2017年11月04日

『負債論』──物々交換はなく「貸し借り」があった

負債論.JPG負債論2.JPGお金と人類の歴史を、利益第一主義批判の立場からまとめるという壮大なテーマの本。
以下はこの本の内容と、ところどころ自分の考え。著者はアナキストのデヴィッド・グレーバーで、本の厚さは辞書並み。

負債があるというのは、それほど罪深いことなのだろうか。
かつての社会では「貸し借り」や「つけ払い」が当たり前で、誰でも誰かに「借り」(負債)がある状態が普通だった。それが歴史的に見ても、罪悪と見なされたり、あるいは人を奴隷のように支配するための道具となることがある。
お金での売り買いとは、その場で決済するシステムだが、お金が登場したあとも、貸し借りやつけ払いは普通に行われた。
しかし資本主義の社会になってからは、負債の罪悪化は決定的となった(例えば債務国の惨状を見ればわかる)。というのが、この本のメインの主張と言える。

真っ先に否定されるのは、お金がない頃、人々は物々交換をしていたとする有名な説。過去にも現在にも、物々交換の社会というものは存在しない。これは等価交換・即時決済という今の常識を過去にまで投影したかった、アダム・スミスの誤った説から来た。
では物々交換でないなら何なのかというと、「貸し借り」だった。後でその借りを返すことを前提として、人々は物を受け取っていた。
これは時間差のある物々交換とも言えるが、このほうがはるかに「ありそう」に思える。

贈り物をもらえば「お返しをすべき借りがある」と思えるし、物でなくても、助けたり手伝ったりしてもらえば同じように「借り」の気持ちが生まれる。
文化人類学の言うように、人間関係はすべて何かを「交換」するためにあるなら、そこには常に「借り」(負債)が生まれている。
こう考えれば、別のものと思われている贈与返礼・相互扶助も(資本主義以前の)交換も、ほとんど同じものと見なせてスッキリする。
ただし著者は、「人間関係はすべて交換」なんてことはないと強く主張しているのだが。

また著者の考えは、「人間らしいモラル」対「利益主義・計算主義」、「対等な人間関係」対「ヒエラルキー」、「名誉・信用」対「名誉のはく奪・奴隷」といったテーマを延々とめぐっていく。
どうである、というはっきりした結論に収束していくことなく、それはまさにめぐっているのだが、これらを最重要なテーマと考えていることは伝わってくる。

資本主義のはじまりを、ヨーロッパの大航海時代からと見ているところも興味深い。
またお金の始まりはというと、国家が軍人に渡す俸給を硬貨で払ったのが始まりと見ている。が、貸し借りの記録や証・印から貨幣が生まれたと言っているように受け取れる部分もある。

ただ、貸し借りは相手の信用という部分に大きく依存したやり取りであるため、信用があるのかないのかがことさら重要になる。確かに返しそうもない人には、あまり貸したくはならない。その人の信用や名誉が最も大事な社会というのは、あまり魅力的ではない。
それを考えれば、お金を使う社会にもメリットはある。

この本は意外にも読みやすいし、無数の実例が非常に面白い。
こんなとんでもないテーマに手を付けてもいいのだ、何でもやっていい、問題意識をちまちまと限定しなくていいと思わせてくれるところが、最もアナキストの著書らしいところかもしれない。
posted by 鶴見済 at 18:06| Comment(0) | 書評など | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

金なし生活者スエロと「労働と消費」の人生

スエロ.png『スエロは洞窟で暮らすことにした』という本について以前に記事を書いた。
スエロはアメリカのユタ州で一切お金を使わずに、洞窟のなかで暮らしている。彼はお金が生み出す様々な不安や不正と決別するために、お金を手放したのだが、彼ほどではなくてもお金に依存した生き方に疑問を持つ人は多いだろう。

お金を払ってほとんどのことを人にやってもらい、その分働いてお金を稼ぐこと、つまり「労働と消費」が我々の生の営みになっている。
労働時間と消費がどちらも減っているのだから、こうした人生への見直しが進んでいるとも見れる。ただしお金への依存が進んでいる側面もあるので、簡単には言えない。
「少労働、少消費社会」を目指したい。
以下は『scripta』という雑誌に2014年の夏に書いた記事。

