「危ない」だらけのフィリピン、生き生きした感覚をなくした我々

フィリピンのセブ島とその近辺を、10年ぶりに2週間ブラブラしてきた。日本とはまるで違う「危ない」だらけの場所だった。けれどもそれが嫌だったかというと、そうでもない。それどころか、歩いているうちに生き生きしてきた。我ながらつくづく考えてしまった。 「危ない」だらけとはどういうことか。まずは犯罪だ。例えばセブ島最大の都市セブシティのダウンタウン(貧困地区)。ここの目抜き通り(コロン通り)や巨大マーケット(カルボンマーケット)は、ガイドブックでも行ってはいけないとか、車から見るだけにしておけと言われるところ。確かにスリはいるようだ。歩道ですら満員電車状態なので、カバンは前でしっかり持っていたほうがいい。ストリートチルドレンのたかりも多くて、子供だからと安心してはいけない。けれどもダウンタウンはとても広くて、むしろこの街のメインだ。スラムではなく普通の人々が暮らしているのだし、行ってはいけないなどという扱いはちょっと腹立たしくもある。 そして食べ物の菌。これ以降は大都市ダウンタウンでも、地方都市・田舎町でも同じだ。屋台では店頭に一日中食べ物を出しているので、衛生的には日本ではアウトだろう。加熱もせず日が当たったりしている。けれどもこの屋台飯が異様においしいので、腹をこわすぞと言われるがこればかり食べていた。 そして事故・怪我の危険も多い。10年前に比べれば横断歩道・信号は増えたものの、まだまだ多くない。車が通らないタイミングで道を渡るのは当たり前だ。自分はレンタルバイクをよく借りていたが、ま…

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ふざけていることの価値、パンクの魅力

自分にとってのパンクとは、大まかに言えばセックス・ピストルズだった。わりと普通のことだが、最初に聴いたパンクが彼らの『アナーキー・イン・ザ・UK』だった。中3の頃ラジオから録音したのだが、なぜか『The Great R&R Swindle』のほうのバージョンだった。 Anarchy In The UK 「ピストルズですごかったのはボーカルの歌い方だ」とよく言ってきた。最初は英語を歌っているとは思っていなかった。「アーイヤイヤイ、UK!」みたいな掛け声と、片言の英語かと思っていた。なのでちゃんと英語を歌ってるとわかったのは、もっと後のことだった。そして歌がない部分では、笑ったりべらべら喋ったりしている。なんてふざけてるんだと衝撃を受けた。 熱い、悲しい、怒った、カッコいい、深いなど色々な曲を聴いてきたが、ふざけてるというのは滅多になかった(少なくともロックでは)。もっとも、本当にふざけてやったものは、もっと別の質の低いものになるので、彼らは「ふざけているように見えるように」熱心にやっていたと言えるのだが。 その『Swindle』の他の曲もふざけたものばっかりで、ヘビロテだった。ダムドにいたキャプテン・センシブルのソロ大ヒット曲『ハッピー・トーク』(パンクなのに!)なんかはふざけすぎていて、今もよく聴いている。ここまでではなくても、パンクにはこうした良き「いいかげん」のテイストがしみ込んでいる部分が多くて、特に酒を飲みながら聴いたりすると、何もかも笑い飛ばしているような気分になれるのだ…

