久しぶりにちょっと硬い話を。
なんだかリベラルというと、「いけ好かない」というイメージが広まりつつある気がする。
その最たる例として、「リベラルはネオリベだ」というむちゃくちゃな主張が一部でなされている。
誰も反論しないのでそれが浸透してしまいそうだ。
このままだとあまりそうした領域に関心のない層が、なんとなくそういうイメージを持ってしまう。
なので、ここでちょっと言っておきたい。
その前に「ネオリベってよく聞くけど何だろう」という人も多いと思う。
今の使われ方では「弱者切り捨ての残酷な奴」くらいの意味だろう。
正しくは「ネオリベラリズム(新自由主義)」という経済思想のことで、本来はそういう意味ではない。
ここの説明 はまあまあ納得できる。
ややこしくなるので、それは文末に書く。
ネオリベは貧困問題のあたりでは「ヒトラー」と同じくらい印象の悪い言葉だ。
叩く側としては「あのリベラル連中が弱者切り捨て社会の元凶ですよ」とほのめかして、怒りの矛先をリベラルに向けようということなのだろう。
では「リベラル」とは何か。
自分なりに一言で言えば、アメリカの民主党みたいな政治的な姿勢というか。
今現在のイメージでは、多様性やフェミニズムなんかを重んじる姿勢、くらいか。
そして日本の政党ではリベラルと言えば、立憲民主党あたりを指すのだろうが、多様性などを一番強調しているのは左派だ。
もちろんリベラルは「自由な」という意味だから、個人の選択の自由は大事にする。
アメリカでは、多様な人間のるつぼでもあるので、このリベラルの、そして多様性の勢いがものすごく強い。
そしてセレブやトップミュージシャンなんかもこの主張をしているので、金持ちの主張だなどと揶揄されやすい(実際には「リベラル支持は裕福」などという単純な図式ではない)。
だからアメリカで反リベラルが大きくなるのも、わからないでもない。
けれどもここ日本では、セレブがそれを言っているどころか、多様性の主張は別に流行っていない。
そしてそんなアメリカの反リベラルの言説に日本で影響を受けた勢力がやっているのが、「リベラルはネオリベだ」というリベラル叩きというところだろう。
どちらにも「リベラル」という言葉が入っているので、両者はくっつけやすい。
「リベラルは自由主義→個人の自由が大事→自己決定が大事なら自己責任も大事→リベラルはネオリベ→リベラルは弱者切り捨て」
といった「風が吹けば桶屋が儲かる」的なくっつけをやってくる。
(ちなみに、このように何段階にも分けてやると、たいていのものはくっつけてしまうことができる。「エコロジーは弱者切り捨て」もできる)。
しかし、だ。
自分はリーマンショック前後にネオリベ批判を熱心にやっていたので、そのへんはよく勉強した。
その頃「新自由主義は自由などと言ってるくせに、大企業の自由ばかり広げて、個人の自由はむしろ狭まる」と言われていた。
自由自在に首を切る社長の下で、社員の自由が広がるわけがない。
スターバックスが規制緩和で出店攻勢をかける地域で、個人のカフェの選択の自由や個人の出店の自由が広がるわけがない。
こうした批判をしていたのは左派・リベラルであり、ネオリベだったのは自民党だ。
ネオリベが廃れてそんな構図が忘れられたころに、「リベラル=ネオリベ」説が始まったわけだ。
ちなみにアメリカの反リベラルの頂点にいるトランプが大統領としてやろうとしているのは、コストカットという首切り促進や富裕層減税なのだけど。
ネオリベをやってるのはリベラルではなくて、反リベラルのほうだ。
「リベラルが嫌い、いけ好かない」みたいなイメージをもし持っていたら、一度そのイメージは抜きにして、本当にそれは自分が嫌いな思想なのか、本来悪い思想なのか考えてみればいいと思う。
最後に、ネオリベラリズムの本来の意味だけど。
社員の首を切りやすくする、といった雇用の柔軟化から、ネオリベの意味は来てしまっているが、それは新自由主義の中心的な部分ではない。
メインは何かと言えば、大きな企業に経済的な自由を与えることであり、その具体例としては「民営化=公共の分野の市場経済化」が一番代表的だ。
いや、十分硬い文章になってしまったのでここまでで。
とは言え、これを柔らかくしようとするとまた時間がかかる。
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