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自分にも多少身に覚えがあるのだが、なるべくお金に頼らずに生きるのは決して楽なことではない。野菜を育てるのも、飲食店で食べるのをやめて弁当を持参するのも、物をなるべく買わずにどこかで調達してくるのも、どれも面倒だ。お金とは本来生活を便利にするための道具だったのだろう。けれども、何もかもお金任せにせず、自分の手でやってみたほうが「生きることへの興味」が湧いてくるように思える。賃労働と消費の生活を続けていれば、食べていくことはできるかもしれないが、肝心の「生きることへの興味」がなくなってしまうのではないか。思えば、自分が賃労働生活から降りてフリーランスになったのも、それを恐れたからだ。

とは言っても、多少お金を使わないようにするだけでも相当面倒になるのだから、一切お金を使わない生活がどれほどかは想像を絶する。それでもお金を使わずに暮らしている人はいる。イギリスで二半年以上もお金を使わずに生活する実験をしたことで知られるマーク・ボイルの『ぼくはお金を使わずに生きることにした』(紀伊國屋書店)によると、彼が見つけたお金を使わないで暮らしている人はたったの二人。一人は留守宅のハウスシッターやバーター取引で暮らしているドイツの女性・シュヴェルマー、そしてもう一人がここに紹介するアメリカの男性・スエロだ。

そのスエロの伝記とも言える『スエロは洞窟で暮らすことにした』によれば、彼が住んでいるのはアメリカ西部ユタ州・モアブの洞窟。食べるのは捨てられている食品や野生のもので、人に招かれてごちそうになることもある。衣類もゴミのなかから調達し、移動には自転車やヒッチハイクを利用する。こうして彼の金なし生活は十数年にも及んでいる。もちろんゴミを漁っているだけではない。彼は図書館のコンピュータで自分のウェブサイトも作っているし、ボランティアで様々な仕事もしている。その生活が楽だとは到底言えないが、普通に賃労働をしている人よりも充実しているかもしれない。

この本にはお金を使わずに生きる方法が詳しく書かれているし、金融経済の問題や食料の配給など様々なオルタナティブな活動についてもわかりやすくまとめられている。けれども、スエロの旧友でもある著者が関心を持ったのは、どうやら彼の金なし生活そのものではない。膨大なページを彼の遍歴の記述に費やしているのだ。クリスチャンとしての生い立ちや自殺未遂。様々な支援・慈善団体を渡り歩いては、偽善に直面して離れることの繰り返し。平和部隊として赴いた南米でもインドの聖地でも、やはり幻滅を味わう。ほとんどの人がそうしているように、多少の偽りや矛盾など仕方がないと見過ごすことができれば楽なのだが、彼にはそれができない。
こうした遍歴のうちに、「お金に動機づけられた物事はすべて汚れている」と考えるようになった彼は、ついにお金を手放す。「どこにいようとも、そこが私の家」というのが彼の行き着いた思想だ。そして、ここでそのさすらいもほぼ終わったのだった。

もし私有という概念がなければ、あらゆる場所は皆の家だ。人間以外の生き物は皆、そのように感じているだろうし、前近代社会の人々にも多かれ少なかれそのような感覚はあっただろう。私有や売買が行き渡った近代以降の人間、つまり我々の価値観のほうがおかしいとも言える。そのなかで一人異を唱えるスエロは、地球上の生物圏全般を眺めてみても、人間の歴史を振り返ってみても、マジョリティの側にいるのだ。かつての社会では贈与、共有、相互扶助といった様々なつながりは、生の営みそのものだった。スエロは、そんな生き物としての本来の生き方を追求しているとも言える。
お金を手放しはしなかったものの、人生を深く真剣に生きるためにやっかいな森での自給生活を始めたH.D.ソローを思い出す。本気で生きようとすればするほど人は、面倒な道に足を踏み入れることになるらしい。

