2017年12月05日

「死にたい」に対する謎の上から目線

座間の事件をきっかけに、自殺に関する連続ツイートをしたので、その記録を残したい。
ここからあれこれ文章化しようとすると、面倒になって残すことすらやめてしまうので、そのまま転載する。

ひとつだけ。
「#自殺募集」というツイッターのタグがニュースなどで話題になった直後、ここに自殺をやめさせようとするツイートが多く寄せられた。自分がこのタグを見た時、何百もリツイートされて上位に来ていた話題のツイートはどれも、そんななかの薄っぺらい説教に対する怒りだった。

この怒り。自分にもあったどころか、自殺についてものを言う原動力のひとつだった。
死にたくなっている人は、他の誰よりも生きづらさの真っただ中にいるのに、こと自殺となると、なぜか上から目線でたしなめるような、あるいは叱るような態度を取る人が多い。自分が若かった頃は、もっともっと多かった。
そこに出てくるのが、「弱い」「命の大切さがわかっていない」「前向きになれない」「もっと大変な人もいるのに」といった、まったく心に響かない言葉の群れだ。
死にたい人より自分のほうが、よくものをわかっていると思うのも間違いだ。
そんなことはわかっていても、死にたい気持ちは強くなってしまう。死にたいというか、こんな人生にはこれ以上興味が湧かない、もう愛想が尽きたという気持ち。

うまく言葉にならない、あるいは100万語でも言いたいことがあるこの怒りを、他の人のツイートでありありと思い出した。
ちなみに自分も、自殺を回避できるならそれに越したことはないと思っていることは書き添えておこう。余計な誤解を生まないように。

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話題の「自殺募集」タグで上位に来るのは、意外にも薄っぺらい説教への怒りのツイート。死にたい人から見たら、その気持ちがわからない人は人生経験が浅いと見えているはず(ある意味そのとおり)。「親から貰った大切な命云々」といった薄っぺらい言葉・倫理観など、ギリギリの人に通じるはずがない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926083377555374081

「障害があっても前向きに生きている人」「流産で生まれることもできなかった赤ちゃん」もいるのに、などと、死にたい人の苦痛を相対的に軽いものと見なして自殺を止めにかかるツイートも、嫌な気分になる。個人が感じる生きづらさの軽重は、そんなふうに比べられるものではない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926089811785482240

死にたい人は一時的にまともな判断力をなくしているのだという、よくある解釈もあまり好きじゃない。正常な人なら誰もが生きたいと思うほど、この社会で生きることは素晴らしいことじゃない。あるいは、生きることはそんなに言うほど素晴らしくない。素晴らしい素晴らしい言いすぎ。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927173060850937857

死んでほしくない人が自殺したいと言ってきたらどうするか? 自分なら、普通にきついと言ってる人とするような話をするだろう。楽になるあんなやり方や、こんな音楽もよかったよなどと。そのうえで、今やらなくても、様子見てればよくなるかもよ、くらいは言うかもしれない。(続く)
https://twitter.com/wtsurumi/status/926447631588458496

自殺だけやめさせようとしていると思われないように気をつける。自分が死にたいほうの立場だったら、誰のために言ってんだろうと思うから。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926451532299509761

自殺したい気持ちを抱える人について、「自爆テロにもなりかねない」とか「方向が変わればオウム真理教になる」などと言う輩がいるが(「自殺マニュアル」についてそう言う阿呆もいた)、人一倍苦しんでいる人間に対して、とんでもない侮辱だ。自殺を犯罪のように見なして忌避する風潮はなくしたい。
https://twitter.com/wtsurumi/status/925709032970584064

死んでほしくない人が死にたいと言ってきたら、紹介してみたいもののひとつに「認知の歪みの10か条」がある。認知療法で使われるものだが、読むだけでも楽になる。実際にひどい状況である場合もあるが。かつて本にも書いた。
http://www.nakaoclinic.ne.jp/mentalhealth/mh_02_01.html
https://twitter.com/wtsurumi/status/926800214874210305
(死にたい人は認知が歪んでいると見なしているということではまったくない。念のために)

認知療法、認知行動療法は、保険診療で受けられる。自分も以前に認知療法と行動改善を合わせた認知行動療法を受けていた。効くとは限らないが、薬物療法に煮詰まっている時にいいかもしれない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927536454724546562

最終的には、律儀に悩み心配してばかりいるのがいいかげん馬鹿馬鹿しくなり、すべてどうでもよくなって、可笑しさがこみあげてきたりするのが、自分なりの理想的脱出法。こういう時、人は強い。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927888206820814850

あまりにも悩み苦しんだ結果、すべてが馬鹿馬鹿しくどうでもよくなる開き直りの境地に至る最良のBGMはクレイジーキャッツ。そのうちなんとかなるだろう。
https://twitter.com/wtsurumi/status/928627508647309312

先日某紙の自殺に関する取材で、「死にたい人に何か言うとしたら?」と聞かれて「もっといい加減でいい、もっと不真面目でいいと思う」みたいなことを答えたのだが、真面目に思いつめる人より、ちゃらんぽらんな人のほうが生きやすいのだから、人生とは理不尽なものだ。ずっとそう思っている。
https://twitter.com/wtsurumi/status/932970533481672704

