なぜ不安を感じすぎるのか?

今回は、「なぜ人間はここまで余計とも思える不安を感じるようにできているのか」の話を。 心配事や悩み事で頭が一杯で、眠れないことが誰にでもあるだろう。なぜあんな厄介な機能が体に備わっているのだろう?これは推測なのだが、考えてみれば、部族社会、狩猟採集時代のような身のまわりに生命の危険が迫るような環境で、不安があるのにぐっすり眠ってしまっては、その生き物は生き残れなかったかもしれない。今は眠る環境だけはまったく安全になったのに、体がそれについていっていないのではないか。 また人間は、悪いことばかり思い悩む病気は多いのに、いいことばかり考えてしまう病気はあまり聞かないのはなぜなのだろうと気になっていた。どうせならその病気にかかりたいものだと。これも考えてみれば、そういう性質の生きものがいたとしたら、命の危険にあふれている太古の時代には生き延びられないかもしれない。 狩猟採集時代の人間が、獲物を獲りに森に入ったとする。まず、自らを襲う外敵や、植物の毒や、地形や天気にも細心の注意を払い、それ以上の繊細な注意をもって獲物を見つけることだろう。目に見える、耳に聞こえるありとあらゆるものが、心配や注意の対象だ。 そういう命を危険にさらすような不安材料を人間は今に至るまでに、ひとつひとつ取り除いてきた。もちろん細かく色々あるけれども、はっきり言って今はそこまで不安が必要な環境ではない。例えば人の目のこと、ばい菌など生活環境のこと(コロナウイルスは別として)、健康のこと、不審者等々、材料は色々あるが、人の症例…

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就職氷河期の原因は「大卒者が増えたから」

これは言っておいたほうがいいと思っていたことがある。就職氷河期世代とかロストジェネレーションに関する「あること」だ。 去年7月に出版された小熊英二氏の『日本社会のしくみ』という本で、こんなことが強調されている。 1)正社員の数は、バブル崩壊前も後も、今に至るまでほぼ一定である。2)90年代から正社員に就職できない大卒者が増えたのは、大卒者の数が増えたからだ。3)90年代から非正規雇用の数が増えていったのは、自営業者が非正規に転じたからだ(雇用される人が増え、それらの人が非正規雇用になった)。 これが詳細なデータとともに示されていて、十分な説得力がある。このことは第一章の主旨となっていて、本のなかでも特に強調されていることと言える。(1については、業種によっては正社員を減らし、非正規を増やした部門も一部にあると書かれている。2については単に人口が多かっただけでなく、大学数の増加も大きい)。これらのことは、個別にはしばしば取り上げられていた。けれどもこうして、まとめて体系的に説明されたことはなかったように思う。 これを知って仰天する人は多いのではないか。 もちろん、前後の時代より「正社員になりたかったのになれなかった人」がたくさん出て、大変だったことに変わりはない。だから文句を言っていいし、賃金を上げるよう要求していい。余力があるなら正社員化も必要。同一労働同一賃金は当たり前だ。これが非正規雇用の問題そのものだ。 では何が違ったのか?そこから広がっていった面白い尾ひれの部分、時代論・世代論…

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「もっと心配しろ」で人は幸せになるか?

