スポーツジムに行くとうつが晴れることは認めざるを得ない

これまで散々自然がいいみたいなことを言ってきたので、「スポーツジムはいいぞ」とはなかなか言いづらい。けれどもうつに効くことをこれまで色々と挙げてきたのだから、これを挙げないわけにはいかない。 2か月くらい前から、安いスポーツジムに通いはじめた。そこではまっているのがルームランナーのような「ランニングマシン(トレッドミル)」だ。お金を払ってバカバカしい、外を走ればいいじゃないかと誰もが思うだろう。自分ももちろんずっとそう思っていた。 しかし違った。ランニングマシンはリアルに走るのとはまるで違う。まず、ベルトが回っているので自力で前に進んでいない。下に弾力があり、地面のように固くない。そしてエアコンが効いていて暑くならない。 つまりリアルに走るよりもはるかに楽なのだ。(何キロ走ったかが数字で出るが、あのとおりであるわけがない)自分はこれまでにも、よく外を走っていた。けれどもすぐにつらくなるので、1キロ(7~8分?)も続けて走れなかった。だから走るのも気が進まない。(歩くのも30分もすると飽きる)。けれどもこれなら10分でも20分でも走っていられるのだ。「現実にはない軽い全身運動を長く続けていられる機械」と言うべきか。(クロストレーナーという機具でもいい) そうすると軽い「ランナーズ・ハイ」みたいなのがやってくるのだ!一日中ハイキングしていた帰り道、プールで2時間泳いだ最後のあたりに時々来る、まだまだ続けられそうな気がしたり、やたら爽快に感じたりするあれだ。8千歩くらい歩いたり長時間走っ…

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盆踊りに行くとなぜうつが晴れるのか

梅雨明け直後に二晩連続で各々盛り上がることで有名な盆踊りに行ってみたら、うつが劇的に改善していた。去年も薄く感じていたのだが、今年のほうがはるかに病んでいたので、変化がハッキリとわかった。中途覚醒後に眠れなくなる症状も同時に忽然と消えたので、あれもうつのせいだったのかとわかった。こんなにうつが晴れたのは、5月に自転車で多摩川河口まで丸1日かけて行ってきた時以来だ。 片道4時間くらいかけて多摩川を河口まで自転車で走ってきたら、翌日うつが劇的に回復していた。理由がはっきりしなくても、一時的でも、こういう治り方はある。「セロトニンが~」という方向とは別の体系の、うつへの対処法や説明があり得るはず。 pic.twitter.com/1DyMvyPHGR— 鶴見済 『人間関係を半分降りる』発売中 (@wtsurumi) May 11, 2024 ちなみに東南アジアの海にシュノーケルをしに行った後は、最も劇的に、長い間うつが晴れることはわかっている。 こうなると「何がうつを晴らすのか」について考えざるを得ない。それがわかれば自分なりのオリジナルな技を開発して、うつをこまめに治していくこともできるのではないか。 盆踊りでは何がよかったのだろうか。行ったのは横浜・鶴見の總持寺の通称「一休さん盆踊り」(写真)と、高円寺にある大和町八幡神社の大盆踊りだった。どちらも人が多く盛り上がることで知られる。考えられる理由は、・ずっと踊っていたので運動になった・暑さで頭がボーっとして脳内が空白になった・…

