15年前、自然界に気づいた

自分にとって革命的だったこととは何か? それは15年くらい前にレイヴ・パーティーに行くようになって以降、「他の生き物の存在(というか自然界)に気づいたこと(というか思い出したこと)」だ。──という原稿を『革命への手紙』というzine(同人誌)に書いたので、以下にその一部を抜粋してみる。 『沈丁花やスイセンの“匂い”。スズムシやカエルやシジュウカラの“鳴き声”。ツツジやアゲハやメジロや、木の幹を覆うカビや地衣類、紅葉や新緑の“色”。それまで完全に無視していたこれらのものが、急に飛び込んできた。いつの間にか、「こんなものは、取るに足らないものだ」と思っていたのかもしれない。(もちろん、空や川や石の色、雪の結晶の形といった生物でないものにも惹かれたので、「自然界に気づいた」と言ったほうがいいのだが。)モノクロの世界がフルカラーに、モノラルだった音が5.1chサラウンドに変わったようだった。』 『生き物には、植物、動物、菌類の三種類があって、植物だけは太陽の光のエネルギーを、物質(ブドウ糖)を作る時に閉じ込めること(光合成)ができる。動物と菌類はそれを分解(あるいは消化)して、閉じ込められた太陽光エネルギーを取り出すことで生きていることも知った。菌類の存在に気づいたことは、自分にとって特に革命的だったと言える。菌類はカビやキノコという形で時々目にするだけで、普段目には見えないが、土の中や自分の体の中にも無数にいて、昼も夜もなく、生物が合成したものを分解する活動(発酵や腐敗)を続けている。それがなければ…

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もうたくさんだ!がネットで読めるようになった

この話ばかりだが、『オルタ』での連載「もうたくさんだ!」の1回目の記事がネットで読めるようになった。http://www.parc-jp.org/alter/2008/alter_2008_07-08_yabasta.html ここでも書いているとおり、この「経済の仕組み」に依存しないで生きることは、いよいよ世界中で差し迫った問題になってきた。ならば、別のどういう仕組みに向かっていったらいいのか?  ちなみに自分はもう何年も、出した生ゴミ(髪の毛や爪も含む)などを肥料にして、土を作り、種をまき、野菜や果物を育てて食べている。 とは言っても大々的にやっているわけではなく、まったく些細なことなんだけれども、これだけのことのなかに、大げさに言えば我々の「生」や「死」の問題まで含めた「本来の仕組み」とでも言うべきものが凝縮されているように思えるのだ。 こういうことは、企業のイメージアップだけのための「偽善エコ」が世の中に溢れかえった今、言い方が非常に難しいが、まだまだ右肩上がりのグラフを描こうとしているバカげた人間界の経済の仕組みにいつまでも付き合っていないで、その外側にあるグルグルと循環しているこの当たり前の仕組みのほうへ、半歩でもいいからとっとと踏み出したほうがいいんじゃないかと思う。 写真は生ゴミを肥しにして育っている水菜

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人間関係だけが「関係」ではない

自然界とのつながりや他の生き物との関係を実感することは、精神衛生面から見てもいいと思う。「人間関係」というものを絶対的なものでなく、相対的に見ることができるからだ。 そもそも、”human relations”という言葉は20世紀に入ってアメリカでできた言葉で、それを直訳した「人間関係」という日本語も、第2次大戦後に広まったものだ。今では、親子、兄弟、結婚相手、隣近所に、学校、職場、さらにはインターネット等々での人間関係までが加わって我々を圧倒している。 我々は人類史上でも特に「人間関係」的な時代に生きていると言える。生きる苦しさのほとんどが、人間関係から来ているという人も多いのではないか? しかも今のような都市に生きるヒトには、自然界との関係がわかりにくい。 食べものは自分で獲らなくてもにカネで買えるし、他の生き物に襲われる心配もなく、排泄物もどこへ行くのかわからない。水は蛇口をひねれば出るし、電灯やエアコンで明るさや温度の調節もできる。 けれども我々は相変わらず様々な他の生き物を食べることで生きているし、排泄物は菌類・微生物によって分解還元されて、自然界に還っている。植物とは呼吸と光合成を通しても、酸素と二酸化炭素をやり取りしている。水や塩といった無機物も日々体のなかを通過しているし、地球の外からやってくる太陽光とは関係しないでいることなどできない。 こうしてヒトを単なる生物種の一種と見なし、自然界との関係を見なおそうという主張は、地球環境保護のために盛んにされてきては…

