肯定される人間関係を見つければ人は幸せになる

今回はさらっと書いてみよう。 否定されている人間関係のなかにいることは、生きていて最もつらいことのひとつだろう。いじめを受けている人が自殺するのは、それが「死以下」だと見なしたからだ。家庭や職場で毎日のように否定されるのも、確かに最もつらいことに数えられる。 それよりは、一人でいるほうがマシである。肯定されない代わりに、否定はされない。 そしてそれよりマシなのが、肯定される人間関係のなかにいることだ。この状態を続けることができたら、それはもうかなり幸せな人生と言えるかもしれない(もちろん一定のお金は必要だが)。ただし、そこで否定されるようになるかもしれないので、危険はある。 たった一人でいることは、人間関係を持つことと対極にあるかのように言われているが、心理的には否定的な関係と肯定的な関係の真ん中あたりにあるわけだ。自分は人間関係すべてが嫌なのだと思っていた人も、「否定される関係」が嫌なだけで、「肯定される関係」であれば大歓迎なのかもしれない。 その先には「褒められる」「羨ましがられる」という段階もあって、この状態にある人はまず自殺するとは思えない。そのくらい生きるうえで軽視してはならない本質的なものが、「褒められる」のなかに入っている。それを口にしない決まりになっているのも面白い。が、それについてはまたの機会にしておく。 周囲から肯定されていることは、その場所を自分の居場所だと感じる決定的な要因になる。人間関係があっても、否定されているならば、人はいたたまれなく感じるのであって、そこ…

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映画『わたしに会うまでの1600キロ』と不安をあおる社会

正月には何か一本、放浪ものの映画(ロードムービー)を観ることにしている。今年観たのは『わたしに会うまでの1600キロ』だった。 【ここからネタバレ】主人公が母の死から自暴自棄になり、性依存症や薬物依存に陥ってしまい、経験もないのに無謀にもパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)の踏破、つまり数か月に及ぶ過酷な長距離の山歩きに乗り出す話。道中の宿泊はほぼ、人気のない場所でのテント暮らしで、水や食料の不足、雪や野生生物に悩まされる。あまりにも過酷すぎて、死んでしまってもおかしくないなと思うほどだ。【ネタバレここまで】 これはアメリカ女性作家の伝記の映画化で、正直に言えば、実話ゆえに話の出来はそれほどでもない。それでも見ているだけで爽快な気持ちになるから、放浪もの映画は素晴らしい。我々の日々の暮らしには、こうしたものが必要なのだ。 今の日本の社会は、不安をあおる情報ではちきれそうだ。病気や事故の不安、老後、生活、災害、等々。もちろんもともとはどれも必要な情報であり、善意で流されていたはずだ。そのくらい警告するのが適当というものも、なかにはあるだろう。ただ全体的に見れば、適量を超えても止まらなくなっているのが今の状態と言える。 「公園での禁止を増やす自治体の心理」的なものの作用はある。あれもこれも危険だ、やめておけと言っておけば、社会全体が窮屈になったとしても、自分は責任追及を免れる。それは別の形の無責任でもあるのだ。 また、「不安情報は人の目を引くことを知っているマスコミの心理」的なものの作…