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対人恐怖症は「大人になれないせい」と見なされていた

吃音(どもり)の原因が、かつては家族や本人のせいとされていたことを、ひきポスというひきこもりのサイトの記事で知った。記事を書いた人はそれをこのままにしたくないと語る。不登校と吃音の共通点 これを読んで、対人恐怖症(社交不安障害)にも似たような過去があったことを書きたくなった。 対人恐怖症は少なくとも80年代まで、本人が「大人になれないせい」で生じる病理現象とされていた。「本人の未熟さのせい」と言いかえてもいい。当時の精神病の本には、「友人とはたがいに信じあうものなのに、その友人が怖いなんてなんと子供なのか」なんて書いてあるのだ。アホか。 いや、対人恐怖症だけではない。たいていの恐怖症(強迫神経症)や不安障害も「大人になれないせい」だった。うつや怠惰まで「アパシー」と呼ばれ、「大人になれないせい」にされた。「不登校(登校拒否)」ももちろんこのくくりのなかに入る。自分も以前に少し書いたことがある。「大人になれない若者」批判が流行っていた ではどうすれば「大人になった」と認めてもらえるのか。それは「社会性を身につけること」なのだ。具体的に言えば就職する(社会に出る)ことだ。「社会に適応できる」こと。学校に行けないなら、行けるようになること。「内向性から外向性へ」みたいにも言われてもいた。自分の内面世界に閉じこもって、営業マンっぽくなれない人はダメなのだ。これは内面世界全般を否定されているようで空恐ろしかった。そしてそれができない者は「精神病」という病気であり、治療をして「社会性を持っ…

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それでも「人に迷惑をかけてはいけない」

「人に迷惑を?」と聞いたら、今では「かけていい」という答えのほうが多く返ってきそうだ。そのくらい「もっと人に迷惑をかけていい」は流行りの言葉になっている。これにはさすがに当惑する。 なぜなら自分が世の中のルールで一番大事なのは、「人に迷惑をかけてはいけない」だと思っているからだ。相手に迷惑行為をしたり、嫌がることを言ったり、殴ったり、殺したり、、、人に迷惑をかけていいなら、他に何か禁じるべきことがあるだろうか。 「人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい」むしろこう主張したい。なんて胸のすく言葉なんだ。人に迷惑もかけていないのに、ガ―ガ―と非難することが多すぎるのだ。 いや、もちろん「人に迷惑をかけていい」の真意はわかっているつもりだ。そう言っている人は、「もっと人に助けて(手伝って)もらっていい」と言いたいのだろう。その言葉がどこから出てきたのかも大体わかる。70年代の障害者の運動からだろう。なのでその言葉は「人に助けてもらっていい」に言いかえたほうがいいのではないかと、以前から言っている。それなら大賛成だ。 一方自分が大事に思っているルールのほうも、「迷惑」という言葉はちょっと違う。「人を加害してはいけない」「不当に攻撃してはいけない」(※)といったところか。 「皆さんも攻撃だけはしないほうがいいですよ」こんなことを先日、一年に一度だけやっている大学の講義で言った。不適応者の居場所の話のついでだったのだが、若い人にひとつだけ伝えたいことはなんだろうとあらかじめ考えて言ったこ…

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群れのなかにいることと自分で考えること

群れのなかのその時その時のノリで「いい/悪い」が決まってしまう世界がある。内藤朝雄氏の『いじめの構造』という本では、そんな秩序を「群生秩序」と呼ぶ。学校の秩序とはそういうものだ。この本はいじめについての本のなかでも、いじめをする側の心理を解き明かしている点で特に優れている。一方、普遍的なルールによって善し悪しが決まる秩序を「普遍秩序」と呼んでいる。確かにそういうものは、学校の外にもある。 例えばグループのリーダー格の人物がハンバーガー店の看板を見て、「ハンバーガー食いてえな」と言ったとする。「ハンバーガーうめえよな」とまわりの者がそれに次々に従う。そのなかで「昼飯ならさっき食べたばかりじゃないか」と思っても、それが理にかなっていても、言わないでいたほうがいいかもしれない。 自分が思うのは、こういう秩序のなかで生きていると、「みんながどう思っているか」ばかり考えることになるということだ。特に身に危険が及ぶ時などは、必死にそればかり考える(「読む」と言うべきか)だろう。普遍的な秩序のなかにいれば、もっと普遍的なことを考えるはずなのに。群れのノリのなかで生きる場合は、一般的に見たらどうかにこだわるとむしろ身が危ない。(ナチスドイツのなかで官僚だった場合とか)。 自分は常々、「自分の頭で考えずに他の人の考えばかりうかがっている」ようなことがどうして起きるかつについて考えることが多い。もちろん自分だって他人事ではないし、それをなくすなんてこともありえない。けれどもひとつには、こうした群生秩…