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我々は霊長類である

ミカンを育てていると、自分が霊長類だったことを思い出したりする。 ミカンの実は、花のあとに小さくついて少しずつ大きくなり、ちょうど手のひらサイズになった時に色も緑から黄色に変わって、食べ頃になったことがわかる。 手でもぎ取って皮をむくと、なかの房が各々一口サイズに分かれていて実に食べやすい。まるでヒトが食べるためにできた食品みたいで不思議だ。 大体果物というのは、味つけをせずに生で食べてるのにうまいところからして不思議なんだが。 昔々、我々霊長類は、主に熱帯地方で樹上生活を送っていた。が、数百万年から数千万年前のどこかの時点で、遺伝子に変異が起きて、体内でビタミンC(アスコルビン酸)を合成する最終酵素を欠いてしまった(他の哺乳動物はほとんどすべて、ビタミンCを体内で合成できる)。 霊長類は、本来そこで絶滅するはずだった(そのくらい、ビタミンCは不可欠な栄養素なのだ)。 しかし幸いにも、熱帯林の樹上にはビタミンCを豊富に含む”果物”があったので、霊長類は生き延びることができたらしい(というより、果物を獲れなかった種はそこで滅びてしまったんだろう。だから哺乳類のなかで、今いる霊長類だけが、色を見分けられるのかもしれない)。 しかし、森林からさまよい出て文明生活を始めたヒトは、かんきつ類をはじめとする果物を栽培しなければならなくなった。 さらに時代を下ると都市化が進み、果物は大量栽培や大量輸送で補われるようになる。 しかし、ビタミンCは「新鮮さ」の指標みたいなもので、収穫し…

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宇宙のことを考えてしまえば

宇宙や星のことを考えてしまえば、人間界で起きるたいていのことは、どうでもいいことのように思えてくる。 最近の東京では、自分の子供の頃に比べたら星なんか見えないに等しいが、ではその夜空に通っているはずの「天の川」とは何だろうか? 実は、我々がいる「銀河系」という円盤渦巻状の星の集まりを、その内部から見た姿なのだ。つまり「天の川」は「銀河系」そのものである、と。 45億年前に、この大きなうずの周辺よりのあたりで太陽という恒星が生まれて、いくつかの惑星がその周りを回りだした。それらのなかで内側から3番目にある惑星が、この「地球」なのだ。 当たり前だが、地球が1回公転する時間が1年なので、その後地球が10億回公転した35億年前に、この地球上にひとつの細胞ができた。それが最初の生物だ。 それ以降、細胞は分裂と結合を繰り返して、少しずつ大きくバラエティに富んだ組織を形作っていく。その過程で、植物が大繁殖したり、「魚類の時代」を迎えたり、恐竜が絶滅したりと、生物界も色々劇的な事件に見舞われたが、200万年前にはついにヒトが誕生するに至った。 そして今では概数すらつかめないほど多くの、ヒトが名前を付けることができただけでも200万種にものぼる生物種が、この地球上に散らばっている。 ヒトはそんな生物種の一種なのだから、「人間界」というのも、その生物種の数だけある「○○界」のなかのひとつにすぎないのだ、基本的には。 そして太陽が燃え尽きるまであと50億年という説に従えば、地球もその寿命の半分…