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ベタベタした人間関係がいいわけではない

自分は親とは仲が悪くはないが、そんなに頻繁には会わないことにしている。あくまでも時々会うだけだ。なぜか。それは、近づきすぎると必ず、ああしろ、こうするなという特有の嫌な面が出てくるからだ。これまでにもそれで、何度も決裂して、そのまま絶交しそうになったこともあった。そうした経験をふまえての、互いの知恵なのだ。(もちろん今後どうなるかはわからないが)。 これは人間関係を考えるうえで、とても重要なことだ。人は、あまりに近づいていると、好感だけでなく「嫌だ」という感情も湧くものだ。人間は誰でも聖人君子ではないのだから。いつも口では聖人君子のようなことを言っている人間でも、近づいてよく見れば普通に醜い面を持っているのがわかる。 では、学校の人間関係はどうだろう。細々とした班、係、掃除、給食、学級会、朝礼、体育祭、文化祭、合唱祭、そして部活動。考えてみれば教科以外にたくさんの活動があることに気づく。うちは勉強だけ教えますという大学にはまったくないものだ。「特別活動」という日本独特の教育法である。あれらは道徳教育でもあり、「みんな仲良く」の教育とも言える。いじめへの対策として、特別活動をもっと活発にすることも提唱されている。 けれどもこういう対策には、人間の悪い面が見えていない。こんなに朝から夕までベタベタさせていたら、誰でも「嫌い」の感情が出てくる。それがいじめにもつながる。いじめの温床を自分たちで作っておいて、いじめをゼロにしようとしているのだ。もちろんうまくやれる相手となら、どこまでも親密になればい…

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異性とつきあったことがなかった話

男女一対一のつきあいをこの社会が褒めたたえすぎていることについても、見直すべきだとかねがね思っていた。 自分は30歳くらいになるまで、異性とつきあったことは一度もなかった。最大の理由は、高校から大学という普通なら一番異性とつきあいそうな時期に、心の病の関係で対人関係が非常にやりづらかったから。症状の重い期間は、そもそも異性とつきあいたいという気持ちがない(病んでいる人が皆そうだとは限らないが)。別に異性が嫌いではないし、話もする。けれども、そんなに重くない時期でも、男女一対一でつきあうのは対人不安を押してまではしなくていいかと思いつつ、結局引いてしまうというところだった。 30歳くらいになってつきあうようになったのはなぜかと言うと、書いた本が売れて雑誌などで散々持ち上げられたため、異性同性を問わずそれまでは知り合えなかった、気が合う人、話が合う人と格段に知り合えるようになったからだった。 ただしこれは、心の病とかそういう特別な話にしたくない。自分としてもそれだけではない。無理につきあわなくてもいいか、くらいに思っている人は、今の世の空気のなかでは言えないだけで、実はたくさんいるのではないか。そもそも、そんなに皆が皆、一対一で異性とつきあいたいと思うかどうかが怪しい。またあの、異性の目を気にして、自分をよく見せようと努力すること(カッコつけたり、かわい子ぶったり)をよしとする文化が嫌な人も多いだろう。自分にもそれはあった。 そもそもこの社会では、「若者=男女一対一の恋愛」というイメージが強す…

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巨大台風が来ると盛り上がるわけ (みんな一緒編2)

巨大台風が来ると盛り上がる話の三回目。前々回になぜ盛り上がるのかを、「非日常的なものにみんなで飲み込まれる」からだと書いたが、ここでは「みんな一緒に」の部分について。前々回も書いたが、巨大台風が来る時に盛り上がる心性は、不謹慎と切り捨てられるようなことでもなく、考えるべき大事な問題だ。 まず言えるのは、巨大な台風が東京を襲う場合、こんなにみんなで同じ経験をする機会はめったにないということだ。台風が通過している最中、東京にいるおそらく全員が暴風雨のことを心配しただろう。自分もネットでどの川が氾濫しそうなのか、飽きることなく検索していた。 「みんな思いが一緒」だと感じた時、何であれ涙が出るような熱い気持ちにならないだろうか? そこに、みんな動きが一緒、格好が一緒が加われば、熱さはさらに増す。これは社会的動物である人間に元から備わっている性質なのだと思う。だから、悪いものとして切り捨てることなどできない。 我々は日々、「みんな一緒」になれるチャンスを求めている。ライブ会場やスポーツの会場などは、以前よりも「みんな一緒」になっているように見える。ライブで全員が手を上げて左右に振る習慣や、スポーツ観戦でのウェーブなんかは以前にはなかった。ひとりのリーダーを壇上に上げて、大勢でワーッと歓声をあげると、何であれ、胸が自動的に熱くなるだろう。 人間は「みんな一緒」を肯定しているのか否定しているのか、まだよくわからない。それを決めていない。ただ今の日本について言えば、個々バラバラよりはみんな一緒のほ…