今回は曖昧な気持ちのまま書いてみよう。 万が一ウイルスが手に付いたら、万が一感染したら、万が一死んだら、万が一他人に移したら、、、と、コロナ自粛期間は「万が一」「もっと心配しろ」勢力の天下だった。 少しずれるが、「みんな自分を感染者だと思え!」という呼びかけにも抵抗を感じた。全体にとってはそれでいいのだろう。けれども個人にとっては、自分が感染者だったら外にも出られないのだから、大変な心理的負担だ。心配しすぎで苦しんでいる人(たくさんいたと思う)なんて眼中にない言い方だと思っていた。 こういう「万が一〇〇になったらどうするんだ!」という言葉は強く言える。怒鳴ることができる。どんなに低い可能性であっても。「万が一子供が死んだら」なんかは強く言える言葉の典型だ。そんな苦情が入ったら、市役所も公園でも何でも使用禁止にしたくなるだろう。それに対して何か言おうとすると、「まあ大丈夫なんじゃないの?」といったとても弱い言い方しか出てこない。「心配しろ」の勢いは、なかなか止めるのが難しいのだ。 それほどまでに「もっと心配しろ」は特に大切で、「大丈夫なんじゃないの?」は大したことのない考え方なのか? もちろん交通や医療や、その他安全を確保しなければならない仕事の担い手が手を抜くことなど肯定できない。そこに対する不信感があるなら、注意深くするのも当たり前だと思う。真面目なんだから、そんなに悪くないじゃないかとも思う。そんなこともあるので曖昧な気持ちなのだ。 けれども、「適当でいいよ」「気楽に行こう」は…

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外出自粛中でもつながりを作る方法がふたつある

外出自粛が長引いて、孤立はどんどん大きな問題になりつつある。ただでさえ大問題とされていたのだから、当然のことだ。やっかいなことに、人は不安が高まった時にこそ、誰かとつながって安心したくなるものだ。けれども、こんな状況でもつながりを作ることはできる。世界的に流行っている方法がふたつある。 1ひとつめはもちろん、Zoomなどのオンラインミーティングでつながる方法だ。友人レベルで飲み会というのが一番盛んなのだが、では誰とやってみようかと考えてみるとなかなかハードルが高い。友達はいても、オンライン飲み会に誘うのはまたちょっと違う難しさがある。それならもう一つ広いレベルで、参加者を募集している読書会、英会話などのオンライン集会に参加する手がある。居酒屋も含めありとあらゆる「居場所」が今オンライン化しているので、新しい人間関係を開拓するチャンスと言える。場所を問わないというメリットがあるので、この機会に地方の人や海外の人とつながっておくのもいい。ただこれも、一度顔を出したことがある、など近い集まりから探していくのがいいだろう。もちろんGoogleやTwitterで検索し、いきなり飛び込むのもいい。勇気がいるが、リアルのほうがもっと勇気がいる。 例えば世界的な集まり募集サイト Meet up でもオンライン化が進んでいる(英語関係の集まりが目立つが、そうでないあらゆるテーマの集まりがある。ジャンル別に検索してみよう)。 自分もネット上のつながりはあまりあてにしていなかったのだが、それはSNSなどでのことで…

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緊急事態宣言下、心の健康を守るためにできること集

緊急事態宣言によってさらに厳しい外出自粛が求められているので、そんななかでもできる心の健康を維持するための対策を挙げてみる。どこかに通わない自宅生活数十年の自分が大事だと思うものを。もちろん誰にでも当てはまるわけではない。 ●散歩・ジョギング・サイクリング いきなり外出じゃないかと思われるかもしれないが、不要不急の外出とはこういうものを指しているわけではない。それを知らずに、この期間中まったく部屋から出ない人がいるのではないかと、逆に心配になる。欧米でさえ、個人が自宅近くでやる運動は認めている。犬の散歩を含める国もあるし、感染者の多いアメリカでもサイクリングを認めている。その点日本では、心や体の健康について国や自治体は重視していないので、言及されることも少ない。下手に店になんか行くより、十分に人との距離を取って散歩して帰って来るほうが、感染を止めるためにはずっと有効だ。 健康維持のための散歩やジョギングなど生活の維持に必要な場合には外出できます (内閣官房HP) 自粛期間に限らず、心の健康のために一番大事なのは「外に出ること」だと思っている。外に出た瞬間にふっと感じる何か違う肌触り、あれは大きなものなのだ。特に今は季節がいいので有効。 ●植物の世話をする 人間以外の生き物の世話をするのは、この時期とてもいい手だ。自分の場合は植物というか野菜。野菜をやる前10年くらいは主に鉢花をやっていたが、ホームセンターで安い苗を買って、花を育てるのもいい。ペットがいる人はこの時期もっといいだ…