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「ありのままじゃ悪いかよ」運動について

「ありのままじゃ悪いかよ」という動きがアメリカを中心にあり、以前からこれについて書きたいと思っていた。 メーガン・トレイナーという人の『オール・アバウト・ザット・ベース』という曲が、10年前に全米8週連続1位の大ヒットになった。この曲は「太っていてもいいでしょ」と歌っていて、ファット・アクセプタンスとかボディ・アクセプタンスとか言われる体型肯定運動のアンセムになって、それを推し進めたという。その話を聞いてグッと来た。インスタで人の体型を見て心を病む若者の問題が深刻ななか、こんな新人のデビュー曲をそこまでヒットさせたアメリカのムードにも感心した(「やせた写真加工もやめよう」との歌詞もある)。 Meghan Trainor - All About That Bass (Japan Subtitled Version) この曲のメッセージを「セルフ・アクセプタンス(自己受容)」と書いている記事もあった。こうしたムーブメントは様々なテーマに及んでいて、それらをまとめた何かいい言い方はないかと思っていたので、その言葉は頭に残った。 マイノリティの肯定という動きは以前からある。例えば、アカデミー賞を東アジア系の作品、役者に受賞させるようになって何年か経つが、これは少数人種についての動きだ。性的マイノリティについては言うまでもない。メーガン・ジー・スタリオンのように、黒人女性や性的に奔放な女性を元気づけようとする女性ラッパーも多い。ただし、それだけではない。 例えばマイノリティとは関係なく…

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「褒められること」の肯定。京王線ジョーカー氏の件、その2

先日ある読書会に出ていた時、一緒に参加していた友人がこんなことを言った。「どうせ死ぬんだと思った人が無差別殺人をするのを、どうすればなくせるんだろう?(大意)」自分は大体こんなふうに答えた。「どうせ死ぬと思ったから人を殺すわけじゃない。余命数ヶ月の宣告をされたがん患者は無差別殺人をしない。あれらの人たちは、ああいうことがしたくてやっていると思う。あれをなくすには彼らが褒められればいい」 これは前回のブログの続きだ。前回書いたのは、京王線ジョーカー氏が首吊りを2度失敗したと証言したことから、「死刑になるためにやった」発言そのものが信用できず、彼のやりたかったことは、あのジョーカーの格好と大騒動そのものだったのだろうということだった。 もうひとつ似たケースとして、東大前無差別殺傷事件を見てみよう。東大志願者のあの犯人は「死刑になって死ぬため」という論法は取らなかった。よく似ているが死刑は通さず、「人を殺すことで罪悪感を背負い、その勢いで自殺するためにやった」という論法を選んだ。(ここまで無茶苦茶な言い分は、社会としても受け入れるべきではない)。 彼の場合も「大学受験の日に東大の前で」犯行を行うことは、その目的と一切関係ない。東大赤門を燃やすことまで計画していたが、赤門も関係ない。わざわざ上京しなくても、住んでいる名古屋で事件を起こせばいいのだ。彼がやりたかったこともやはり、この東大前の大騒動を起こすことだったと思う。 己の存在をないがしろにされ続けた人のなかからは(自らをないがしろ…

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京王線ジョーカー氏が本当にやりたかったこと

書きにくいことだが、こんなことは自分が言わなければ誰も言わないだろうから書く。京王線ジョーカー事件の犯人の裁判での証言の肝心な部分が、率直に言えば、どうしても信じられないのだ。 念のためにあらかじめ強調しておきたいが、自分は彼に「自殺をすればいいのに」と言いたいわけではない。(書きにくいのはこういう誤解のせいだが、そのせいで考えを言えなくなるのはおかしい)。 彼はこれまでに二度、自殺に失敗したと言う。最初は中学生の時、自宅の屋上で首を吊ったところ、「何かの拍子にロープが外れて」失敗したそうだ。そして社会人になった18歳の時、また自宅の屋上で首を吊ったが、気づいたら病院のベッドの上だったそうだ。一度ならあるかもしれない。けれども二度も同じ場所で、首吊りを失敗するというのはどうか。首吊りを成功させる条件なんて、わざわざ調べなくても子供にもわかる。それを二度も失敗したと言うのだ。 そして彼の言い分では、このことが無差別殺人に走った大きな原因となった。 つまり、自分で死ぬことはできない。死刑になって死ぬしかない。そう考えて、「大量殺人から死刑」という遠大な道を選んだという。確実に死ぬために「確実な首つり」を選ぶのではなく。あるいはもっと確実な別の自殺手段を検討するのではなく。 ではその「死に方」はそんなに確実だったのだろうか。彼はまず、「殺人のモチベーションを保つのに苦労した」と語る。それを克服してとほうもない準備を重ねて犯行にこぎつけても、技術的にも大量殺人などできなかった。死ぬために…