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巨大台風が来ると盛り上がるわけ(みんな一緒編1)

「この特殊なメカニズムは、現代社会において、大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとが彼に期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界の矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える。」 「個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一になった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。」 これは、社会心理学者E・フロム『自由からの逃走』(1941年)の一節。彼は大衆社会やファシズムに熱狂する人々の心理を研究して、この歴史的名著を書いた。彼はナチスによってドイツを追われ、この頃はまだナチスの全盛期だった。ただし、ナチスのことを中心に語っている本ではない。この本の趣旨は、自由を追求すると人は孤独で不安になるというもの。ここは、人がどのようにそこから逃れようとするかの三つのメカニズムのうち、どの社会でも人々が最も普通に取っているやり方を述べているところだ。つまり大衆の心理について語っている。ここは自分がこの本のなかでも一番気に入った部分で、大学のレポートなどに何度引用したかわからない。 さて、すでにここまでで長くなってしまった。巨大台風が来ると盛り上がる話の続きを書こうと…

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巨大台風が来ると盛り上がるわけ

「私はその写しを自分の手にうけとって、目を走らせる暇もなく事実を了解した。それは敗戦という事実ではなかった。私にとって、ただ私にとって、怖ろしい日々がはじまるという事実だった。その名をきくだけで私を身ぶるいさせる、しかもそれが決して訪れないという風に私自身をだましつづけてきた、あの人間の「日常生活」が、もはや否応なしに私の上にも明日からはじまるという事実だった。」これは、三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』のなかの、主人公が敗戦の知らせを受け取った時のくだりだ。 超大型台風の19号が迫ってきた時のことを忘れないようにしたい。「地球史上最大かもしれない」という情報まで出て、気象庁が「命を守るための行動をしてほしい」という異例の声明まで出した「関東直撃」の台風だった。前日までに、ガラスを補強するための養生テープとパンがスーパーで売り切れてしまい、空の棚の写真がTwitterに出回って大々的に拡散された。同じくTwitterでは、自発的に備えや「命を守る行動」を呼びかけるツイートが大量にリツイートされた。「盛り上がっている」と感じた。 盛り上がっているという言葉だけで、こうした感情を「不謹慎だ」などと押さえつけてしまっては、大事なものを見逃してしまう。被災者支援の盛り上がりだって、これと地続きの感情によるものだと思う。台風の真っ最中には自分もtwitterで、どの川が氾濫しそうなのかを「〇〇川 氾濫」のワードで検索しつづけていた。これもその盛り上がりなのだ(Twitterばっかりだが)。 「非…

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ムンクに見る心を病むことの価値

絵のよさがよくわかっていない小学生か中学生の頃、図書館で暇つぶしに色々な有名画家の画集を見ていて、「このムンクという人だけはすごくいい」と思った。あの『叫び』で有名なE・ムンクだ。ただ画集の終わりのほうになると、妙に明るい凡庸な作品が出てきて、何だろうと思ったものだった。 E・ムンクは精神を病み、その強い不安や恐怖を絵に描き出すことから、『叫び』や『不安』といった傑作を生みだしていった作家だった。けれども後年、ムンクは精神病院に入院し、精神病は治ってしまった。その後の彼は、明るい色彩を使って、内面ではなく風景画などを多く描くようになった。もちろん当時も今も評価されているのは、その苦悩のなかから生み出した作品だ。 “生命”を前向きにとらえるようになったムンクは自分の感情を描くのではなく、身の回りの見たものを描くようになります。彼のパレットには明るい色が並び、作品を覆っていた陰鬱とした頽廃感が薄れていきます。【生と死を見つめた画家】エドヴァルド・ムンクの生涯を詳しく解説します! 今は、たとえ彼が後世に残る作品を生み出さなくなったとしても、病気なんか治ったほうがよかったと思う。けれども初めてこれを知った時は、ムンクは治らないほうがよかった、などと思ったものだ。こういうケースは音楽ならザラにある。 自分はもちろん、心の病に限らず、人生の苦労など少なければ少ないほどいいという主義だ。けれどもこれまでに触れた本(自分のではなく)、音楽、映画、芝居、絵、など、どれを取っても、自分の人生において最…