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兄弟姉妹間のDVが問題にならない件。 自分も被害を受けていた

兄弟姉妹間での嫌がらせや暴力について、あまり話題になることがない。親子や夫婦間の暴力や虐待は頻繁にニュースになり、取り締まる法律もある。けれども兄弟姉妹間についての法律はない。むしろ、親子や夫婦間よりも頻繁で、根深くなるのではないかと思えるが。互いに子供、あるいは若者なのだから。 兄弟姉妹の喧嘩について少し調べただけでも、「仲がいい証拠」「親が介入しなくていい」といったアドバイスばかり出てくるのだ。「取っ組み合いの喧嘩をしていても放っておけ」とまで言われている。喧嘩は仲が悪い証拠だと思うが、その逆とは恐れ入る。 そしてそのプラスの面として、「手加減を学べる大切なもの」という説がよく付いてくる。それは何か実証的な根拠のある説なのだろうか? 学ぶどころか、体格がよくなるにつれて暴力がエスカレートする傾向もあると思うのだが。暴力は親が使おうが、子供どうしだろうが、よくないものじゃないのか?「親がジャッジしてはいけない」もよく出てくる。「喧嘩両成敗」という悪しき慣習はこのへんから来るのだろう。 兄弟喧嘩が子供を成長させるって本当!? (これはその一例) すべてがおかしい。と言うより、正直言って腹立たしい。兄弟姉妹は年の差もあるし、まったく対等であるはずがない。体格の違う者どうしが、ハンデもなくボクシングをやっているようなものではないか。反論など無限に出てきてしまう。 子供がいないので、自分の体験や、知り合いなどから聞いた話しか参考にできない。ただ「喧嘩」などと、まるで対等な何かであるように言われ…

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コロナ渦中にお薦めの落ち着く場所は「墓地」

コロナウイルスに関するあれこれで気が滅入っている人にお薦めの、心が落ち着く場所がある。広い墓地だ。墓地は実は公園のようにも利用されている。自分も先日、ある市がやっている公園に行こうとして、感染対策で閉まっていたため(なぜガラガラの公園が?)、墓地に行ったのだった。 いつもそこをブラブラしながら、なぜこんなに落ち着くのか考える。一番の理由は「死ぬことを思うから」なのだが、大きなテーマすぎて、それについてはまた別の機会に。建物がないので空が開けていて、しかも動きや生命感がないので、異様に静かだという理由もある。そんな場所は他にはない。 そして大きいのは、どうしても過去の長い時間に思いを馳せるからだ。 過去の、時には未来の、長い長い時間に思いを馳せると心が落ち着く。古い建物や遺跡を見ている時の独特の静かな気持ちも、そのせいなのではないかと思う。むしろそれが目的で、人は名所旧跡を訪れるのかもしれない。以前にエジプトのピラミッドに行って、ピラミッド、空、砂漠ばかりの風景を目にした。これらはどれも、4千年前から変わるものではない。4千年前の人もこの同じ風景のなかにいたのかと思うと、興奮するのではなく、気持ちがシーンと落ち着いたのを覚えている。 日々生きていると、どうしても近い過去や近い未来のことばかり考える。近い時間は動きが速いので、とてもせわしない気持ちになる。まるで凸レンズを覗くように、近くばかりが大きく、遠くは小さく見えてしまう。けれども遠い過去も、やはり今と同じように、それぞれ濃密な時間が…