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「ジャニー性加害」が突然大問題になったことの重大さ

ついこの間まで「大した問題ではない」と見なされていたことが、突然重大問題だと騒がれだす。それも知られていなかった問題ではなく、広く知られていて裁判でも有罪判決が出ているような問題がだ。 もちろん、ジャニー喜多川氏の性加害問題のことを言っている。けれどもあることが、社会に「問題認定」された途端に大騒ぎになるのは珍しいことではない。「加害」全般がそうなったのが最近のことだ。性的マイノリティの問題だってそうだろう。発達障害やHSPだって最近だ。これらはどれも、それまで誰もが知っていた問題だ。 なぜこんなことが起きるのだろう? その大きな原因が今回は明らかになったと思う。 ジャニー氏の性加害問題は、北公次氏が告発本をベストセラーにした80年代から、多くの人に知られていた。それが今回大問題となったきっかけは、今年3月にBBCがその特集番組を作ったことだ。 では大問題認定の「瞬間」には何が起きたか?マスコミがそれまでの「大した問題ではない」という態度を一斉に翻したのだ。さすがにBBCが取り上げたらもうごまかしようがないと各社が判断した。この瞬間については、もっと語られるべきだ。 このことを誠実に謝罪した東京新聞と日本テレビの双方は、「しょせんは芸能界のスキャンダル」くらいに見なしていたと語っている。(テレビ局については正確には「事務所の味方をしよう」という態度を「事務所を責めよう」に一変させたと言うべきだ)。私たちは反省します 東京新聞はジャニー喜多川氏の性加害問題に向き合えていませんで…

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「自分らしく生きられる社会を」は悪いのだそうだ

「自分らしく生きられる社会を」と意識の高いやつらが言えば言うほど、真の弱者が死に追いやられる。こんな論理が、今かなり広まっているから驚きだ。 「意識の高いやつらが~と言うほど、真の弱者が死に追いやられる」には、すでにたくさんの言い方がある。たとえば「エコ」。そしてこの論はこのシリーズの最新バージョンということになるだろう。 ここでの〈真の弱者〉とは、カネのないキモいオッサンとか、氷河期世代でニートひきこもり、といった人が、何となく想定されているようだ。重度の障害者やホームレスなどが含まれないところが味噌だ。 「自分らしく生きられる社会を」と提唱すると、能力のある人はスポーツ選手やアーティストなどになれるが、能力のない人はそうなれない。能力重視の社会になるのだから(←ここの論理展開に大きな飛躍がある)、自分らしく生きられない人は死にたくなる、という主張がメインのようだ。 ところで、ここで〈真の弱者〉と呼ばれるような人の界隈で自分は生きている。日常的にまわりはそんな人ばかりだし、自分がやっている居場所に来るのも当然そんな人たちだ(もちろん自分だって同じ弱者だが)。 そしてそんな人たちが、「自分らしく生きられる社会」になって死に追いやられるなんてまったく思えないのだ。むしろ江戸時代や明治時代、そして昭和に至っても、みんなが同じような「ちゃんとした」「しっかりした」、そして色々な意味で「強い」人間を強いられている社会のほうがはるかに死にたくなるだろう。「自分らしく弱くていい」「自分ら…