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サルトルの『壁』と「生の不安」への向き合いかた

サルトルの『壁』という短編小説は、おそらく自分の人生における最も重要な小説だ。けれどもこれまでトークや原稿などでは、この小説の性質上ネタバレになってしまうので、まともに語ることができなかった。それでもブログなら、ネタバレしてしまっても書けることに、前々回のブログを書いて気づいたのだった。 ちなみにサルトルという思想家については、それほど多くを知らない。むしろ同期のカミュのほうが好きだ。第二次大戦の前後に世界中に大変な影響力を持ったようであるフランスの実存主義の思想家・作家で、『壁』は彼の代表作だ。 【ネタバレ】主人公ら3人は、スペイン内乱でファシズム勢力に実力抵抗していたが、捕まって同じ部屋に閉じ込められた。そして、明日の朝には銃殺されることを告げられた。銃殺は確実である。そこから3人の極限の恐怖の一夜が始まる。3人は殺される瞬間の苦しみや、この自分が死ぬという恐怖に取り憑かれ、ひとりの少年は精神の限界を超えて、錯乱から、気絶したような放心状態に至る。夜が明けると二人は連れ去られ、処刑されたのだろう。主人公も極限状態にいるが、彼だけは別の部屋に連れていかれ、反乱軍のリーダーの居場所を尋問される。このあたりから彼に変化が起きる。なぜか、少しずつ笑いがこみ上げてくるようになったのだ。彼はリーダーの居場所など言う気はない。尋問が続くうちにますます笑いがこみ上げる。彼はこう思う。「何もかもくだらなくなってしまった」。(直訳すると「もはや何も重要ではなくなった」)彼はでたらめな居場所を教えることにした。…

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映画『英国王のスピーチ』に見る対人不安の解決法

『英国王のスピーチ』というアカデミー賞作品賞まで取った映画が、社交不安障害や吃音症をテーマにした実話で、とても考えさせられる。ちょっとネタバレしてしまうので、見ると決めている人はここから先は、見た後で読んだ方がいい。 【ネタバレ】スピーチの場だけでなく、日常的に対人場面で緊張してしまって、言葉が出なくなったり、どもってしまったりする英国王子(後に国王)が、それを克服しようと悪戦苦闘する映画だ。そして、”I have a voice!”という自分が発した言葉を転機に変わる。その日本語訳がおそらく訳者の意図を超えて、偶然核心を付いているのだ。「私には伝えるべきことがある!」。これが字幕に出る訳である。”I have a voice!”は直訳すれば、「私には話す権限がある」だが、訳はこうなっている。このことが、偶然なのかもしかしたら意図的なのか、吃音症の治療の主眼としてよく語られることなのだ。声が震えるかどうか、つかえてしまうのではないかということよりも、相手に何かを伝えるために話すのであって、そこがすべてだと思ってしまってはかえってうまくいかなくなる。英国王のスピーチと吃音臨床について書かれた、吃音専門のブログ【ネタバレここまで】 吃音に限った話ではなく、日常におけることすべてにおいてこれは言える。例えば、動きがぎこちなくなってしまうとか、どぎまぎしているのを見破られて変に思われるのではないかとか、対人場面に限らず、何か取り返しのつかない事態に至ってしまうのではないかとか。こんな不安は、大なり小な…