この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている。−−この世界について言えるのはこれだけだ。(カミュ『シーシュポスの神話』)
人間の理性では割り切れない不条理なことはいくらでも起きると。
https://twitter.com/wtsurumi/status/932979015131963392

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと(…)は、それ以後の問題だ。(カミュ『シーシュポスの神話』)
https://twitter.com/wtsurumi/status/933347398474014722

自殺の問題に始まる『シーシュポスの神話』で、人生が生きるに値するか否かを考え抜いたカミュは、不条理に抗って反抗的に生きることは幸福であるという結論に達している。
https://twitter.com/wtsurumi/status/934064560444600320


鶴見済ツイートまとめ読み(twilog)
posted by 鶴見済 at 10:05| Comment(0) | 生きづらさ | 更新情報をチェックする

2017年10月14日

「家庭のない定年前男女」は平日昼の住宅地に居づらい

201504191553001.jpg知人の50代男性が、仲間と平日昼間に近所の町中を散歩するイベントを企画している。それがやりづらいのはおかしいという意識からだそうだ。それを聞いて、必要なのはまさにそういう企画だなと思った。

「平日昼の住宅地にいる男は不審者扱いされる時代」などと言われるが、本当に許しがたいことだ。引きこもりの原因の一端もここにある。そんな空気のなかを出歩きたくないのは当然だ。
自分の地元には野宿者もいるのだが、彼らの居づらさは、我々の想像も及ばないほどだろう。
地域に居づらく、居場所がない人間は多い。

平日の昼の住宅地では、公園には母親と幼児、学校には子供たち、公民館には高齢者たちがいる。市が企画するイベントのチラシを見れば、それら「存在を認められた」層向けのものばかりだ。
お父さん、お母さん、子ども、おじいちゃん、おばあちゃん。昭和の時代であれば、それらの人たちが社会の構成員のほとんどだったと言っていいかもしれない。けれども今はそうではない。
今では大きな比重を占めている「家庭のない定年前の男女」の公の居場所はほぼない。行政にはそういう人間が見えていないのだ。

親子・高齢者層を自分たちと対立するものと思っているわけではないことは、十分強調しなければならない。自分にも家庭を持っている友人は多い。批判したいのは行政だ。

子育て支援、教育支援、高齢者支援等々、行政も各党も色々輝かしい政策を打ち出すが、「家庭のない定年前の男女」の生きづらさ問題など考えられていない。そうした相手にされてる層とされてない層の落差は感じざるを得ない。
こっちを見てもいない政治家を応援するのも、本当は空しい。残念ながら、左派政治家であってもそう感じる。

自分が参加している「0円ショップ」のいいところはひとつには絞り切れないが、自治体や国に目を向けてもらえない、あるいは住宅地で市民権を得ていない、地域に居場所が少ない有象無象の人たちの居場所になっているところもいい。以前にやっていた畑も、結局はそういうものになっていた。
そうした活動にはやりがいがある。

そして平日昼の住宅地を出歩こう。心ない連中にどう思われるかなど、気にしてやるだけ無駄だ。そんな連中に気に入られるために生きているわけではない。
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これはツイッターに連続的に書いた投稿を大幅に手直ししたもの。ツイッターへの投稿はすぐに消えてしまうので、本来長めに書いた方がいいこうした文章は、ブログに再掲載していきたい。と、以前から思っているのだが、なかなかできていない。
写真は、居場所のない人々の交流の場ともなっている0円ショップ。
posted by 鶴見済 at 12:05| Comment(0) | 生きづらさ | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

「人からどう思われるか」を基準に生きるのをやめる

「人からどう思われるのか」。
現代人が最も熱心に考えているのは、結局これなのではないか。とても高邁なことを言っている人でも、案外これを一番に考えていることが透けて見えたりする。
ここで言う「人」とは、いわゆる「世間の目」に限らず、友人、家族、同じ職場の人なども含んでいる。

大原扁理君とphaさんとやるトークイベントが12月2日にあるが、この二人のいいところは「人からどう思われるかを基準にして生きる」というあまりにも一般的な現代的生き方をきっぱりと否定して、「自分の生きたいように生きる」ことを重視しているところだ。
かく言う自分もかつてはそう主張していたし、今もそれは変わらない。

「自分の生きたいように生きる」とは、自分勝手で子どものようだと思うだろうか? 簡単なのは実は「みんながやっているようにやる」ことのほうで、まわりに合わせていれば問題も起きない。そっちがあまりに簡単なので、「自分がどう生きたいか」などということは真剣に考えられていないのではないかと思うほどだ。

まわりの人からよく思われることでなく、自分が本当にやりたいことを大事にして生きていると、どうしてもまわりとずれてくる。自分重視の生き方は、本当は誠実に熱心にやらないとできないのだ。
けれども「周囲の誰もがいいと思う完ぺきな自分」が出来上がったとして、当の自分はその時幸せだろうか。「人からよく思われる」ことを一番の基準にしていたら、本来の幸せは望めない。

pha×大原扁理×鶴見済「それぞれの幸福の自給自足法」B&B(予約終了)
去年の同じメンバーによるトーク 
pha × 大原扁理 × 鶴見済 生きづらさの脱出法 (tsurumi's talk)
posted by 鶴見済 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きづらさ | 更新情報をチェックする