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「ナチスにもいい人がいた」と言う勇気

「ナチスにもいい人はいた」と証言している人がいたらどう思うだろう。こうしたことについては今もまだ定説がないので、意見は分かれるはずだ。 アウシュビッツなどの強制収容所からかろうじて生還した、V・フランクルというユダヤ人の精神科医・心理学者がいる。その体験を記した『夜と霧』はあまりにも有名な本だ。 彼は生還後「ナチスにもいい人がいた」と著書や講演会で語り続けた人でもある。収容所で監視員を任されたユダヤ人にもひどい悪人がいたとも主張した。戦後に巻き起こった「ナチス=悪、ユダヤ人=善」という決めつけ論に異を唱えたのだ。そしてナチスはみんな連帯責任だという「ナチス共同責任論」に反対しつづけた。彼はそのせいで、ユダヤ人側からの批判・中傷にさらされることにもなった。 自分がこれを知った時に思ったのは、「そんなこと言わなきゃいいのに」だった。「ナチス=悪」としようというのは戦後の世界全体の運動のようなものだ。『夜と霧』と『アンネの日記』はその聖典のように扱われた。フランクルも、奇跡の生還を果たし反ナチス運動にまい進した聖人と崇められればいいではないか。 けれども彼は「それが真実だから」「自分のような者が言うから信じてもらえる」と、言うことをやめなかった。確かにナチス側の誰かがそれを言ったところで信じてなんかもらえない。考えてみれば、ナチスにもいい人がいたなんて当たり前のことではないか。彼は最後にいた収容所の所長がいい人だったので、米軍がやってきて引き渡す時に、彼に触れるなと交渉したと見ら…

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子どもを産まない人が増えると社会が発展するかも

別に奇をてらってこんなタイトルをつけたわけではない。まだそれほど知られていないが、こんな見方をする専門家もいるという話だ。 いきなりだが、ハダカデバネズミというひどい名前のネズミがいる。 そしてこのネズミが一番変わっているのは、哺乳類にしてはとても珍しく、女王ネズミがすべての子を産むというシステムを取っていることだ。そして生まれた子供は分業体制で、社会全体で育てる。ひとつの集団は100匹くらいで成り立っているそうだ。 これによってこのネズミはどうなったか? 彼らはわりと短命な普通のネズミに比べて10倍も長寿なのだ。各々別のメスが子どもを産むより、一匹がまとめて産んだほうがエネルギー効率がいい。(もちろん効率がいいことは、何でもかんでも人の幸せにつながるわけではないが)。この場合は、各自の労働量が減りストレスが減る。 つまりたくさん産みたい人に産んでもらって、みんなでそれを育てたほうが社会としてよくなる面があるというわけだ。 これは『生物はなぜ死ぬのか』という、今かなり話題の本に書いてある話だ。著者の小林武彦氏は、ハダカデバネズミを参考にした人間社会の具体的な政策モデルまで提案している。 自分はこの話を聞いて、すぐに国際養子縁組を思い出した。海外の恵まれない子供を、主に先進国の里親が譲り受けるシステムだ。日本では珍しいけれども、欧米では普通だ。そして世界には多産で人口が増え続けている国があり、しかも貧困のせいでひどい境遇に陥る子供もたくさんいる。(先進国でももっと産みたいのに、…

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苦しいことはわかってるのさ、さあ陽気に行こう

高石ともやの『陽気に行こう』という曲が10代のころから好きだった。ものすごくダサい曲なんだけど、この曲の代わりになる曲はこの年になっても見つからない。自分はダサい曲もわりと抵抗なく聴くほうで、ダサいなんて理由でもっと大きなものを取りこぼしたくないと思っているからだ。 (Spotify) 高石ともやは60年代の日本のフォークソングの黎明期からいる人で、自分も後追いで知った。この曲はカーター・ファミリーという戦前アメリカのフォークグループのヒット曲(Keep On The Sunny Side )のカバーだ(それもまたカバーで、その元曲となると19世紀)。ダサいに決まっている。 自分もカーター・ファミリーバージョンはそんなに好きではない。高石ともやバージョンの違いは、ザビに「苦しいことはわかってるのさ」というオリジナルの一言を入れたところだろう。 嵐吹き荒れても 望み奪われても 悲しみは通り過ぎて行く 陽も輝くだろう陽気に行こう どんな時でも 陽気に行こう苦しい事は解ってるのさ さぁ陽気に行こう(『陽気に行こう』の2番の歌詞) もともと陽気な人が歌う「陽気に行こう」とか「Take It Easy」なんて、あまり聴きたくない。苦しい人が自分に必死に言い聞かせる「陽気に行こう」には聴く価値がある。高石ともやがそういう人かどうかはわからないが。 自分はザ・スターリンやあぶらだこのようなドロドロした曲を毎日聴いていた時でも、この『陽気に行こう』は聴いていた。今も部屋でよ…