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80年代のネクラ嘲笑文化、陰口文化

80年代に大人気だったビートたけしのオールナイトニッポンは、メインがきよしや軍団をはじめ身近な人間の嘲笑や陰口だった。大島渚や村田英雄など、有名人をしつこくバカにすることも多かった。それに大なり小なり影響されて、教室でも口調まで真似して、他人の観察と嘲笑に明け暮れていた。誰があの時変なことを言った、誰は笑っちゃうなどとたけし気取りでしきりに言っている本人自身も、それによってますます危険になるのだから、実にご苦労なことだった。こういうのは、高校にも大学にも、そして職場にもいた。 たけしほどではないものの、80年代に人気のあったタモリのオールナイトニッポンでも、ネクラ嘲笑を芸としていて、極めてよくなかった。よしとされたのはネアカな性格である。考えとか思いやりとか、そんなことよりも、とりあえず人当たりが明るいか暗いかで、その人の集団内での評価が決まってしまった。ネクラ嘲笑/ネアカ賛美は、もともとタモリが言い出したなんてことは気づかれないほど、広く社会全般に広まった。今は「陰キャ」という言葉がある。それもあまりよくないと思うのだが、クラスなどの集団のなかのポジションを指す言葉なので(「俺は中学では陰キャだった」など)、嘲笑の言葉である「ネクラ」とはちょっと違うように思う。 滅多に振り返られることもないが、こういうものは、個人の生きやすい/生きづらいを決定的に左右する。ああいう放送は今は無理だと思うので、いい時代になったものだと思う。 「バブルの時代はよかった」「80年代は幸福だった」。一面的…

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西伊豆・田子瀬浜のシュノーケルと冒険の効果

西伊豆の田子瀬浜でシュノーケリングをしてみたのだが、ここにもそこそこサンゴや熱帯魚が見られることが分かった。ここの特徴は、海岸の向かいに泳いで行けるところに尊之島という小島があって、その周りを勝手に見て回れるところだ。魚を見るのに砂浜はまったく必要ないので、こういう場所はシュノーケルに絶好と言える。 尊之島では静かな右側のほうにどんどん進んでいくと、ソラスズメダイの群れがたくさんいた。西伊豆独特の切り立った岩や岩穴があり、そこを海中を見ながらくぐるのも面白い。サンゴは島よりも海岸の右側に多かった。南伊豆のヒリゾ浜ほどではないが、こちらは広々としているところがいい。 こういう好き勝手な場所でやるシュノーケルを、『ロンリープラネット』に倣って「DIYシュノーケル」と呼んでいる。魚が多い場所を探すとなると、どうしても人気のない「行ってはいけない場所」になってしまうので、DIYシュノーケルには冒険・探検の要素が入ってくる。道かどうか怪しいところをかき分けて海に入ることもある。 熱帯のジャングルでそんなことをやっていた時、海にも出られず、戻る道もわからなくなり、本気で死ぬかと思ったことがあった(GPSがあっても)。潮の流れが速くて、流されそうになったこともある(泳いでも泳いでも潮の流れがほぼ同じくらい)。大抵は濡れた岩場を歩いて海に出るので、よく滑って転ぶし、いつか骨折するだろうな、海外で骨折したらどうなるんだろう、などと思っている。それでも自分は相当慎重なほうだと思っている。やる人は十分注意しましょ…

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不審者通報を「する側」と「される側」の違いって何なの?

川崎での殺傷事件があった頃Twitterで、「公園のベンチに座っていただけのおじさんが、ママ友集団に不審者通報された」という事件が批判的に広まったことがある。 公園のベンチに座っただけで通報されたおじさん 不審者扱いの理由は「普段は見ない人。スマホを使っているから盗撮かも」 (キャリコネニュース)驚いたのは、それに対して「悪くない、どんどん不審者通報をしよう」というツイートもまた、拡散されたことだ。興味深いのでそうしたツイートも色々漁って読んでしまった。ネット右翼など、特定の考えの人たちが言っているわけではなく、多くは「子供を守るため」「犯罪をなくすため」という正義感を持った人たちのようだった。 自分が疑問を持ったのは、そうした発言のすべてに、通報される側にいる人々のことが、まったく頭にないことだった。そして不審かどうかの判断を、通報する人間が完全に恣意的に行えることへの疑問もない。 不思議な気持ちになった。同じ地域に住んでいる人間のなかで、なぜ一方には自らを「通報する側」という特別に有利な立場と自認している集団がいて、もう一方には「通報される側」という不利な立場に置かれる人間が生じるのか。もちろん自分は後者に入るし、「平日昼に地域をウロウロしている高齢者でない男」は、皆そうなりうる。一人でいる、子供を連れていない、など他にも色々あるだろう。逆に、「子供を連れたママ友集団」は絶対に通報されないと断言できる。 地域における「生きやすさ」は、すでにそのくらい違っているのだ。近隣の目を怖がること…