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それでも自然界は回っている

人間界でいかによからぬ事態が進行していても、自然界全体は相変わらずグルグルと回っている。 その自然界の一部分である生物界を大まかに三つに分けるのが、その回り方を説明するのに都合がいい。それが、動物と植物に菌類を加えた生物三界説だ(他にも分類法は色々あってややこしいんだが、ここでは微生物も含めた広義の三界説に従っておく)。 菌類(微生物)とは、例えばカビや酵母やきのこなど、ものを腐らせたり発酵させるなどして栄養を取る、植物のように光合成もしないし、動物のように動いて食べ物を取りもしない、言わば日陰者の一大生物群だ。 今の地球生態系においては、植物、動物、菌類(微生物)は各々、太陽の光で無機物から有機物を合成する「生産者」、それを食べて分解しエネルギーにする「消費者」、そして落ち葉や動物の糞尿も含めた有機物全般を無機物に戻す「分解還元者」とも言われる。 この第三の「分解還元者」がいて初めて、植物は根から無機物を吸い上げて枝葉を伸ばし、また光合成ができるわけだ。 こうして見ると、自分も含めた地球上のモノが、グルグルと循環していることがよくわかる。これが「有限なものを無限に使い回すシステム」などと言うものだが、自然界は大体こういう動き方をしている。 ヒトは古くから植物と動物の生物二界説を取ってきたが、物事は決して「生産→消費」なんていうふうに一方向に向かってないのだ。 人間界で言われている「リサイクル」も、こういう循環的な感覚にも根ざしてるのかもしれない。 一度使ったものは再利…

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男は家庭科を知らなくていいのか?

家庭科なんて小学校の時以来、男にはまったく関係ないものになってるが、ずっとこれを知らないままでいいんだろうか。 例えば、家庭科の教材として使われる、その世界では大変有名な『食品成分表』という本がある。穀類、菓子類、魚介類、野菜類、果実類……などに分けて、ありとあらゆる食品について、たんぱく質、脂肪、炭水化物、ミネラル、ビタミン‥‥等々がどれだけ含まれているのかが事細かに記されてるんだが(そして自分にはそれらが、一日どれだけ必要なのか、も)、これが面白い。 こういったことは、自分の体のためには不可欠な情報だし、何よりも普段食べているものに俄然興味がわいてくる(と言うよりも、これまであまりにも知らなさすぎた)。 さらにそれらが自分の体のなかでどのように血肉化されるかまで調べていくと、これはもう単なる栄養学にとどまらず、人体に関する生化学ですらある。 こうなってくると、食材の選び方も変わってくるし、栄養価に乏しい外食なんかするのが空しくなり、売られている食品についても、それらが獲られ作られ、加工され、流通されて、自分の体に入るまでの過程まで意識せざるをえなくなるので、人間社会の問題まで考えざるを得なくなってくる。 こういった家庭科的な知識や視点が、この国の男からはごっそりと抜け落ちているはずだ。そういう「大人の男」の価値観だけで動いている経済や政治は、「家父長的」に偏っていてよくない。

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歌う、踊る快感

単に、歌ったり踊ったりする気持ちよさには、何か特別なものがある。 まず基本的に、対立する他人の存在を前提にしない。これによって誰かがひとついい思いをしても、別の誰かがひとつ損をするわけじゃない。 それに比べて、競争的、敵対的、あるいはいじめ的な喜びというのは、必ず誰かの犠牲の上に成り立っているもので、全員がそれで喜ぶなんてことはできないし、長くは続かない。 そして、他人のマイナスを伴わない喜びというのは、人間全員がやっていても、人間界の貧富の差や敵対といった問題を生まないはずなのだ。 次に、元手がいらない。つまり、物を買ったりするわけではないので、なんらかの資源や財産の浪費の上に成り立っている楽しみ方でもない。これを人間界の全員が続けていても、他の生き物や自然界からの収奪も一向に進まないはずだ。基本的には。 そして、こういうことは単に本人が気持ちいいからやるんであって、そうすることで子孫を残せたり腹の足しになったりするわけではない。なんのためにこんな機能が体に備わってるのかわからないが、純粋に気持ちよくなければ、古今東西、老若男女を問わず、ヒトはこんなことをやってこなかっただろう。 つまりこういう楽しみ方というのは、大げさに言えば、個人の”生きづらさ”の問題も、人間界の”格差”や”戦争”の問題も、自然界の”環境破壊”の問題も一挙に解決に導く、というか、少なくともそれらの問題を悪化させるものではない。そういうところが特別なのだ。ヒトはそういう「自立的」な楽しみ方に向かって…