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大江健三郎『セヴンティーン』と自意識過剰という病

「俺は自分を意識する、そして次の瞬間、世界じゅうのあらゆる他人から意地悪な眼でじろじろ見つめられているように感じ、体の動きがぎこちなくなり、体のあらゆる部分が蜂起して勝手なことをやりはじめたように感じる。恥ずかしくて死にたくなる、おれという肉体プラス精神がこの世にあるというだけで恥ずかしくて死にたくなるのだ。」(大江健三郎『セヴンティーン』〈短編集『性的人間』所収〉より) 実は大江健三郎から大きな影響を受けている。そして『セヴンティーン』は最初に読んだ作品であり、ダントツに好きな作品だ。 高校の時この一節に触れて、「これは俺だ」と思った。この青年がどのように日々を生き、どのようにこれを克服したかというのが、この作品のテーマだ。 まずはこの作品について書こう。(最後のほうにネタバレの箇所を明示しているので、読むと決めている人はそこは避けてください)。 さて、「俺は自分を意識する」という「症状」を、単に社交不安障害(対人恐怖症)と言ってしまうとちょっと違う。「自意識過剰」とでも言うべきだろうか。もちろん「うぬぼれ」なんていう意味ではない。つまり考えすぎ、意識しすぎという状態に陥っていて、その過剰な意識が全部自分自身に向いているという状態だ。 自分は変な臭いを放っているのではないか(自己臭恐怖)。自分は容姿が醜いのではないか(醜貌恐怖)。自分は重い病気にかかっているのではないか(疾病恐怖)。「にやりと笑う、睨む」など不快感を与える表情をしているのではないか(表情恐怖)。 これ…

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「病院に笑いが必要だ」と発想すること、映画『パッチ・アダムス』

映画そのものの出来がいいとは思わないのに(失礼)、いつまでも頭から離れない映画がある。『パッチ・アダムス』という映画だ。病院の患者を笑わせようとしたアダムスという男の話(彼の功績はそれだけではないが)。 彼は医学生だった頃、入院中の患者の部屋を訪れ、道化師(クラウン)を演じたりギャグを言ったりして患者を笑わせていた。笑顔がなかった小児がん?の病室の子どもたちも、怒ってばかりの末期すい臓がんの男性も笑う。これで患者が快方に向かうことはないだろう。けれども彼らが笑った時、何か大きな変革が起きたように感じられる。 「死を遅らせるだけではなく、生の質(QOL)を高めることだ」というアダムスのセリフもある。そういうことだ。 そして彼の試みは後にホスピタル・クラウン(ケアリング・クラウン)という活動を生み出す。これは道化師の格好で病室を訪問して、道化を演じて患者を笑わせる活動だ。欧米では文化として定着しつつあるという。今は主に子どもに対して行われているようだが、それだけではもったいない。終末医療の現場全般でも活躍してほしい。 「病院に笑いが必要なのではないか」と思うこと。そこには何か、幸せとか生きづらさの解消とかいうことの本質があるように思えるのだった。それだ、などと思う。 残念ながら医療に笑いがなぜ必要なのか、数値や理屈ではまだ十分な証拠をあげることはできないだろう。まあ、自分がひしひしとそう感じるだけなのかもしれない。 「笑いは鎮痛作用蛋白の分泌を促進し、血液中の酸素を増し、心…

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「危ない」だらけのフィリピン、生き生きした感覚をなくした我々