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川崎殺傷事件報道があおる「自殺したい人」への偏見

「自殺をする人は他人を殺しかねない」。川崎の殺傷事件を「拡大自殺」などという自殺の一形態と見なす報道によって、こういうイメージがまき散らされた。拡大自殺とは、自殺したい人が他の誰かや社会に恨みを持っている場合、まずその相手や見知らぬ人を殺してから自殺することを言うらしい。 その拡大自殺の提唱者である片田珠美氏が、その説の元にしているのが、「自殺とは他人を殺したい願望が自分に向かった形である」という「自殺と他殺は表裏一体」説なのだ。その説は彼女の著書『拡大自殺』のなかでも説かれている。こういうおかしな仮説は「死にたい人」に対して、人殺しをしかねないという偏見を生んできた。 こういうことは、傾向としてあると言えるのだろうか? 実際に、数え切れないほどの自殺者の事例に当たり、まわりの死にたかった/死にたい人の話を聞き、何よりも自分が死にたいと思っていた時の経験から言うと、自殺したい人が他人を殺して恨みを晴らしてから死のうとするケースは滅多に見られないと言うほうが正しい。 自殺しようとする人も、「どうせ死ぬのだから何でもできる」などと思っているわけではない。もちろん例外はあるものの、死体の見栄えや迷惑をはじめ、自分の死後のイメージを強く意識するものだ。そもそも、自分の今の苦しみと死と格闘することで精いっぱいで、その前に復讐のために人を殺すという一大事を持ってくるエネルギーなどない場合が多い。 もし日本の自殺者のわずか1%にでも、こうした復讐の殺人を犯す傾向があるとしたら、毎年200~300件の「復…

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エジプトの駄弁り文化はすさまじい

エジプトに少し長めの旅行に行ってきた。自分は旅行中、そこに住んでいる人の暮らしに触れるのが好きなので、地域の屋台や小さな飲食店にばかり行っている。地元の人が乗りこなす小さなバスにもよく乗る(料金は15円くらい)。自転車や徒歩で、住宅地みたいなところを見て回るのも好きだ。 今回そんなふうに見ていて驚いたのが、都会でも地方でも盛んな駄弁り文化・カフェ文化だ。カフェは夕方から夜にかけて、駄弁る人々で一杯になる。カイロのカフェが集中している地帯では、ざわざわと話声が響いている。地方ではサッカーの中継を大画面で見る人も多い。街頭テレビといったところか。平日昼でも、水タバコを吸いながらのんびり話していたり、独特のボードゲームをしていたり。カフェに限らず、街頭や公園のそこかしこに腰かけて、あるいは連れ立って歩きながら、延々と会話をしている。大通りでない路地にも、子供も大人も人が溢れていて、彼らがまた立ち話をしている。 インドネシアをはじめ東南アジアでもよく感じたのだが、平日でも人々が夜に連れ立って外に出て、延々駄弁るという文化がある。学校や職場しか行くところがないような社会とはまるで違う。エジプトは物質的には豊かな国とは言えない。失業率も高い。そんな場所で何か楽しめることと言えば、やはり会話ということになるだろう。何しろ無料だし、昔から親しまれてきた娯楽だ。もしこの会話を毎日数時間でも心から楽しんでいるなら、他に何もいらないかもな、と思える。 もちろん、旅行者にはわからない仲間外れ、いじめ、敵対はあるに決…