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「神」の代わりとしての「自然科学」

“神“を信じることができなくなってしまったヒト、特に我々近代人には、それに代わるものがなくていいのか?という疑問がないこともない。 ヒトは太古から、どんな人種であれ宗教や神話を作って、「自分たちがどこから来てどこへ行くのか」「この世界はどのように始まり、どういう構造をしているのか」「ヒトはどうあるべきか」といった疑問に答えようとしてきた。 こういう“真理”とか“善悪の基準”とかがわからないままではいられないらしい。 例えば、人間界で最も有名な神話であろう『旧約聖書』の冒頭の「創世記」には、神は、6日間で世界を創り上げ、7日目に休んだとか、ヒトにすべてを支配させるように言ったとか書いてある。 かなり傲慢な人間中心主義的世界観だが、こういった物語はどんな文化にも必ずあって(「大きな物語」とかいうもののなかでも最大のものだ)、信じられ、その文化や共同体を成り立たせてきた。 こういうものが信じられない場合ヒトは、つきつめれば「虚無主義」に立たざるを得なくなるんじゃないだろうか?(全然他人事ではないが、それでも、もはや信じられないものに無理やり落としどころを見出すよりは、よほどマシだと思う)。 そして、16・17世紀頃からヨーロッパに台頭して、結果的に、この宗教に取って代わることになったのが、自然界に関する学問研究である「自然科学」だ。 自然科学は、“万有引力の法則”だの“進化論”だの“相対性理論”だの、“量子力学”だの“分子生物学”だの……を見出したり発展させたりしながら、世…

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「共進化」という生き残り戦略

生物の進化史上で最も成功した例は、花(虫媒花)と昆虫の「共進化」なんだそうだ。 つまり、花は蜜という貴重な栄養素を提供して、ミツバチなどの訪花昆虫をおびき寄せる。ミツバチなどは花粉まみれになって蜜を集めて回ることで、花の受粉を助ける。これがここ1億年足らずの間により盛んに繰り返されていって、今地球上は花と昆虫であふれかえってるそうだ。 こういう互いに利益を与えあって、協力者の生存の機会を増やしあう互恵的な関係が、双方の種の繁栄のためには、最も持続的でマシな関係なのだ。 大体、こういう関係のありかたが「共進化」だと言える。 では、相手を滅ぼそうとしたり、戦ったりするやり方はどうか? がん細胞やエイズ・ウィルスは、生物ではないけれども一例としてあげれば、その寄生している宿主をどんどん蝕んで繁殖していくが、ついには宿主を殺してしまうため、その時点で自分たちも死滅してしまう。 同時に、抗がん剤やワクチンといった、相手からの対抗戦略も誘発する。 「戦う」「滅ぼす」という片方が一方的に利益を得るような戦略は、結果的にあまり利口なやり方ではない。「共進化」とまではいかなくても、せめて「共生」したほうがマシなのだ。 さて。ヒトは、ここ“数百年”の間に地球上で大々的に繁殖した生物種のひとつだが、他の生物に対してどんな戦略を取ってきたのか? どう見ても一方的に利を得る、「戦い、滅ぼす」戦略であって、だからこそ今になって「共生」なんてことが叫ばれてるんだろう。 ちなみに、ヒトという種のなかの…