フィリピンのセブ島とその近辺を、10年ぶりに2週間ブラブラしてきた。日本とはまるで違う「危ない」だらけの場所だった。けれどもそれが嫌だったかというと、そうでもない。それどころか、歩いているうちに生き生きしてきた。我ながらつくづく考えてしまった。 「危ない」だらけとはどういうことか。まずは犯罪だ。例えばセブ島最大の都市セブシティのダウンタウン(貧困地区)。ここの目抜き通り(コロン通り)や巨大マーケット(カルボンマーケット)は、ガイドブックでも行ってはいけないとか、車から見るだけにしておけと言われるところ。確かにスリはいるようだ。歩道ですら満員電車状態なので、カバンは前でしっかり持っていたほうがいい。ストリートチルドレンのたかりも多くて、子供だからと安心してはいけない。けれどもダウンタウンはとても広くて、むしろこの街のメインだ。スラムではなく普通の人々が暮らしているのだし、行ってはいけないなどという扱いはちょっと腹立たしくもある。 そして食べ物の菌。これ以降は大都市ダウンタウンでも、地方都市・田舎町でも同じだ。屋台では店頭に一日中食べ物を出しているので、衛生的には日本ではアウトだろう。加熱もせず日が当たったりしている。けれどもこの屋台飯が異様においしいので、腹をこわすぞと言われるがこればかり食べていた。 そして事故・怪我の危険も多い。10年前に比べれば横断歩道・信号は増えたものの、まだまだ多くない。車が通らないタイミングで道を渡るのは当たり前だ。自分はレンタルバイクをよく借りていたが、ま…

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ふざけていることの価値、パンクの魅力

自分にとってのパンクとは、大まかに言えばセックス・ピストルズだった。わりと普通のことだが、最初に聴いたパンクが彼らの『アナーキー・イン・ザ・UK』だった。中3の頃ラジオから録音したのだが、なぜか『The Great R&R Swindle』のほうのバージョンだった。 Anarchy In The UK 「ピストルズですごかったのはボーカルの歌い方だ」とよく言ってきた。最初は英語を歌っているとは思っていなかった。「アーイヤイヤイ、UK!」みたいな掛け声と、片言の英語かと思っていた。なのでちゃんと英語を歌ってるとわかったのは、もっと後のことだった。そして歌がない部分では、笑ったりべらべら喋ったりしている。なんてふざけてるんだと衝撃を受けた。 熱い、悲しい、怒った、カッコいい、深いなど色々な曲を聴いてきたが、ふざけてるというのは滅多になかった(少なくともロックでは)。もっとも、本当にふざけてやったものは、もっと別の質の低いものになるので、彼らは「ふざけているように見えるように」熱心にやっていたと言えるのだが。 その『Swindle』の他の曲もふざけたものばっかりで、ヘビロテだった。ダムドにいたキャプテン・センシブルのソロ大ヒット曲『ハッピー・トーク』(パンクなのに!)なんかはふざけすぎていて、今もよく聴いている。ここまでではなくても、パンクにはこうした良き「いいかげん」のテイストがしみ込んでいる部分が多くて、特に酒を飲みながら聴いたりすると、何もかも笑い飛ばしているような気分になれるのだ…

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対人恐怖症は「大人になれないせい」と見なされていた

吃音(どもり)の原因が、かつては家族や本人のせいとされていたことを、ひきポスというひきこもりのサイトの記事で知った。記事を書いた人はそれをこのままにしたくないと語る。不登校と吃音の共通点 これを読んで、対人恐怖症(社交不安障害)にも似たような過去があったことを書きたくなった。 対人恐怖症は少なくとも80年代まで、本人が「大人になれないせい」で生じる病理現象とされていた。「本人の未熟さのせい」と言いかえてもいい。当時の精神病の本には、「友人とはたがいに信じあうものなのに、その友人が怖いなんてなんと子供なのか」なんて書いてあるのだ。アホか。 いや、対人恐怖症だけではない。たいていの恐怖症(強迫神経症)や不安障害も「大人になれないせい」だった。うつや怠惰まで「アパシー」と呼ばれ、「大人になれないせい」にされた。「不登校(登校拒否)」ももちろんこのくくりのなかに入る。自分も以前に少し書いたことがある。「大人になれない若者」批判が流行っていた ではどうすれば「大人になった」と認めてもらえるのか。それは「社会性を身につけること」なのだ。具体的に言えば就職する(社会に出る)ことだ。「社会に適応できる」こと。学校に行けないなら、行けるようになること。「内向性から外向性へ」みたいにも言われてもいた。自分の内面世界に閉じこもって、営業マンっぽくなれない人はダメなのだ。これは内面世界全般を否定されているようで空恐ろしかった。そしてそれができない者は「精神病」という病気であり、治療をして「社会性を持っ…