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運次第の残酷な世界に生きている

最深部の問題とか最終的な問題と呼んでいる問題がある。例えば誰かとのつきあいとか、社会の制度といった浮いては消える問題よりも、はるかに深いところにある問題という意味だ。生き物の生死とか、地球環境とか、宇宙とか物理とか、そういった問題よりももっと深いと思う。我々が持ってしまう世界への絶望やムカつきの根源に何があるのか。人が生きるうえでもこれが一番深い思いになったりするので、書くのにも慎重になる。*********************まずどれだけ科学や理性を発達させたところで、やはりこの世の中は「運次第(あるいは偶然)」で成り立っている。「でたらめ」ということだ。生まれる家族や土地。人の持つすべての遺伝子、人の容姿。これらは100%運で決まる。人生において出会う相手も、運の力がはるかに大きい。(自分にとって人生最悪レベルの人物との出会いは、自分で選んだものだっただろうか?)いや、それよりも、ちょっとした「つき」の有無で、誠実さや頑張りなどが吹き飛んだりすることがどれだけ多いだろう。人生において努力で何とかなっている部分なんか、3割くらいなんじゃないだろうか。人間は科学を発達させて結果を制御したり、社会を整えて「正直者がバカを見る」ことが少ないように工夫してきた。それでもやはり、これだけのことが運次第であるところを見ても、この世界はまったく「できが悪い」のだ。(実際に途上国では、もっと運や偶然の力が大きいだろう。大人の世界より子どもの世界のほうが、運や偶然に左右されやすいとも思う)。どんなに誠実にコツ…

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本当の気持ちを言う時、声が震える(涙が出る)

HSP(繊細さん)関連で、「自分の本当の気持ちを人に言う時、涙が出てしまう」という悩みがよく語られるようになった。例えば、どうしても言えなかった不満を相手に伝える時でも、泣いてしまうので不審がられるとか。 これはHSPに限ったことなのか?自分はかつてHSPの症状がありまくりだったが、今はそれほどでもない。けれどもこの悩みは続いている。 たまにやる大学の講義やひとりでやるトークイベントなどで、最後の10分くらいのところに自分の思いのたけを語る場面を持ってくる。そのあたりにぐっと来る内容を考えていくのは普通のやり方だ。ただ自分はそこで、声が泣いている人のようにようにわなわなと震えてしまう。目も潤むのだが、涙が出るほどではない。生徒全員の顔がハッと一斉に上がるのがわかる。 インタビューを受けている時でも、そうなることがある。それでも講義などの時は、そのまま話し続けることにしている。心が落ち着くまで話を止めたりしない。つまり、それを恥ずかしいことと見なさない。生徒さんたちの目は壇上にくぎ付けになっている。注目してほしいところなのだから、それでいいのかなと。ぐっとくる話をしている人の声まで震えているなんて、なかなかいい演出ではないか。 対策としては、「本当の気持ちを言い慣れていないからそうなる。言い慣れればよい」とよく言われているようだ。けれどもそうだろうか。自分ほど人前でも本音ばっかり言っている人間もそうそういないと思うのに、毎度毎度声が震えるのだ。 これはHSP特有の症状と言うより、人…