著者が最後に引きあいに出すのは、カミュの『シーシュポスの神話』だ。シーシュポスは神に逆らったために、岩を山の頂上まで持ち上げることを永遠に繰り返す罰を受ける。けれどもカミュによれば、この世の不条理に意識的であるなら、たとえ闘争に終わりがなくても、それだけで人の心は満たされるのだ。そして本書の著者も、シーシュポスを幸福だとするカミュに倣い、スエロを幸福であると結論づける。

個人的な考えを言えば、皆がお金を使うことをやめるべきだとは思わない。どうにかしなければならないのは金儲け至上主義(資本主義)が行き渡ったこの社会であり、お金の発生と資本主義社会の誕生の間には、はるかな時間の隔たりがある。だからお金を使うこと自体は認めてもいいだろうと思うのだが、スエロが夢見ているのは、「お金が過去のものになる日」なのである。その日は我々が生きている間にはやってこないだろう。けれどもやっかいな道に足を踏み入れることが不幸とはかぎらない。今の彼ほど「生きることへの興味」を感じている者も、他にいないはずだ。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011136
posted by 鶴見済 at 14:43| 書評など | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

『おいしい資本主義』書評と個人の意見の大切さ

おいしい.png著者である朝日新聞の名物記者の近藤氏が、米作りに挑戦し、資本主義批判と脱成長論を展開している本の書評を書いた。
主張にはとても納得がいくのだが、「エコ」や「スローライフ」、さらには「まじめな人たち」への違和感まで自粛せずに書いていて、それがさらに本の主張をより独自のものにしている。こんなテーマの本にそれを書く人間が他にいるだろうか?
苦しければ苦しいと書き、納得いかない説には納得しない。いいことしか書かないのが普通の世界では、これは新鮮だ。個人の考えをちゃんと言うのはいいものだな、などと思えてくる。本の主張そのものより、その姿勢のほうに心を動かされたりする。
2015年の秋、『東京新聞』に書いた書評。

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衣食住のすべてをお金で買っている我我にとって、働くことはそのお金を手に入れるためのやむをえぬ手段にすぎない。お金にならない仕事はどんなに意義があっても、「食べていくために」諦めざるを得ない。しかしその諦めが蔓延した社会では、生きていくことはできても、肝心の生きたいという動機自体が失われるのではないか。
それならば、最低限自分の「食べていく」ものだけは作り、あとはやりたい仕事をやるという生き方はできないか。本書はまさにこれを実践しようと、長崎の支局へ異動した名物記者が、本業の傍ら毎朝一時間だけ自らの米を作ってみたルポとアジテーションの書だ。

ここで秀逸なのは、違和感があればどんな正論にも真っ向から異議を唱えていく姿勢だ。著者は資本主義を痛烈に批判するが、いわゆるエコロジー的な考えにも安易に同調しない。農薬の危険性は承知しながらも、周囲に害虫の被害を及ぼさないために自らもそれを撒く。山からの水を独り占めする大先輩とも、上手く関係を取ることで解決する。周囲との調和を最重要視し、人と人とのつながりを解体した近代社会を批判する。その一方で、近代化の産物である個人の自由をこの上なく愛しているのもまた著者自身なのだ。

資本主義、エコロジー、近代主義、反近代主義、いずれの考えも完全に正しいわけではない。それらを丁度よく修正するには、どの立場にも迎合することなく、こうした丁寧な異論を積み重ねていくしかない。著者の馴れ合いを嫌う姿勢は、こうした点でも大きな成果をあげている。
この体験記を読んで、米作りが楽だと思う読者はいないだろう。また人一人が一年間に食べる米の値段は、それほど高くはない。買ったほうが早いと言いたくもなる。大きなものには抗うよりも諦めて従ったほうが楽なのだ。けれども著者が生き生きと抗っている姿こそが、そこに少なからぬ価値があることを訴えかけてくる。
posted by 鶴見済 at 19:53| 書評など | 更新情報をチェックする

2017年07月17日

ロックという音楽、下層の生きやすさ、ブレイディみかこ新刊の書評

ブレイディみかこさんの『花の命はノー・フューチャー』51Ystd7K-KL__SX353_BO1,204,203,200_.jpgの書評を書いた。

文中にもあるけれども、自分はかつてどうしようもなくきつくなった時には、ロンドン・パンクスたちのやけくそでふざけた曲をよく聴いていた。セックス・ピストルズの『スウィンドル』やキャプテン・センシブルのソロなんかがそうだ。こういうものを聴いて笑ってしまうのがよかった。