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「私は私、あなたはあなた」という胸に来る真理

私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。私がこの世界にいるのは、あなたの期待に応えるためではなく、あなたがこの世界にいるのは、私の期待に応えるためではない。私は私、あなたはあなた。私たちがたまたま出会い、互いを見つけるならそれは素晴らしいこと。私たちが出会わなくても、それもまたいいことだ。 これは『ゲシュタルトの祈り』と呼ばれる詩で、ゲシュタルト療法という大きな心理療法を作ったパールズが、療法の基本となる考え方を盛り込んで作ったものだ(「祈り」ではなく「願い」と訳すべきだと思う。ちなみにこの療法についてはそれほど詳しくない)。 当たり前のことなのに、なぜこんなに胸に来るのだろうか。パールズがこの詩をワークショップで読み上げていたことの重みを考えたい。このことがわからなくなって心を病む人が多いということだ。 これは冷たい考え方だろうか?昭和の頃までの日本であれば、そう思われただろう。他の誰かのためにすべてを捧げてつくすような姿勢は、長らく尊いとされてきた。例えば家族とか、恋人とか。企業のために生きた会社員も同じだ。本来、他人のためを思うのはいいことだ。しかしそれは、単に他の誰かに自らの生きがいを依存する口実になってしまうこともある。自分が生きがいを依存した相手が理想と違ってきたら、「好きにすればいい」とは思えなくなる。依存された側ともども不幸になってしまう。他人に生きがいを依存しなくて済むように、まず自分が生きがいを見つけ、幸せになることはとても大事なことだ。そんな人間同士がつな…

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肯定される人間関係を見つければ人は幸せになる

今回はさらっと書いてみよう。 否定されている人間関係のなかにいることは、生きていて最もつらいことのひとつだろう。いじめを受けている人が自殺するのは、それが「死以下」だと見なしたからだ。家庭や職場で毎日のように否定されるのも、確かに最もつらいことに数えられる。 それよりは、一人でいるほうがマシである。肯定されない代わりに、否定はされない。 そしてそれよりマシなのが、肯定される人間関係のなかにいることだ。この状態を続けることができたら、それはもうかなり幸せな人生と言えるかもしれない(もちろん一定のお金は必要だが)。ただし、そこで否定されるようになるかもしれないので、危険はある。 たった一人でいることは、人間関係を持つことと対極にあるかのように言われているが、心理的には否定的な関係と肯定的な関係の真ん中あたりにあるわけだ。自分は人間関係すべてが嫌なのだと思っていた人も、「否定される関係」が嫌なだけで、「肯定される関係」であれば大歓迎なのかもしれない。 その先には「褒められる」「羨ましがられる」という段階もあって、この状態にある人はまず自殺するとは思えない。そのくらい生きるうえで軽視してはならない本質的なものが、「褒められる」のなかに入っている。それを口にしない決まりになっているのも面白い。が、それについてはまたの機会にしておく。 周囲から肯定されていることは、その場所を自分の居場所だと感じる決定的な要因になる。人間関係があっても、否定されているならば、人はいたたまれなく感じるのであって、そこ…

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映画『わたしに会うまでの1600キロ』と不安をあおる社会

正月には何か一本、放浪ものの映画(ロードムービー)を観ることにしている。今年観たのは『わたしに会うまでの1600キロ』だった。 【ここからネタバレ】主人公が母の死から自暴自棄になり、性依存症や薬物依存に陥ってしまい、経験もないのに無謀にもパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)の踏破、つまり数か月に及ぶ過酷な長距離の山歩きに乗り出す話。道中の宿泊はほぼ、人気のない場所でのテント暮らしで、水や食料の不足、雪や野生生物に悩まされる。あまりにも過酷すぎて、死んでしまってもおかしくないなと思うほどだ。【ネタバレここまで】 これはアメリカ女性作家の伝記の映画化で、正直に言えば、実話ゆえに話の出来はそれほどでもない。それでも見ているだけで爽快な気持ちになるから、放浪もの映画は素晴らしい。我々の日々の暮らしには、こうしたものが必要なのだ。 今の日本の社会は、不安をあおる情報ではちきれそうだ。病気や事故の不安、老後、生活、災害、等々。もちろんもともとはどれも必要な情報であり、善意で流されていたはずだ。そのくらい警告するのが適当というものも、なかにはあるだろう。ただ全体的に見れば、適量を超えても止まらなくなっているのが今の状態と言える。 「公園での禁止を増やす自治体の心理」的なものの作用はある。あれもこれも危険だ、やめておけと言っておけば、社会全体が窮屈になったとしても、自分は責任追及を免れる。それは別の形の無責任でもあるのだ。 また、「不安情報は人の目を引くことを知っているマスコミの心理」的なものの作…