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死んだらどこへ行くのか、見田宗介追悼最終

見田宗介氏追悼記事の最後は、「波としての自我」の話をぜひしておきたい。ただこういう話、ガッツリやろうとすると、仕事みたいに大変になるので、適当にやりたい。我々は生まれる時にどこからやって来て、死んだあとどこに行くのか?いきなり何言ってんだと思うかもしれないが、これは多くの地域の神話・民話に見られる、人間が持つごく普通の疑問だ。 その答えになる見田氏の言葉を少し、『現代との対話 見田宗介』というインタビュー本から。 「〈私〉は自然の波頭のひとつだと。宇宙という海の波立ちの様々なかたちとして、個体としての「自我」はあるのだと」。「海が宇宙だとすると、波というのはある数秒間の形としてあるわけです。自我というのは宇宙の海の波みたいなもの」 この「自我=波」という例えは、本のどこかに書いてあっただろうか?本来は『自我の起源』に書いてあるべきことなのだが、ここにはない。(ただし、この本の表紙を見よ!)。それでもこれは見田氏の論のなかでも、最大レベルの重要事項だと思う。 そんなわけでこれから書くのは、自分がその骨格に勝手に肉づけしているものと思ってほしい。 まず、自我は「自己意識」と言いかえることができる。「自分で自分を意識している」ことで、これは生物のなかでも人間にしかないものとされる。自己意識の誕生は、生物進化の流れのなかのひとつの大きな山と言える。(このあたりは『自我の起源』から)。 では、自我が波とはどういうことか? 波は海の水の高まりで、海が盛り上がっては波(あるいは波頭…

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見田宗介の死、「ほんとうに切実な問い」

有名な人が死んだ時にやる追悼表明は、ちょっと苦手だった。追悼のためと言うより、その話題に便乗しているように見えてしまうことが多かったので。 けれどもさすがに、ザ・スターリンの遠藤ミチロウ氏が死んだ3年前には、追悼の記事を書いた。その時に、「自分としてはこれ以上に追悼すべき人はいない」みたいなことを書いたのだが、実はひとりいるなと思っていた。それが見田宗介だった。 誰かを英雄視したり偶像視したりするのにもまた、自分には大きな抵抗があると言っておきたい。それでもやはり、見田宗介が死んだら何か書くだろう。 見田さんは、日本を代表する社会学者と言っていい。そして自分は大学で5年間(笑)、見田ゼミに出ていた。単位は3年までにほとんど取ってしまっていたので、4年目5年目は授業に出る必要もなかった。その間、このゼミ以外に大学で何をやっていたのか、よく憶えていない。 見田さんが授業で言っていた言葉で、心に残っているものがある。「大学に入ってくる時には、みんなとてもいい問題意識を持っている。けれどもあれこれ学んでいるうちに、その問題意識が拡散してしまって、つまらないテーマで卒論を書いて出ていってしまう。それがとてももったいない」といったことだ。 「自分にとって本当に切実な問題を考える」。そういう言い方もよくしていた。 さっそく同じく見田ゼミだった友人と、あれこれ話していて気づいたことがある。自分の問題意識や研究分野を限定しなかった見田宗介の理論は、少なくともいくつかの分野に大きく分かれる。そ…

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「死ぬために殺した」という証言は本心なのか?(後編)

「死にたい人は、他人に危害を加え、巻き込んで死のうとするものだ」といったおかしな見方が広まったら嫌だなと思って前回の記事を書いた。するとその直後に東大刺傷事件が起きてしまい、そんなことがごく普通に言われるようになってしまって、まいった。 毎年2万人も自殺する人は出るけれども、それらのほとんどの人がそんなことをしようなんて考えない。このことは、この長い記事の初めに言っておきたい。 「死にたくて、死刑になって死のうと思い、殺人(未遂)をやった」という論理が信じられないと前回書いた。そう語った焼き肉屋立てこもり犯は、「射殺されようとしてやった」と証言を変えた。本人によって「死刑になりたくてやった」は否定された。「射殺~」も相変わらず荒唐無稽なのだが、変わるくらいなのだから、その程度のものなのだろうと思わせる。(これについては、文末に紹介した犯罪心理学の専門家の意見も、よかったら参照を)。 そんなふうに犯人が犯行直後に語った動機を、いきなり真に受けていいのだろうか。もちろん自分だって、そんなのはひとりもいないなんて言う気はない。それでも「本心ではないのではないか」と思ってみる必要はあるんじゃないか。 京王線事件と東大事件************************************** 「死刑になるためにやった」の京王線事件の犯人は、「人の多いハロウィンの日を狙った」と言った。けれども、事件があったあたりの京王線は、ハロウィンだからと言って混みぐあいに変化はない。また、あの…