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弱者認定をしてもらうことへの違和感

日頃から自らの弱さの公開はとても大事だと言っているし、自分でもそれをやってきた自負はある。けれども、自分はこんなにかわいそうな立場なんですよと世間や周囲に認めてもらおうとするのは、自分としてはちょっと違う。例えば、自分は精神病だと言うことで、進んで弱者カテゴリーのなかに自分を押し込んでいけば、「かわいそう」というある種の特別扱いをしてもらえることは予想できる。けれども、それはとてもムズムズする違和感のあることなのだ。今は本当に色々な精神障害が認められるようになって、それは掛け値なしにいいことなのだけれども、注意すべきところもある。 ミシェル・フーコーというフランスの思想家は、狂人と言われた人が古くから今までに、ヨーロッパでどんな扱いを受けてきたかを研究した。かつて狂人は、村のなかで自由にしていたり、後には犯罪者や物乞いなどと一緒に収容所に閉じ込められていた。それが18世紀末から「精神病者」という「病人」として扱われるようになって、今に至っている。それはいいことではある。けれどもフーコーは、まさにここに大きな問題があると考える。狂人と呼ばれていた人が、病気で判断能力がないとされ、社会的な責任を免除され、精神科医の子供のように扱われるようになるからだ。狂人はかつて、我々の「理性的にまとまった判断」を脅かす、不安にさせる、それなりの一個の存在だった。けれども、それですらない「かわいそう」でしかない存在になったわけだ。 これと同じことを、弱者認定の問題に感じる。自分が90年代に、弱さを公開しつつも、弱…

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「貧乏暮らし」ではなく「簡素な生」ーー『清貧の思想』から

ミニマリスト、小屋暮らし、モバイルハウス(車上生活)、隠居、、、これらは、お金や物にとらわれない新しい生き方として注目されがちだが、志向されているのは単に貧乏ではないだろうという話。フリーランスやあまり働かない選択、「プア充」などについても言える広い傾向について。 『清貧の思想』という90年代のベストセラーを久々に読み返すと、そのあたりのことがはっきりしてくる。この本には、松尾芭蕉、良寛、西行、鴨長明、吉田兼好(註1)といった、日本を代表する世捨て人たちの価値観を、「日本文化の精髄」として紹介している。そこで強調されているのが、著者が「清貧」という言葉で言おうとしてるのは、単にお金や財産を持たないことではなく、「簡素な生」のことだということ。(註1)彼らは低い身分ではなかったので、最低限のお金は持っていたと思われるが。良寛以外は。 その価値観においては、お金や財産はひとつの要素にすぎず、地位、人間関係、業績、他者評価、将来、過去など、自分の外にあるものすべてを、自分の幸福の根拠としない。つまりは、「現在」と「自分」の充足を重視した。そしてこうしたシンプルさを重んじる感覚は、決して彼らのような特別な立場の人間だけのものではなく、庶民にまで広く行きわたっていたそうだ。(註2)もともと仏教とともに来た考え方だそうなので、大陸にも大きな流れとしてあったはずだ。 これは今の傾向にも言えることだ。日本にもアメリカにもこんな傾向があり、物にあふれた時代を経験したことや、リーマンショックのような経済破綻を目…

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世間に背を向ける者はいつの時代にもいる

正月にはいつも、世間に背を向けたはぐれ者が放浪の旅をする映画を観る。アメリカン・ニューシネマというジャンルにこの手の映画が多く、『イージー・ライダー』はその代表だ(註1)。「自分の人生なんだ。好きなように生きていいんだ」というスカッとした気分になれる。 (註1)他に『バニシング・ポイント』『明日に向かって撃て』『俺たちに明日はない』『さらば冬のかもめ』『スケアクロウ』など。『テルマ・アンド・ルイーズ』『モーターサイクル・ダイアリー』なども。 今年観たのは、『イントゥ・ザ・ワイルド』だった。ネタバレになるので多くは書かないが、大学を卒業した実在アメリカ青年が「この人生」「この生活」に疑問を持ち、本当の生き方を求めて放浪と荒野の一人暮らしをする映画だ。まあ面白かった。自分はこういうタイプの人や映画に強く惹かれる。 世間やこの人生・この生活に嫌気がさして放浪や自然内独居に向かった例は枚挙にいとまがない。ソロー、ランボー、ケルアック、鴨長明、松尾芭蕉、、、など時代や地域を問わず無数にいる。今の小屋暮らしやモバイルハウスも、その系譜に入るだろう(註2)。(註2)ただ、ソロー、ケルアックの作品については、そんなに面白いと思っていない。 実は、今のひきこもりの人たちも、ある意味、こうしたものの一形態ではないかと考えている。放浪も自然暮らしもできないなら、部屋に閉じこもるのが「脱世間」のやり方だからだ。メンタリティーは共通している。江戸時代以前の出家する僧侶や、現代のミニマリストにも、共通するものを感じる…