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ベタベタした人間関係がいいわけではない

自分は親とは仲が悪くはないが、そんなに頻繁には会わないことにしている。あくまでも時々会うだけだ。なぜか。それは、近づきすぎると必ず、ああしろ、こうするなという特有の嫌な面が出てくるからだ。これまでにもそれで、何度も決裂して、そのまま絶交しそうになったこともあった。そうした経験をふまえての、互いの知恵なのだ。(もちろん今後どうなるかはわからないが)。 これは人間関係を考えるうえで、とても重要なことだ。人は、あまりに近づいていると、好感だけでなく「嫌だ」という感情も湧くものだ。人間は誰でも聖人君子ではないのだから。いつも口では聖人君子のようなことを言っている人間でも、近づいてよく見れば普通に醜い面を持っているのがわかる。 では、学校の人間関係はどうだろう。細々とした班、係、掃除、給食、学級会、朝礼、体育祭、文化祭、合唱祭、そして部活動。考えてみれば教科以外にたくさんの活動があることに気づく。うちは勉強だけ教えますという大学にはまったくないものだ。「特別活動」という日本独特の教育法である。あれらは道徳教育でもあり、「みんな仲良く」の教育とも言える。いじめへの対策として、特別活動をもっと活発にすることも提唱されている。 けれどもこういう対策には、人間の悪い面が見えていない。こんなに朝から夕までベタベタさせていたら、誰でも「嫌い」の感情が出てくる。それがいじめにもつながる。いじめの温床を自分たちで作っておいて、いじめをゼロにしようとしているのだ。もちろんうまくやれる相手となら、どこまでも親密になればい…

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異性とつきあったことがなかった話

男女一対一のつきあいをこの社会が褒めたたえすぎていることについても、見直すべきだとかねがね思っていた。 自分は30歳くらいになるまで、異性とつきあったことは一度もなかった。最大の理由は、高校から大学という普通なら一番異性とつきあいそうな時期に、心の病の関係で対人関係が非常にやりづらかったから。症状の重い期間は、そもそも異性とつきあいたいという気持ちがない(病んでいる人が皆そうだとは限らないが)。別に異性が嫌いではないし、話もする。けれども、そんなに重くない時期でも、男女一対一でつきあうのは対人不安を押してまではしなくていいかと思いつつ、結局引いてしまうというところだった。 30歳くらいになってつきあうようになったのはなぜかと言うと、書いた本が売れて雑誌などで散々持ち上げられたため、異性同性を問わずそれまでは知り合えなかった、気が合う人、話が合う人と格段に知り合えるようになったからだった。 ただしこれは、心の病とかそういう特別な話にしたくない。自分としてもそれだけではない。無理につきあわなくてもいいか、くらいに思っている人は、今の世の空気のなかでは言えないだけで、実はたくさんいるのではないか。そもそも、そんなに皆が皆、一対一で異性とつきあいたいと思うかどうかが怪しい。またあの、異性の目を気にして、自分をよく見せようと努力すること(カッコつけたり、かわい子ぶったり)をよしとする文化が嫌な人も多いだろう。自分にもそれはあった。 そもそもこの社会では、「若者=男女一対一の恋愛」というイメージが強す…

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巨大台風が来ると盛り上がるわけ (みんな一緒編2)