かつてロックは貧困者、移民、精神異常者、性的少数者、邪教徒など有象無象のはみ出し者たちの鬱憤を飲み込んでいて、聴いていて楽になった。自分はそういうところから世界を学んだのだと思うし、ロック以上に自分を救ったものはない。そこに込められたマジョリティーにならなかった者たちの感情は、日本に暮らす自分の日々を支えた。
イギリスにはたくさんの移民がいて、それはかつて世界中に植民地を抱えた大帝国だったからだ。イギリスのロックがレゲエやダブをうまく取り込めたのは、かつての植民地であるレゲエのふるさとジャマイカからの移民がたくさん住み着いていたからだ。
自分はロックの雑種性のなかに、「下層」を余儀なくされた、あるいは選んだ人間たちの連帯や反抗を感じていた。少なくとも自分はそういうものだと思って勝手に勇気づけられていた。今は少し違うものになっているように思えるが。

ブレイディみかこさんのこの本にも、まるでかつてのやけくそのパンクを聞いた時のような爽快感がある。
それは彼女がイギリスの貧困地区に暮らす、彼の地では差別されるアジア系移民だからでもあるだろう。
これはイギリス下層生活エッセーだ。

下層に開き直ることの価値 (鶴見済)

2014年05月02日

都市コモンズを取り戻すために 『反乱する都市』書評

1310_harvey.jpg都市全体をコモンズと捉える視点が新鮮だった。そして私有化され奪われたコモンズは、取り返さねばならない、と。
それにしても、産業革命期のイギリスから、現代の中国をはじめとする「新興国」にいたるまで、なぜこうも同じように人は農村から都市へ流出して工業発展の下地作りをするのか? この流れは絶対なのか? ローカル化など起きないのか? その当然の結果としての世界的なスラムの拡大をどうすればいいか? 色々考えさせられる。分厚くて難しいが、面白い。

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人類は現在、急激な都市化の真っ只中にある。国連の予測では、二〇三〇年には全人類の六割が都市に住んでいることになる。都市化は特にアジアをはじめとする「南」の国々において顕著で、人口一〇〇〇万人以上のメガシティが続々と生まれている。ローカル化が叫ばれてはいるものの、これが現状だ。

本書では都市が作られていくこと自体を、資本の発展過程と見なして、その観点から世界の都市における反乱を概観している。著者は、マルクス主義を下敷きにした都市論や新自由主義批判の論客であるデヴィッド・ハーヴェイである。
そもそも金融から建設業に資金が流れることによって都市空間は拡大し、それが資本主義のさらなる発展の基礎となる。それゆえに都市には階級が、つまり少数の「占有する者」と「される者」が生まれる。日本でも都市の再開発は、野宿者の排除や古い商店街の立ち退き問題と不可分であることを思い起こさせる。世界の巨大都市におけるスラムも爆発的に拡大していて、人類の格差の象徴となっているのだ。
また著者は、一般的には自然環境に対して用いられる「コモンズ」という概念を都市にも当てはめる。確かに都市は、誰もが自由にアクセスできる共有物であるべきだが、ゲーテッドコミュニティに代表されるように、占有化の悲劇に苛まれている。こうして「都市への権利」を求める闘争が起きる。著者はその最新型を、カイロのタハリール広場、マドリッドのソル広場、ニューヨークのズコッティ公園などでの反乱に見る。これらは都市における平等を求める、反資本主義的な闘争でもある。著者はこうした都市革命の重要性を強調する。

まったくその通りだ、しかし、と思う。都市における平等は必要不可欠だが、仮にそれが達成されたとしても、やはり人類は都市への流入をやめないのだろうか? それでは根本的な解決にはならないのではないか? どこかの時点で人類が地方に分散しはじめることこそ、真に革命的な出来事であるように思える。
(『オルタ』2013年7月)
posted by 鶴見済 at 17:49| 書評など | 更新情報をチェックする

