを、どうすればなくせるんだろう?(大意)」
自分は大体こんなふうに答えた。
「どうせ死ぬと思ったから人を殺すわけじゃない。余命数ヶ月の宣告をされたがん患者は無差別殺人をしない。あれらの人たちは、ああいうことがしたくてやっていると思う。
あれをなくすには彼らが褒められればいい」
これは前回のブログの続きだ。
前回書いたのは、京王線ジョーカー氏が首吊りを2度失敗したと証言したことから、「死刑になるためにやった」発言そのものが信用できず、彼のやりたかったことは、あのジョーカーの格好と大騒動そのものだったのだろうということだった。
もうひとつ似たケースとして、東大前無差別殺傷事件を見てみよう。
東大志願者のあの犯人は「死刑になって死ぬため」という論法は取らなかった。
よく似ているが死刑は通さず、「人を殺すことで罪悪感を背負い、その勢いで自殺するためにやった」という論法を選んだ。
(ここまで無茶苦茶な言い分は、社会としても受け入れるべきではない)。
彼の場合も「大学受験の日に東大の前で」犯行を行うことは、その目的と一切関係ない。
東大赤門を燃やすことまで計画していたが、赤門も関係ない。
わざわざ上京しなくても、住んでいる名古屋で事件を起こせばいいのだ。
彼がやりたかったこともやはり、この東大前の大騒動を起こすことだったと思う。
己の存在をないがしろにされ続けた人のなかからは(自らをないがしろにし続けた場合も含む)、自らの「存在」を爆発させて世に見せつけててやりたくなる人が出る確率が高いと思う(もちろんごく一部だが)。
ないがしろにされ続けた人間のその極限の心境は、そんなものを感じもしないで死んでいく人間たちにも広く認められるべきだ。
なぜならもっと軽くであれば、それを感じている人間などザラにいるからだ。
これも前回書いた。
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そして京王線ジョーカー氏やその他の無差別殺人(未遂)犯の心を、一発で癒すものが何かあるとしたら、真っ先に思い浮ぶのは彼らが「褒められること」だ。
「ないがしろにされること」の対極にある「褒められること」。
あの犯人もあの犯人も、もし自分が気合を入れてやった何かが称賛されていたら、、、無差別殺人はやらなかっただろう。
「褒められたい」という願望。
自分はこれを表舞台に引っ張り出したい。
(「憧れられたい」でもいい)。
これは自分の推測だが、何か表現活動をして目立っている人は、たまたまそういうポジションに行ってしまった場合を除いて、たいていは褒められることが好きでやっていると思う。
「褒められる」が第一の動機ではないかもしれないが、第二第三くらいには入っているだろう。もしかしたら第一かもしれない。
ただしそうであっても、それは言ってはいけないことになっている。
「褒められる」とは、世の中から絶賛されるようなことだけを言っているのではない。
SNSで文章を発表しているなら、肯定的に評価されたいはずだ。
やった仕事も、選ぶ服や趣味だって、褒められたほうが嬉しいに決まっている。
これだけ「いいね」ボタンがネットにあふれているのは、褒められることをみんなが望んでいるからだ。
「褒められる」ことは他者評価なので、確かにそれ「だけ」を目指して行動するのは空しい。
それでもそんなに簡単に無視できるようなものではない。
褒められるためなら、信じがたい苦しみに耐え抜く人もいるのだから(アイドル養成所のドキュメンタリーを見た)。
褒めることが子供の教育に欠かせないなら、大人に対しても欠かせないはずだ。
(自分は他者評価なんかいらないと言ってるのでなく、自己評価・他者評価のバランスをよくすることを提唱している)。
心の奥の「褒めらたい」欲求はもっと大事にしていい。
世の中に「褒められたいよねー」「最近褒められてないんだよね」なんて会話が飛び交っていていい。
そして「褒め」がすぐ身近にある世の中がいい。
誰にでも何にでも、いい面悪い面どちらもあるのだから、いい面にもっと注目すればいいだけのことだ。
※前回今回の記事を書いた理由のひとつとして、乱発されていた「拡大自殺」というワードに反対しているうちに、いつの間にかそれがすっかり使われなくなったことがある。
自慢ではないが「拡大自殺」という言い方に執拗に反対していた人なんか、自分以外に知らない。有名な人、そうでない人を問わず知らない。
言ってみるもんだなと思ったので。
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