巨大台風が来ると盛り上がる話の三回目。前々回になぜ盛り上がるのかを、「非日常的なものにみんなで飲み込まれる」からだと書いたが、ここでは「みんな一緒に」の部分について。前々回も書いたが、巨大台風が来る時に盛り上がる心性は、不謹慎と切り捨てられるようなことでもなく、考えるべき大事な問題だ。 まず言えるのは、巨大な台風が東京を襲う場合、こんなにみんなで同じ経験をする機会はめったにないということだ。台風が通過している最中、東京にいるおそらく全員が暴風雨のことを心配しただろう。自分もネットでどの川が氾濫しそうなのか、飽きることなく検索していた。 「みんな思いが一緒」だと感じた時、何であれ涙が出るような熱い気持ちにならないだろうか? そこに、みんな動きが一緒、格好が一緒が加われば、熱さはさらに増す。これは社会的動物である人間に元から備わっている性質なのだと思う。だから、悪いものとして切り捨てることなどできない。 我々は日々、「みんな一緒」になれるチャンスを求めている。ライブ会場やスポーツの会場などは、以前よりも「みんな一緒」になっているように見える。ライブで全員が手を上げて左右に振る習慣や、スポーツ観戦でのウェーブなんかは以前にはなかった。ひとりのリーダーを壇上に上げて、大勢でワーッと歓声をあげると、何であれ、胸が自動的に熱くなるだろう。 人間は「みんな一緒」を肯定しているのか否定しているのか、まだよくわからない。それを決めていない。ただ今の日本について言えば、個々バラバラよりはみんな一緒のほ…

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巨大台風が来ると盛り上がるわけ(みんな一緒編1)

「この特殊なメカニズムは、現代社会において、大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとが彼に期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界の矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える。」 「個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一になった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。」 これは、社会心理学者E・フロム『自由からの逃走』(1941年)の一節。彼は大衆社会やファシズムに熱狂する人々の心理を研究して、この歴史的名著を書いた。彼はナチスによってドイツを追われ、この頃はまだナチスの全盛期だった。ただし、ナチスのことを中心に語っている本ではない。この本の趣旨は、自由を追求すると人は孤独で不安になるというもの。ここは、人がどのようにそこから逃れようとするかの三つのメカニズムのうち、どの社会でも人々が最も普通に取っているやり方を述べているところだ。つまり大衆の心理について語っている。ここは自分がこの本のなかでも一番気に入った部分で、大学のレポートなどに何度引用したかわからない。 さて、すでにここまでで長くなってしまった。巨大台風が来ると盛り上がる話の続きを書こうと…

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巨大台風が来ると盛り上がるわけ

「私はその写しを自分の手にうけとって、目を走らせる暇もなく事実を了解した。それは敗戦という事実ではなかった。私にとって、ただ私にとって、怖ろしい日々がはじまるという事実だった。その名をきくだけで私を身ぶるいさせる、しかもそれが決して訪れないという風に私自身をだましつづけてきた、あの人間の「日常生活」が、もはや否応なしに私の上にも明日からはじまるという事実だった。」これは、三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』のなかの、主人公が敗戦の知らせを受け取った時のくだりだ。 超大型台風の19号が迫ってきた時のことを忘れないようにしたい。「地球史上最大かもしれない」という情報まで出て、気象庁が「命を守るための行動をしてほしい」という異例の声明まで出した「関東直撃」の台風だった。前日までに、ガラスを補強するための養生テープとパンがスーパーで売り切れてしまい、空の棚の写真がTwitterに出回って大々的に拡散された。同じくTwitterでは、自発的に備えや「命を守る行動」を呼びかけるツイートが大量にリツイートされた。「盛り上がっている」と感じた。 盛り上がっているという言葉だけで、こうした感情を「不謹慎だ」などと押さえつけてしまっては、大事なものを見逃してしまう。被災者支援の盛り上がりだって、これと地続きの感情によるものだと思う。台風の真っ最中には自分もtwitterで、どの川が氾濫しそうなのかを「〇〇川 氾濫」のワードで検索しつづけていた。これもその盛り上がりなのだ(Twitterばっかりだが)。 「非…