2014年04月07日

実は不正貿易批判の本『フェアトレードのおかしな真実』書評

1106322257.jpgあたかも環境にいいかのように装うこと、例えばほんの少しだけ環境にいいことをすることで、自社の環境破壊をごまかそうとすることを「グリーン・ウォッシュ」と呼ぶ。同様に、フェアトレードに配慮しているかのように装うことを「フェア・ウォッシュ」と呼んだりする。
この本を読むと、欧米ではそうしたグリーン・ウォッシュ、フェア・ウォッシュが溢れていて、そのせいでフェアトレードや倫理的ビジネスに文句を言いたくなるのだろうなと思わせる。頻繁に目にするフェアトレード認証ラベルの問題点も気になるところだろう。『コーヒー、カカオ、米、綿花、コショウの暗黒物語』もそんな批判を展開していた。
けれども、企業がフェア・ウォッシュすらしようとしない、認証ラベルですらめったにお目にかかれない日本で、その批判だけを輸入して声高に論じても意味がない。トレードそのものへの批判が広まって、「ウォッシュ」程度でもいいから企業が不正貿易を気にかけるようになるまでに持っていくことが当面の目標だ。
この本の原題は『Unfair Trade』であり、倫理的ビジネス批判も含んではいるものの、主要部分は不正貿易批判と言える。

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タイトルにあるようなフェアトレード批判だけの書ではない。英国のテレビキャスター、ジャーナリストである著者が、「北」の市場に食料や製品を供給する「南」の生産現場を訪ねた秀逸なルポルタージュだ。その現場から、貧困や環境破壊に配慮しているとされるフェアトレードなどの「倫理的」ビジネス全般の有効性を検証している。
 米国向けのロブスター漁が行われるニカラグア、電子機器の製造を支えるコンゴのスズ鉱山と中国の工場、麻薬の原料となるケシからサフランへと作物転換を試みるアフガニスタン。ラオスのゴム、タンザニアのコーヒー、コートジボワールの綿…。貧しい村々や紛争地に赴き、ブラックマーケットにも果敢に乗り込む取材力は見事だ。

ただしそこから著者が導くのは、グローバル資本主義が貧者を搾取している、という結論ではない。むしろ「資本主義は人々を貧困から救うもっとも有効な手段」と主張し、既存の承認に頼らずに独自の「倫理的」なビジネスを開拓する起業家たちに希望を見出す。
なぜならこれらの現場では、「倫理的」ビジネスが必ずしも貧者の役に立っているとは言えないからだ。危険に身をさらしても、武装集団の資金源になろうとも、より実入りのいい仕事を選ぶほかない人々がいる。こうした事実は「倫理的」ビジネスの支持者も真摯に受け止めねばならない。   
また「倫理的」という承認ラベルを利用した大企業のイメージ戦略や、それを取り扱うフェアトレード財団などへの批判も手厳しい。

ただこうした批判が、今の日本にそのまま適用できるかどうかは別の問題だ。フェアトレードも認証ラベルもそれほど普及していない日本では、まずは「非倫理的」ビジネスが「南」で行っている搾取の実態が知られるべきだろう。本書はそのためのテキストとしても絶好だ。われわれの社会は、まだその段階に止まっている。
(2013年10月共同通信配信)
posted by 鶴見済 at 12:30| 書評など | 更新情報をチェックする

2014年04月02日

新しい形のつながり、共有、贈与『ニートの歩き方』書評

51SWyFzNj8L__SL500_AA300_.jpgキッパリとした「だるさの肯定」がいい。面倒臭いものは面倒臭いのだ。そして脱成長、つながり、贈与等々は、環境系の人たちの専売特許ではない。こうした方面からも働きたくないという脱成長、ネットを通した新しい「つながり」、新しい形の贈与や共有が追求され実践されている。自分好みの価値観と言える。

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日本人ほど頑張ることが好きな国民が他にいるだろうか? 日本が工業製品の輸出に特化できた理由は「勤勉な労働力が豊富にあったから」というのが定説であり、電車は日夜分刻みの比類のない正確さで運行している。「頑張ります」「頑張ってください」という言葉抜きには、日常会話さえ難しい。
けれども我々はいつまで頑張らなくてはいけないのか? 頑張って技術を進歩させ生産効率を上げたのに、働くのが楽にならないのはおかしいではないか。