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「死刑になりたくてやった」を信じていいのか?(前編)

どうしても理解できないのに、世間が受け入れている言葉がある。「死にたかったので、死刑になりたくて(凶悪犯罪を)やった」というあの言葉だ。 まず、どうしても死にたいと思う。そして自分では死ねないと思った。(←この段階はあっさり通過される)そこで「そうだ死刑になろう」と思った。(←この時点でもうわからない)そのために、やりたくもない凶悪犯罪を犯そうと、計画を立て大胆に実行した。(←1ミリもわからない) あまりにもわからなさすぎるので、本心ではないのではないかと勘ぐっている。これまで本心でない可能性を、なぜ考えてこなかったのだろう? 少なくとも長いこと死にたいと思っていた自分の場合は、そういう発想は一瞬も湧かなかった。死にたいのに、そんな気力はどこから来るのだろう?自らの体験からのみ、疑問を持っているのではない。自分で死ぬことは怖いのに、死刑ならなぜ怖くないのだろう?筋が通らないと思うことには、疑問を持ち続けるべきだ。 焼肉屋に立てこもった犯人の、「死刑になりたかったからやった」という動機が、また大々的に報道された。まず、この犯行で死刑にならないことはわかりきっている。そして犯人は野宿友だちに、「刑務所に入れば飯も寝るところもタダだ」と語っていた。野宿友だちのひとりは、「死にたいとは言っていなかった」とも語る。立てこもっている間に「電車内の事件のようにしたかった」とも言っている。(「死刑に~」は京王線事件の犯人の語った動機でもある)。さらに犯人は立てこもっている最中に、テレビ局に「取材をよこ…

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「政府と戦えよ」という圧、「革命モデル」について(後半)

間が空いてしまったが、前回の続きを。 前回 ↓「もっと政治に怒れ」という圧、「革命モデル」について ①すべての問題は社会制度や政治の、つまり政府のせいである。②それを解決する方法は、民衆が怒りで立ち上がり政府を倒す(変える)ことである。 こういう方向に寄せて社会の問題をとらえようとするひとつの流れがある。それを便宜的に「革命モデル」と呼んだ。そして、この革命モデルだけしかないと思い込むのは問題だと言ったのが前回だ。(もちろん政府に訴える必要がある社会問題はあるので、自分も政府に文句を言うが、単にそういうことを言っているのではない)。さて、例えば。かつて、親が子供を殴っていて、子の人生を勝手に決めていたのは不幸だった。(太古から自分の子どもの頃まで、ずっとそうだった)。それが減ってきたのは、とてつもなく大きな社会変革だった。世の中はこうやって生きやすくなってきたのだな、本当によかったと痛感する。けれどもこの問題はもともと、政府のせいではなかったし、民衆が政府を変えることで解決したのではない。 何がこの大変革を起こしたのか?何かを「これだ」と言い当てるのは難しい。けれども戦後のロックや若者映画などのサブカルチャーは、確実に大きな原動力になった。 音楽や映画や小説を通して、親や教師など上からの支配の批判をあれだけやった分野はめったにない。自分がよく聴いた80年代の日本のパンクが反抗していたのも、まずは親をはじめとする上からの抑圧だ。もちろん洋楽ロック全般でもそれは基本で、クイーンには「お前…