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ムンクに見る心を病むことの価値

絵のよさがよくわかっていない小学生か中学生の頃、図書館で暇つぶしに色々な有名画家の画集を見ていて、「このムンクという人だけはすごくいい」と思った。あの『叫び』で有名なE・ムンクだ。ただ画集の終わりのほうになると、妙に明るい凡庸な作品が出てきて、何だろうと思ったものだった。 E・ムンクは精神を病み、その強い不安や恐怖を絵に描き出すことから、『叫び』や『不安』といった傑作を生みだしていった作家だった。けれども後年、ムンクは精神病院に入院し、精神病は治ってしまった。その後の彼は、明るい色彩を使って、内面ではなく風景画などを多く描くようになった。もちろん当時も今も評価されているのは、その苦悩のなかから生み出した作品だ。 “生命”を前向きにとらえるようになったムンクは自分の感情を描くのではなく、身の回りの見たものを描くようになります。彼のパレットには明るい色が並び、作品を覆っていた陰鬱とした頽廃感が薄れていきます。【生と死を見つめた画家】エドヴァルド・ムンクの生涯を詳しく解説します! 今は、たとえ彼が後世に残る作品を生み出さなくなったとしても、病気なんか治ったほうがよかったと思う。けれども初めてこれを知った時は、ムンクは治らないほうがよかった、などと思ったものだ。こういうケースは音楽ならザラにある。 自分はもちろん、心の病に限らず、人生の苦労など少なければ少ないほどいいという主義だ。けれどもこれまでに触れた本(自分のではなく)、音楽、映画、芝居、絵、など、どれを取っても、自分の人生において最…

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サルトルの『壁』と「生の不安」への向き合いかた

サルトルの『壁』という短編小説は、おそらく自分の人生における最も重要な小説だ。けれどもこれまでトークや原稿などでは、この小説の性質上ネタバレになってしまうので、まともに語ることができなかった。それでもブログなら、ネタバレしてしまっても書けることに、前々回のブログを書いて気づいたのだった。 ちなみにサルトルという思想家については、それほど多くを知らない。むしろ同期のカミュのほうが好きだ。第二次大戦の前後に世界中に大変な影響力を持ったようであるフランスの実存主義の思想家・作家で、『壁』は彼の代表作だ。 【ネタバレ】主人公ら3人は、スペイン内乱でファシズム勢力に実力抵抗していたが、捕まって同じ部屋に閉じ込められた。そして、明日の朝には銃殺されることを告げられた。銃殺は確実である。そこから3人の極限の恐怖の一夜が始まる。3人は殺される瞬間の苦しみや、この自分が死ぬという恐怖に取り憑かれ、ひとりの少年は精神の限界を超えて、錯乱から、気絶したような放心状態に至る。夜が明けると二人は連れ去られ、処刑されたのだろう。主人公も極限状態にいるが、彼だけは別の部屋に連れていかれ、反乱軍のリーダーの居場所を尋問される。このあたりから彼に変化が起きる。なぜか、少しずつ笑いがこみ上げてくるようになったのだ。彼はリーダーの居場所など言う気はない。尋問が続くうちにますます笑いがこみ上げる。彼はこう思う。「何もかもくだらなくなってしまった」。(直訳すると「もはや何も重要ではなくなった」)彼はでたらめな居場所を教えることにした。…

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映画『英国王のスピーチ』に見る対人不安の解決法

『英国王のスピーチ』というアカデミー賞作品賞まで取った映画が、社交不安障害や吃音症をテーマにした実話で、とても考えさせられる。ちょっとネタバレしてしまうので、見ると決めている人はここから先は、見た後で読んだ方がいい。 【ネタバレ】スピーチの場だけでなく、日常的に対人場面で緊張してしまって、言葉が出なくなったり、どもってしまったりする英国王子(後に国王)が、それを克服しようと悪戦苦闘する映画だ。そして、”I have a voice!”という自分が発した言葉を転機に変わる。その日本語訳がおそらく訳者の意図を超えて、偶然核心を付いているのだ。「私には伝えるべきことがある!」。これが字幕に出る訳である。”I have a voice!”は直訳すれば、「私には話す権限がある」だが、訳はこうなっている。このことが、偶然なのかもしかしたら意図的なのか、吃音症の治療の主眼としてよく語られることなのだ。声が震えるかどうか、つかえてしまうのではないかということよりも、相手に何かを伝えるために話すのであって、そこがすべてだと思ってしまってはかえってうまくいかなくなる。英国王のスピーチと吃音臨床について書かれた、吃音専門のブログ【ネタバレここまで】 吃音に限った話ではなく、日常におけることすべてにおいてこれは言える。例えば、動きがぎこちなくなってしまうとか、どぎまぎしているのを見破られて変に思われるのではないかとか、対人場面に限らず、何か取り返しのつかない事態に至ってしまうのではないかとか。こんな不安は、大なり小な…