ニートの生き方について書かれた本書は、この社会を支配する“努力教”に対して、「そんなに働かなくていい、もっといい加減でいい」と反旗を翻す。現在三三歳の著者は通学や通勤が苦手で、就職しても社内での仕事がほとんどなく、こんな人生は嫌だと三年ほどで退社。その後は住居など生活上のインフラを最少限にとどめ、共有や贈与や小さなコミュニティを大切にしながら暮らしている。生活の中心にあるのはインターネットで、必要なお金はネットでの広告収入などで賄っている。
こうした生き方を選んでいる人は、最早少数ではない。そして社会の表舞台にこそ登場しない彼らのなかでも著者が異彩を放つのは、ネガティブに見られがちな働かない生き方を肯定的に捉えかえし、その正しさを堂々と主張しているところだ。

さらに著者は、オープンソースのプログラムの方法論を取り入れて、独自のシェアハウスの運営の仕方をネット上に公開し、勝手に広めてくれる人を増やしている。こうして現実の社会を生きやすく改造(ハック)することが、著者なりの社会変革なのだ。
 高度成長期に全員に押しつけられた生き方が、今でも最善であるはずがない。むしろその頑張る空気こそが、この社会の生きづらさの原因なのではないか。著者に限らず、ますます多くの人がそう感じているはずだ。
(『東京新聞』2012年9月23日)
posted by 鶴見済 at 17:50| 書評など | 更新情報をチェックする

できることがあると教えてくれる本『コンバ』書評

51+Hiul7aFL__SL500_AA300_.jpgこれまでに書いた書評などのなかから、ここでも紹介しておくべきものはアップしていこうと思う。やや遅きに失した感があるけれども。
まずはマティルド・セレル著、鈴木孝弥訳の『コンバ』から。反抗のために誰にでもできることが書かれている本。
ちなみにseesaaブログの機能が劣化してしまい、文字の大きさを細かく調整できなくなったため、見苦しくて申し訳ない。劣化反対。

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間接民主制の社会なのだから、社会をよくするためには政治を変えねばならず、我々は政治家を怒鳴り続けていなければならない──。もちろんその通りだ。けれどもそのことだけにとらわれていると、自分では何もできないような気がしてくる。そんな時に、本当はできることなどいくらでもあると気づけば、途端に世界は一変して見えるだろう。直接行動を知ることの大きなメリットはそれだ。

本書は、そんな普通の人にもできる直接行動の方法を網羅した実践のためのテキストだ。著者はフランスのジャーナリスト/ラジオ・パーソナリティのマティルド・セレル。パリのFM局“ラジオ・ノヴァ”で彼女が毎日放送していた人気コーナーの内容がまとめられている。
ゴミ箱に捨てられた食べ物を回収しよう。シャワー中におしっこをしてトイレの水を節約しよう。いいことをしている店に大勢で詰めかけて、大繁盛を演出しよう。さらには、強制国外退去になる移民を飛行機から降ろしてしまおう、などという大それたものまで。環境破壊や人権侵害や経済的搾取に反対しながらも、まったく優等生的ではない88ものアイデアは、読むだけでも解放的な気分になる。けれどもそれらは著者の奇抜な思いつきではなく、すでに広く行われていたり、綿密な計算のもとに提唱されたものだ。こうした直接行動は、2000年代に入って欧米で盛んに行われるようになっており、その方法も広く共有されている。

そして是非この本の膨大な註釈に圧倒されてほしい。異議申し立てが根づいていない日本とはまるで違う、フランスという国の空気を感じ取ることができる。同時に、デモや抗議に足しげく通いつめ、ドラムを叩く訳者・鈴木孝弥氏の抵抗の戦い(コンバ)への誘いが行間から溢れてくる。その熱意がなければこんな註釈は書けない。こういう力作は、無力感に苛まれている多くの人に読んでほしい。

(『ミュージックマガジン』2013年5月号)
posted by 鶴見済 at 12:05| 書評など | 更新情報をチェックする