ヒトは成人で1日約2.5リットルの水を吸収し、排出している。ヒトが生きている限り、これだけの水は絶対に必要になるのだから、この水を商品として売ることができたら、どんなに安定した需要のある巨大なマーケットになることだろう。
我々のまわりにボトル入りの水があふれだしたここ20年ほどの間に、この夢は世界的に現実のものとなってきている。
まずグローバル企業は、安全に水が飲めない地域へボトル入りの水を売り込むようになった。その結果、貧富の差が安全な水の入手を左右するようになり、またコカコーラ社などは、インドの工場で地下水を汲み上げすぎたために、近隣の井戸が干上がってしまい、住民から訴訟を起こされ、一度は商品の製造販売の禁止を命じられている。
またグローバル企業は、同じ時期に世界に広まった新自由主義政策の下で、水道事業の民営化(=私営化)という形で水を商品にしはじめている。水道民営化が実施された国は「北」「南」を問わず、世界で100カ国以上におよび、特にフランスの大手2社(スエズ、ヴィヴェンディ)が、その給水人口の70%以上を独占している。
このスエズ社のCEO(最高経営責任者)の言葉が振るっている。
「水ほど効率のいい商品はない。普通はただで手に入るが、わが社はそれを売っている。何しろ、この製品は生命にとってなくてはならぬものだから」*)
けれども、こうした水企業の謳い文句どおりに水道料金が安くなった事例は乏しい。南米ボリビアのコチャバンバ市では、民営化の結果水道料金が3倍にも値上がりし、料金を払えない市民の反対にあって、水道が公営に戻された経緯がある。
しかし、だ。そもそも、水というものは私有できるんだろうか?
地下水までが、最初に土地を囲った者の私有物なのか? それどころか、水はヒト全員のものでも、生物のものですらないんじゃないのか?
地球ができたのは約46億年前だが、すでにその5億年後には、今とほぼ同量の水が地球上にあったとする説が有力だ。そして生命の誕生は、それから3億年後の38億年前である。
生物はその後、長い間水から出ることができず、我々のような陸上生物が出てきたのは、ほんの5億年前なのだ。
ヒトの体の60~70%は水だが、今でも水中にいるクラゲに至っては、体重の99%以上が水であり、その水分含有率は、牛乳より高い(!)。
つまり、生物は水に依存しているが、水は生物には依存していない。**) 生物なんかいなくても、水はちゃんと存在しているのだ。
こうしたことを踏まえれば、「企業による水の私有化」なんてものが、いかに人間中心主義的でおこがましいことかがわかるだろう。
資本主義経済の(あるいはグローバル企業の)最後のフロンティアは、「公共物」なのだ。つまり、誰のものでもないので公で管理していたものを商品化・営利化すること。今では、水や種子といった共有財産、あるいは教育や医療といった公共サービスが狙われている。いずれは「空気」を商品化したがってるかもしれない。
「普通はただで手に入る」ものをカネで買うようになっていくのを、多くの人が望んでいるとは到底思えない。
「フランスから輸入した単なる水を買って飲む」なんていう、よく考えたらとんでもなく無駄で異常な習慣が広まって喜ぶのは、「売っている人」だけじゃないのか?
だからこそ、今世界中で「世界は売り物ではない」と叫ぶ、グローバル経済に反対する運動が巻き起こってるのだ。
*)『「水」戦争の世紀』 モード・バーロウ、トニー・クラーク著、鈴木主税訳、集英社新書、より
**)「水に溶ける」という物質の性質を利用しないと、生物はあらゆる代謝が行えない。
参考:
『世界の<水道民営化>の実態──新たな公共水道をめざして』 コーポレート・ヨーロッパ・オブザーバトリー、トランスナショナル研究会著、佐久間智子訳、作品社
『ウォーター・ウォーズ──水の私有化、汚染、そして利益をめぐって』 ヴァンダナ・シヴァ著、神尾賢二訳、緑風出版
『生命にとって水とは何か』 中村運著、講談社ブルーバックス、他
写真は2004年にインドで世界社会フォーラムが開かれた時の、コカコーラに対する抗議デモ