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「もっと政治に怒れ」という圧、「革命モデル」について

心が苦しいのは社会のせいなのだから、心を癒してはいけない。原因である社会を変えなければいけない。 こんな言い方がある。例えば不眠症は、社会に原因があるかどうかわからない。「すべて社会のせいだ」というところに無理がある。それでもこの説は、一方ではかなり支持されている。 このようなある種の姿勢をよく見かけないだろうか?世の中に悪いことがあるなら、すべては社会制度や政治のせい。こういう方向に持っていく姿勢だ。「社会制度や政治のせい」は結局、「政府のせい」ということになるだろう。 そしてそれは「その問題の解決方法は、人々がワーッと怒りで立ち上がって悪い政府を倒すことだ」という見方とセットになっている。(選挙で倒すのもその一部である)。これは民衆の革命が、世界で割とよく起きていて、先進国でもそれが叫ばれていた時期(70年代まで?)に定着した考え方だろうから、「革命モデル」と呼んでおく。「問題はすべて政府のせいであり、解決はすべて政府を倒すこと」という姿勢と言えばいいか。(このネーミングは大雑把なものだけども)。 こうすることによって解決できる問題があるので、自分も随分こうした方向も提唱してきたし、実践もしてきた。けれども「これのみ」と考えすぎることの弊害も見てきた。 「道は革命モデルだけ」と考えてしまうと、問題の原因を政治・政府以外のところに置く人、そもそも関心を持たない人は邪魔になる。 政治について意見を言わない、と芸能人やミュージシャンが批判されているのをよく見る。よからぬこと言った…

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社会の激動より個人の激動のほうが大きい

「バブル崩壊前は、誰もが明るい未来を信じることができる時代だった」こんな言い方をよく耳にするようになった。明るい未来? 自分と自分のまわりを思い出すにつけ疑問に思うのだが、それ、信じられていただろうか?80年代の頃の一般的な未来像は、ブレードランナーやAKIRAや北斗の拳のような、全面核戦争(やそれクラスの大惨事)後の廃墟と化した世界ばかりだったので、明るい未来のはずはない。米ソ全面核戦争の危機におびえていたのだから。でも、そんなことも関係あったかなと思ってしまう。 では、「バブル崩壊によって未来は絶望的になった」はどうだろう? これについても、少なくとも世相は、そういう感じではなかった。むしろその頃、米ソの冷戦が終わって全面核戦争の恐怖がなくなり、西側陣営だった日本はある程度戦勝気分だった。これこそ世界の大ニュースであり、むしろ未来は明るく見えた時期と言えるかもしれない。けれどもそれですら、個人の未来観を変えるほどのものだったか怪しい。これについてはまた別に改めて書くことにしよう。 ここで言いたいのは、未来が明るいかどうかは、その人個人のやっていることがうまくいっているかどうかの影響がはるかに大きくて、社会の状況はそれほど影響していないのではないかということだ。個人のこととは例えば、人との出会い、別れ、交際、同居、加害・被害、病気、怪我、進学、学習、就職、退職、転職、起業、引っ越し、結婚、出産、留学、家庭環境、不仲、技術を学ぶ、新分野開拓、配属、転職、趣味等々、そういったことだ。 …

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自分はこうしたいと言う人/みんなにこうしろと言う人

みんなや他の人にこうしろと訴えている人と、自分がこうしたいと訴えている人がいるのに、ちゃんと区別されてないという話を。 夫婦別姓について反対の人と賛成の人が、同じように扱われているのに不満がある。そこそこ指摘されることだが、夫婦別姓に反対の人は、全員に別姓を選ばせないぞと主張している。そして別姓を選ぶ人がいても、おそらくその人には何の害もない。一方賛成の人は、全員別姓にしろとは言っていない。個人の選択について言っている(ここには個人の選択を尊重するかしないかという、第二のテーマが隠されている)。後者は前者に比べて、はるかにひかえめな訴えをしているのだ。そこのところは、はっきりと意識されるべきだろう。 こういう不公平というか不利な扱い、人生のなかでずいぶんたくさん接してきてしまった。 90年代の若手論壇?に、「大人になれ派/子どものままで何が悪い派」という分類みたいなものがあった。これは一時期、どこかで勝手に名づけられたものなので、大体のイメージみたいなものでしかない。自分はこの両陣営のなかで、もちろん「子どものままで~派」に括られていた。「大人になれ派」の代表は、小林よしのり氏だった。これはこれで、今あらためて検討してみるのも面白いのだが、ここにも不公平がある。こちらは個人の勝手な選択を訴えているのに対して、「大人になれ」とは随分命令的だ。この自分にすら、生き方を指図してきていることになる。 大麻論争にもこうした側面がある。反対と言う場合は、大麻を全員吸うなということ。賛成と言って…