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80年代のネクラ嘲笑文化、陰口文化

80年代に大人気だったビートたけしのオールナイトニッポンは、メインがきよしや軍団をはじめ身近な人間の嘲笑や陰口だった。大島渚や村田英雄など、有名人をしつこくバカにすることも多かった。それに大なり小なり影響されて、教室でも口調まで真似して、他人の観察と嘲笑に明け暮れていた。誰があの時変なことを言った、誰は笑っちゃうなどとたけし気取りでしきりに言っている本人自身も、それによってますます危険になるのだから、実にご苦労なことだった。こういうのは、高校にも大学にも、そして職場にもいた。 たけしほどではないものの、80年代に人気のあったタモリのオールナイトニッポンでも、ネクラ嘲笑を芸としていて、極めてよくなかった。よしとされたのはネアカな性格である。考えとか思いやりとか、そんなことよりも、とりあえず人当たりが明るいか暗いかで、その人の集団内での評価が決まってしまった。ネクラ嘲笑/ネアカ賛美は、もともとタモリが言い出したなんてことは気づかれないほど、広く社会全般に広まった。今は「陰キャ」という言葉がある。それもあまりよくないと思うのだが、クラスなどの集団のなかのポジションを指す言葉なので(「俺は中学では陰キャだった」など)、嘲笑の言葉である「ネクラ」とはちょっと違うように思う。 滅多に振り返られることもないが、こういうものは、個人の生きやすい/生きづらいを決定的に左右する。ああいう放送は今は無理だと思うので、いい時代になったものだと思う。 「バブルの時代はよかった」「80年代は幸福だった」。一面的…

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西伊豆・田子瀬浜のシュノーケルと冒険の効果

西伊豆の田子瀬浜でシュノーケリングをしてみたのだが、ここにもそこそこサンゴや熱帯魚が見られることが分かった。ここの特徴は、海岸の向かいに泳いで行けるところに尊之島という小島があって、その周りを勝手に見て回れるところだ。魚を見るのに砂浜はまったく必要ないので、こういう場所はシュノーケルに絶好と言える。 尊之島では静かな右側のほうにどんどん進んでいくと、ソラスズメダイの群れがたくさんいた。西伊豆独特の切り立った岩や岩穴があり、そこを海中を見ながらくぐるのも面白い。サンゴは島よりも海岸の右側に多かった。南伊豆のヒリゾ浜ほどではないが、こちらは広々としているところがいい。 こういう好き勝手な場所でやるシュノーケルを、『ロンリープラネット』に倣って「DIYシュノーケル」と呼んでいる。魚が多い場所を探すとなると、どうしても人気のない「行ってはいけない場所」になってしまうので、DIYシュノーケルには冒険・探検の要素が入ってくる。道かどうか怪しいところをかき分けて海に入ることもある。 熱帯のジャングルでそんなことをやっていた時、海にも出られず、戻る道もわからなくなり、本気で死ぬかと思ったことがあった(GPSがあっても)。潮の流れが速くて、流されそうになったこともある(泳いでも泳いでも潮の流れがほぼ同じくらい)。大抵は濡れた岩場を歩いて海に出るので、よく滑って転ぶし、いつか骨折するだろうな、海外で骨折したらどうなるんだろう、などと思っている。それでも自分は相当慎重なほうだと思っている。やる人は十分注意しましょ…

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