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それでも「人に迷惑をかけてはいけない」

「人に迷惑を?」と聞いたら、今では「かけていい」という答えのほうが多く返ってきそうだ。そのくらい「もっと人に迷惑をかけていい」は流行りの言葉になっている。これにはさすがに当惑する。 なぜなら自分が世の中のルールで一番大事なのは、「人に迷惑をかけてはいけない」だと思っているからだ。相手に迷惑行為をしたり、嫌がることを言ったり、殴ったり、殺したり、、、人に迷惑をかけていいなら、他に何か禁じるべきことがあるだろうか。 「人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい」むしろこう主張したい。なんて胸のすく言葉なんだ。人に迷惑もかけていないのに、ガ―ガ―と非難することが多すぎるのだ。 いや、もちろん「人に迷惑をかけていい」の真意はわかっているつもりだ。そう言っている人は、「もっと人に助けて(手伝って)もらっていい」と言いたいのだろう。その言葉がどこから出てきたのかも大体わかる。70年代の障害者の運動からだろう。なのでその言葉は「人に助けてもらっていい」に言いかえたほうがいいのではないかと、以前から言っている。それなら大賛成だ。 一方自分が大事に思っているルールのほうも、「迷惑」という言葉はちょっと違う。「人を加害してはいけない」「不当に攻撃してはいけない」(※)といったところか。 「皆さんも攻撃だけはしないほうがいいですよ」こんなことを先日、一年に一度だけやっている大学の講義で言った。不適応者の居場所の話のついでだったのだが、若い人にひとつだけ伝えたいことはなんだろうとあらかじめ考えて言ったこ…

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群れのなかにいることと自分で考えること

群れのなかのその時その時のノリで「いい/悪い」が決まってしまう世界がある。内藤朝雄氏の『いじめの構造』という本では、そんな秩序を「群生秩序」と呼ぶ。学校の秩序とはそういうものだ。この本はいじめについての本のなかでも、いじめをする側の心理を解き明かしている点で特に優れている。一方、普遍的なルールによって善し悪しが決まる秩序を「普遍秩序」と呼んでいる。確かにそういうものは、学校の外にもある。 例えばグループのリーダー格の人物がハンバーガー店の看板を見て、「ハンバーガー食いてえな」と言ったとする。「ハンバーガーうめえよな」とまわりの者がそれに次々に従う。そのなかで「昼飯ならさっき食べたばかりじゃないか」と思っても、それが理にかなっていても、言わないでいたほうがいいかもしれない。 自分が思うのは、こういう秩序のなかで生きていると、「みんながどう思っているか」ばかり考えることになるということだ。特に身に危険が及ぶ時などは、必死にそればかり考える(「読む」と言うべきか)だろう。普遍的な秩序のなかにいれば、もっと普遍的なことを考えるはずなのに。群れのノリのなかで生きる場合は、一般的に見たらどうかにこだわるとむしろ身が危ない。(ナチスドイツのなかで官僚だった場合とか)。 自分は常々、「自分の頭で考えずに他の人の考えばかりうかがっている」ようなことがどうして起きるかつについて考えることが多い。もちろん自分だって他人事ではないし、それをなくすなんてこともありえない。けれどもひとつには、こうした群生秩…