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「翼を持つこと」と「根を持つこと」

これも前に書いたことだけれども。 見田宗介という社会学者の持論でもあるが、人は「翼を持つこと」と「根を持つこと」というふたつの根本的に矛盾する欲求を持っている。 自分なりに解釈すると、前者は束縛から逃れて自由になること、後者は何らかの共同体に帰属して安心することだ。 人、特に近代人は、地縁・血縁関係から離れて自由を求めるが、同時に孤立し、不安定で不安になる経験を多かれ少なかれ持ってきた。 そこで何らかの共同体に帰属先を求めると、今度はある程度、自分個人の自由は放棄しなければならない(ここで、国家などの権威や、「大勢の人たち」の画一性に自分を投げ出す、つまり「みんなと同じ」になる場合、E.フロムはそれを“自由からの逃走“と呼んだ。これは今、この国で起きている現象なのかもしれない)。 民族や国家といった特殊な括りが、対外的(あるいは排他的)な力を持つことができるのは、個人が自らをそこに投げ出し、ある程度犠牲になるからとも言えるのだ。 個人は「そこからはみ出さない」という足かせと引き換えにしか、孤独孤立からくる不安を解消できない。 ここに根本的な矛盾がある。 では、その矛盾を乗り越える方法はないのか? つまり自由でもあり、安心もできる帰属先を持つことはできるか? 見田氏はこう言う。 もし、その帰属先というかアイデンティティの置き所を、この自然界全体に置いたらどうか? それは、どんな部分的・観念的な括りでもないので、そこからはみ出す心配はないし、自己犠牲もいらいないし、排他性も生…

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今、ここの自然回帰

すでに何度か言ったことだけれども、我々が食べているものは、不思議とみんな他の生き物(の死体やその一部)だ。食べものも、プラスチックや金属の工業製品みたいに工場では作れないのか?とも思うが、これがどうしてもできない。 つまり、身のまわりがどんなに工業製品で埋め尽くされていても、我々はどうしようもなく「食物連鎖」のなかにいる生身の生き物なのだ。自然界のなかに含まれているわけだ。 「自然回帰」は、別に都会を捨てたり、エコツアーに参加しなくても、例えば、自分の食べてるものをよく見るとか、星や太陽や月を見上げて、この世界の恐るべき広さや自分のいる場所について、ちょっと考えてみるだけでもできるはずだ。そうやって、自然界とつながってる感覚を取り戻していくことは、「人間界」をマシな方向に向けるうえで、欠かせないだろうし、自然界に生じている問題(環境問題)にとってもいいだろう(なんてことを偉そうに言えた分際でもないが)。 しかし何よりも、人間界の価値観(例えば、勝ち組/負け組とか、国境線とか)を相対化できるので、自分的に気が楽になるのがいい。 そういう「今、ここの自然回帰」みたいなことが大事なんじゃないかと思う。 (ただし、政治の問題、特に憲法改悪のための手続きをやめさせることに比べたら、急を要することじゃないとも思うが)。  

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ヒトは死んだらどこに行くのか

またいきなりな話だが、自分の常識からすると、どう考えてもこの宇宙には”天国”も“地獄”も“あの世”もない(ついでに”神”もいないし”魂”もない)。 では、ヒトがこれまで地球上に何百億人生まれたのか知らないが、彼らはみな、どこに行ったのか? そして自分は、死んだらどこへ行くのか? 実は、彼らはどこにも行っていない。 どんな宗教や神話を信じている人であれ、事実としては、ヒトが生物である以上、他の生物とまったく同じように、分解・還元されて、有機物や無機物となってこの地球上に散らばったままなのだ。 つまり、”あの世”も”この世”も、ついでに”前世“も、すべてはこの”自然界”なのだ、事実としては(何をどう信じるかは個人の勝手だが)。 我々は、この自然界から物質を吸収して成長し、死んだらこの自然界に帰る。このことが、「自分が(最も根本的には)自然界に帰属している」という感覚の最大の根拠になっているかもしれない。 民族や国家や、あるいは会社といった人工的な共同体は、部分的な帰属先にすぎない、と思っている。 とりあえず、どんな人工的な環境に生きていても、ヒトが生物の一種にすぎないことは、(それから、どんなヒトであっても生物としてみたら大差はないことも)忘れたらマズイだろう。 まあ何と言うか、このテーマについては、とうてい一度には書ききれないし、今後もダラダラ書いていくことにしよう。

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