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自分の不幸を第一に考えることが大事

これもずっと前から気になっていたこと。「人が幸せになれる世の中にするにはどうすればいいか?」と、たくさんの人が考えるだろう。その時の発想のしかたに疑問がある。 今なら普通は、「じゃあ医療どうするんだ」「教育どうする?」「税制どうする?」(以下無限に続く)というふうに発想するだろう。もちろんそれは大事なのだが、「幸せになれる世の中にする」というワクワクするテーマの割には、ずいぶん義務的・勉強的でやる気の湧かない話だ。 もっと普通の発想のしかたってないのだろうか?まず自分の人生を振り返ってみて、何が一番不幸だったか考える。その不幸を感じた人が他にもたくさんいそうなら、それをなくすことで世の中を幸せにする。むしろ、そっちのほうが順番として普通じゃないだろうか。 前者は「社会全体からはじめる考え方」、後者は「自分からはじめる考え方」と言える。19世紀後半から20世紀前半くらいの世界では、まず社会全体をどう作るか、いちから考える必要があった。王様が支配していた国を壊して、新しい国を作らなければいけなかった。第三世界では、20世紀後半がその時だった。まさに「医療どうする、教育どうする」だ。「社会全体からはじめる考え方」は、そういうところから続いている発想のしかたに引きずられているように思う。もちろんそればかりではなく、政治家的な発想のしかたが下りてきているとも言えるが。けれども今ならもう、「自分からはじめる考え方」をしてもいい。いや、いつだってそうしてよかった。 (発想のしかたを以前からのものに縛…

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なんかムカつく相手を攻撃するために、後から正義や理屈をくっつけるやり方

「なんかムカつくから攻撃したい」、だから攻撃する。いじめはこういうものでもあり、これがだめなことは明らかだ。そして「なんかムカつく」はいじめの原動力であるというのは、専門家の意見だ。 それでは、まず「なんかムカつく」相手がいて、攻撃するために、あとから理屈や正義をくっつけるケースはどうか。よくあると思うが、それも同じくだめなはずである。けれどもそっちは、見過ごされているのではないか。 子供のいじめでも、正義を口実にして行われている場合が多いというのも、専門家の意見だ。確かに「〇〇君は悪いことをした」といった理由でいじめが行われるケースは多いと感じる。人はまったく理由もない攻撃など、滅多にできないのかもしれない。自分の理不尽な攻撃を正当化するためにも、自分のなかでも後づけの理屈・正義が必要なのだろう。 正しさの立場から何か悪いものを攻撃するのは、本来悪いことではない。こうした後づけの正義や理屈は、その形だけを悪用していることになる。 では、攻撃の理屈や正義が後づけである時の目印は何かあるだろうか?後づけだけあって、「よく考えてみればそれほど悪くない」というケースが多いのではないか。それに比べて、ムカつきはもともと大きいだけに、攻撃が不釣り合いに大きくなることも目印になるのではないか。 そして、悪のレッテル貼りが行われることも多いと思う。例えば「ヒトラー」といった悪者・敵のイメージに、攻撃したい相手を寄せていく。そうして、「攻撃している自分=正義、ムカつく相手=悪」の構図を捏造し…