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運次第の残酷な世界に生きている

最深部の問題とか最終的な問題と呼んでいる問題がある。例えば誰かとのつきあいとか、社会の制度といった浮いては消える問題よりも、はるかに深いところにある問題という意味だ。生き物の生死とか、地球環境とか、宇宙とか物理とか、そういった問題よりももっと深いと思う。我々が持ってしまう世界への絶望やムカつきの根源に何があるのか。人が生きるうえでもこれが一番深い思いになったりするので、書くのにも慎重になる。*********************まずどれだけ科学や理性を発達させたところで、やはりこの世の中は「運次第(あるいは偶然)」で成り立っている。「でたらめ」ということだ。生まれる家族や土地。人の持つすべての遺伝子、人の容姿。これらは100%運で決まる。人生において出会う相手も、運の力がはるかに大きい。(自分にとって人生最悪レベルの人物との出会いは、自分で選んだものだっただろうか?)いや、それよりも、ちょっとした「つき」の有無で、誠実さや頑張りなどが吹き飛んだりすることがどれだけ多いだろう。人生において努力で何とかなっている部分なんか、3割くらいなんじゃないだろうか。人間は科学を発達させて結果を制御したり、社会を整えて「正直者がバカを見る」ことが少ないように工夫してきた。それでもやはり、これだけのことが運次第であるところを見ても、この世界はまったく「できが悪い」のだ。(実際に途上国では、もっと運や偶然の力が大きいだろう。大人の世界より子どもの世界のほうが、運や偶然に左右されやすいとも思う)。どんなに誠実にコツ…

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本当の気持ちを言う時、声が震える(涙が出る)

HSP(繊細さん)関連で、「自分の本当の気持ちを人に言う時、涙が出てしまう」という悩みがよく語られるようになった。例えば、どうしても言えなかった不満を相手に伝える時でも、泣いてしまうので不審がられるとか。 これはHSPに限ったことなのか?自分はかつてHSPの症状がありまくりだったが、今はそれほどでもない。けれどもこの悩みは続いている。 たまにやる大学の講義やひとりでやるトークイベントなどで、最後の10分くらいのところに自分の思いのたけを語る場面を持ってくる。そのあたりにぐっと来る内容を考えていくのは普通のやり方だ。ただ自分はそこで、声が泣いている人のようにようにわなわなと震えてしまう。目も潤むのだが、涙が出るほどではない。生徒全員の顔がハッと一斉に上がるのがわかる。 インタビューを受けている時でも、そうなることがある。それでも講義などの時は、そのまま話し続けることにしている。心が落ち着くまで話を止めたりしない。つまり、それを恥ずかしいことと見なさない。生徒さんたちの目は壇上にくぎ付けになっている。注目してほしいところなのだから、それでいいのかなと。ぐっとくる話をしている人の声まで震えているなんて、なかなかいい演出ではないか。 対策としては、「本当の気持ちを言い慣れていないからそうなる。言い慣れればよい」とよく言われているようだ。けれどもそうだろうか。自分ほど人前でも本音ばっかり言っている人間もそうそういないと思うのに、毎度毎度声が震えるのだ。 これはHSP特有の症状と言うより、人…

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死んだらどこへ行くのか、見田宗介追悼最終

見田宗介氏追悼記事の最後は、「波としての自我」の話をぜひしておきたい。ただこういう話、ガッツリやろうとすると、仕事みたいに大変になるので、適当にやりたい。我々は生まれる時にどこからやって来て、死んだあとどこに行くのか?いきなり何言ってんだと思うかもしれないが、これは多くの地域の神話・民話に見られる、人間が持つごく普通の疑問だ。 その答えになる見田氏の言葉を少し、『現代との対話 見田宗介』というインタビュー本から。 「〈私〉は自然の波頭のひとつだと。宇宙という海の波立ちの様々なかたちとして、個体としての「自我」はあるのだと」。「海が宇宙だとすると、波というのはある数秒間の形としてあるわけです。自我というのは宇宙の海の波みたいなもの」 この「自我=波」という例えは、本のどこかに書いてあっただろうか?本来は『自我の起源』に書いてあるべきことなのだが、ここにはない。(ただし、この本の表紙を見よ!)。それでもこれは見田氏の論のなかでも、最大レベルの重要事項だと思う。 そんなわけでこれから書くのは、自分がその骨格に勝手に肉づけしているものと思ってほしい。 まず、自我は「自己意識」と言いかえることができる。「自分で自分を意識している」ことで、これは生物のなかでも人間にしかないものとされる。自己意識の誕生は、生物進化の流れのなかのひとつの大きな山と言える。(このあたりは『自我の起源』から)。 では、自我が波とはどういうことか? 波は海の水の高まりで、海が盛り上がっては波(あるいは波頭…

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