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「集まりたい」という人間の巨大な欲求

「本当のところを言う」のが10代のころから、大事なことだと思っていた。弱い面、うまくいっていない面があれば、そう言う。誰もがそうしていれば、無駄な憧れ、嫉妬、劣等感、やっかみ、反感なんかも相当減るだろうと思う。 先日、無料放出アクションの0円ショップで、通りかかった男性がこう聞いてきた。 「いや、なんで、なんでね、こんな寒い中で、こういうことやってるんですか?」 その質問には、挨拶ではない真剣味が感じられたので、こう答えておいた。 「こうやって集まったり人と会ったりしてるのが楽しいんですよ」 これはあくまでも数人のメンバーのなかの自分の意見にすぎないし、他にも答えようはいくつかある。捨てるしかないと思っていた物を、他の人が喜んで貰っていくのは、本当にスカッとする。おすそわけ経済の推進のためでもある。けれどもそれは、「本当のところ」2番目以下だ。もしこの時に、「地球環境のため」等の高邁な理念を言ってしまったら(もちろんそれもあるが)、あの人はどう思っただろう。 「宗教みたい」 こう思うのではないか。これはまったく謎の感覚で人が動いている時に浮かぶ、代表的な考えだ。自分たちの0円ショップが、そう思われていた面もあるとも聞いた。 世の中には無数の、高邁な理念を持つ無償の活動がある。支援のボランティア活動とか。それらも「集まるのが楽しい」、そして「何かやりたい」「何もせずにいるのもつまらない」、さらに「どうせやるならいいことをやりたい」といった動機から行われている側面が大きいと自分は見る。…

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人生は「偶然」で決まっている

大阪から新潟の佐渡島の田舎に移住した友人家族が遊びに来てくれて、佐渡暮らしの話を聞かせてくれた。近隣の農家の作業をローテーションで手伝いながら収入を得ている話など、どれもとてもためになる。特にはっとしたのは、次の話だ。 彼の地では仕事も暮らしも、自然環境に大きく左右されるので、住んでいる人はあきらめがいいそうだ。台風で果樹の実がみんな落ちてしまって致命的な大損害のはずなのに、「まあしょうがねえか」とあきらめが早い。自分にはどうしようもない力のせいなのだから、それも当然だ。そんな空気が、もともと心を病んで移住を決意した友人の精神面にもいい影響を与えているという。それを聞いて思い出した。 よくない結果が起きた時、我々はその原因を、自分か他の誰かかの二択で考える。「あの時ああしていれば」と際限なく後悔し、「あいつのせいで」と他人を恨み、過去にとらわれる。そして、もっと慎重に先々の計画を詰める。 けれども、自然に包まれた暮らしでなくても、我々の人生は、どうにもならない「偶然」や「運」の力に左右されていたんじゃなかったか。そもそも、生まれる土地や家族が選べない。そして、たまたま同じクラスになった友人、偶然知り合ったパートナー、たまたま採用された会社、偶然見つけた住まい、などの影響力がどれほど大きいことか。病気になって死ぬのも偶然の要素が大きい。こうした大きな偶然の力に比べれば、自分が決められる部分などごく一部とさえ思える。 あの人の人生も、この人の人生も、たまたまそうなっているだけだ。現代人はものご…

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