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僕たちは壁のなかの一個のレンガだ

ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』というアルバムを先日の不適応者の居場所でいち推ししたのだが、言葉が足りなかったので、あらためてここに書いておきたくなった。自分の人生において、とてつもなく大きな作品だ。 このアルバムは79年に出た、ピンクフロイドの歴史のなかでは、現役時代の最後のほうの代表作になる。アルバムが2枚組なのに全米1位になったのはまあ驚いたが、シングルの『アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール』も、全米1位を4週間も続ける大ヒットになった。この曲は日本のラジオでもよくかかっており、ラジオ中毒だった10代の自分の耳にも入ってきた。「結局僕たちは、壁のなかの一個のレンガじゃないか!」と歌っているのだ。しかも子供に合唱させている。この言葉は『完全自殺マニュアル』の前書きのなかにも書いた。そこの見出しには、この曲のタイトルをわざわざ載せた。当時、こんな歌詞の曲が全米1位になるなんてありえなかった。ヒット曲はもとより、ロックの歌詞もまずは恋愛。あの娘がかわいい、ふられた、そんなくだらないものばかりだった。恋愛以外の悩みを歌っているだけでも価値があったが、この曲やアルバムに込められた怒りの対象は、結局親でもなく、教師でもなかった(親や教師は出てくるのだが)。何かと言うと、「システム」だった。自分が欲しかったのは、そういうものだった。ロックの歌詞なんて、本当に共感できるものは少なかったのに、この曲には本当の自分の「悩み」と呼べるものが歌われていたのだ。こんなテーマを曲にして、しかも全米1位に送り込ん…

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「『死にたい』は『生きたい』だ」という間違い

先日あるテレビ番組でも耳にしたのだが、「『死にたい』は『生きたい』だ」という言葉がよく使われる。「死にたいと言う人は、同時に生きたいと思っている」という意味だ。これは「『嫌い』は『好き』だ」と同じで、意味をなさない文だ。なぜそんなものが通ってしまうのか。これについては一度言っておこうと思っていた。 自分はこう考えている。「死にたい」と言う人は大きな苦痛に直面している。苦痛から逃れるにはまず、①生きて苦痛を克服する方向がある。 そして苦痛が大きすぎると、②死んで苦痛から逃れる方向も頭に浮かんでしまう。 つまり「苦痛から逃れたい」は、同時にこの二つの方向を持っている。そこから、「死にたい」と「生きたい」は同じだ、などと勘違いするのだろう。「死にたい」「生きたい」なんてこと以前に「苦痛から逃れたい」がある。これこそどんな人間でも日々、心の底から願っていることなのだ。「死にたい」はその一形態なのだ。何かとんでもなく特殊なものと考えるべきではない。 「生きたい」っていうのも、実はよくわからない。「病気で死んでしまう運命」といった状況でもないなら、わざわざ大変な気合を入れて自殺でもしなければ生きてしまうというのに、「生きたい」なんて強く思うだろうか? 自分は「生きたい」とは思ったことがないのではないか。強く思っているのは、あくまでも「苦痛から逃れたい」であって。 「死にたい」周辺には、そこらへんの気持ちがよくわかっていない人が作った言説というものが結構流通していて、それが惰性で使われていたりするので…

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悪いことに意識を集中するのをやめる

「嫌な気分になりたくない」。これは誰でも思うことだが、その割にはその思いは実行されていないのではないか。 ある人が朝から晩まで、嫌な気分に取りつかれていることはよくある。もちろん、そうならざるを得ないほどひどい状況にいるならしかたがない。けれども、朝から晩まで嫌な思いをし続けねばならないほど悪い状況もそんなに多くない。 そんな時は、わざわざ悪いことに意識を集中してしまっているのではないか。いちいち言うまでもないほど、誰でもやってしまいがちなことだ。不安なことに朝から晩まで意識を集中すれば、朝から晩まで不安になる。イライラすることに集中すれば、朝から晩までイライラすることになる。当たり前だ。 下手をすると、それを何年も、もしかしたら何十年も続けてしまうかもしれない。 自分は中年になった頃に、このままだと、こんな嫌な気分のまま、もう一生行ってしまうなと思った。物心ついた頃から、ずっと不安やイライラに圧倒されている状態だったが、放っておけば「人生のメインの時期はすべてそれだったな」などと振り返ることになりそうだった。それを思った時には、さすがに底知れない恐怖を感じた。 25年くらい前に、取材も兼ねて催眠療法というのを受けることにした。その時に言われたのが、「『自分は嫌な気分になんかなりたくないんだ』という強い思いを大事にしよう」ということだった。それをいつも心に留めておこうと。それが嫌な気分から遠ざかる方法だと。 わざわざ悪いことに意識を集中する悪習は、自分でやっていることなので、どうし…

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