2019年05月28日

エジプトの駄弁り文化はすさまじい

DSC_19562.JPGエジプトに少し長めの旅行に行ってきた。
自分は旅行中、そこに住んでいる人の暮らしに触れるのが好きなので、地域の屋台や小さな飲食店にばかり行っている。地元の人が乗りこなす小さなバスにもよく乗る(料金は15円くらい)。自転車や徒歩で、住宅地みたいなところを見て回るのも好きだ。

今回そんなふうに見ていて驚いたのが、都会でも地方でも盛んな駄弁り文化・カフェ文化だ。
カフェは夕方から夜にかけて、駄弁る人々で一杯になる。カイロのカフェが集中している地帯では、ざわざわと話声が響いている。地方ではサッカーの中継を大画面で見る人も多い。街頭テレビといったところか。
平日昼でも、水タバコを吸いながらのんびり話していたり、独特のボードゲームをしていたり。
カフェに限らず、街頭や公園のそこかしこに腰かけて、あるいは連れ立って歩きながら、延々と会話をしている。
大通りでない路地にも、子供も大人も人が溢れていて、彼らがまた立ち話をしている。

インドネシアをはじめ東南アジアでもよく感じたのだが、平日でも人々が夜に連れ立って外に出て、延々駄弁るという文化がある。学校や職場しか行くところがないような社会とはまるで違う。
エジプトは物質的には豊かな国とは言えない。失業率も高い。そんな場所で何か楽しめることと言えば、やはり会話ということになるだろう。何しろ無料だし、昔から親しまれてきた娯楽だ。
もしこの会話を毎日数時間でも心から楽しんでいるなら、他に何もいらないかもな、と思える。

もちろん、旅行者にはわからない仲間外れ、いじめ、敵対はあるに決まっている。第三世界はおおむね日本より荒っぽさを感じるので、こうしたものも日本より多い気がする。イスラム教が強いので、個人の自由という概念が強いとも思えない。と言うよりイスラム教圏は、日本も含め自分が行ったことがある地域のなかでも、同調圧力はMAXであると感じる。
それでも、駄弁る大勢の人々のなか路上に座っていると、浮いているくせに「ああいい感じだ」とどうしようもなく思ってしまう。
こうしたカルチャーのいい部分だけ、日本にも取り戻したい。あくまでも、いい部分だけ。
(※)写真は大都会カイロのものだが、地方のカフェでは女性は見たことがなかった。

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2019年02月19日

弱者認定をしてもらうことへの違和感

日頃から自らの弱さの公開はとても大事だと言っているし、自分でもそれをやってきた自負はある。けれども、自分はこんなにかわいそうな立場なんですよと世間や周囲に認めてもらおうとするのは、自分としてはちょっと違う。
例えば、自分は精神病だと言うことで、進んで弱者カテゴリーのなかに自分を押し込んでいけば、「かわいそう」というある種の特別扱いをしてもらえることは予想できる。
けれども、それはとてもムズムズする違和感のあることなのだ。
今は本当に色々な精神障害が認められるようになって、それは掛け値なしにいいことなのだけれども、注意すべきところもある。

DSC_1190.JPGミシェル・フーコーというフランスの思想家は、狂人と言われた人が古くから今までに、ヨーロッパでどんな扱いを受けてきたかを研究した。
かつて狂人は、村のなかで自由にしていたり、後には犯罪者や物乞いなどと一緒に収容所に閉じ込められていた。それが18世紀末から「精神病者」という「病人」として扱われるようになって、今に至っている。

それはいいことではある。
けれどもフーコーは、まさにここに大きな問題があると考える。狂人と呼ばれていた人が、病気で判断能力がないとされ、社会的な責任を免除され、精神科医の子供のように扱われるようになるからだ。
狂人はかつて、我々の「理性的にまとまった判断」を脅かす、不安にさせる、それなりの一個の存在だった。けれども、それですらない「かわいそう」でしかない存在になったわけだ。

これと同じことを、弱者認定の問題に感じる。
自分が90年代に、弱さを公開しつつも、弱者カテゴリーに入れてもらうようなことをしなかったのは、ここに抵抗があったからだ。
「かわいそう」扱いを受けて頭をなでられがならではなく、社会に普通にいる人たちと同じ位置から、社会にものを言う者でありたい。既存の社会通念を揺さぶるようなことをしたいわけだから。「かわいそうですね、助けてあげますよ」などと言っている人たちも、揺さぶる対象に入っているのだから。
わかりやすい弱者でない分、反発も増えるかもしれないが、その代わりにとても大事なものを守っているのだ。
これは社会にものを言う、言わないにかかわらず、もちろん精神障害だけの話でもなく、誰にでもあてはまることだ。

こういった内容は、140字のTwitterでは書けないので、ブログ向きであるなあ。
posted by 鶴見済 at 12:40| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月06日

「貧乏暮らし」ではなく「簡素な生」ーー『清貧の思想』から

51tcO0E2srL._SX332_BO1,204,203,200_.jpgミニマリスト、小屋暮らし、モバイルハウス(車上生活)、隠居、、、
これらは、お金や物にとらわれない新しい生き方として注目されがちだが、志向されているのは単に貧乏ではないだろうという話。
フリーランスやあまり働かない選択、「プア充」などについても言える広い傾向について。

『清貧の思想』という90年代のベストセラーを久々に読み返すと、そのあたりのことがはっきりしてくる。
この本には、松尾芭蕉、良寛、西行、鴨長明、吉田兼好(註1)といった、日本を代表する世捨て人たちの価値観を、「日本文化の精髄」として紹介している。
そこで強調されているのが、著者が「清貧」という言葉で言おうとしてるのは、単にお金や財産を持たないことではなく、「簡素な生」のことだということ。
(註1)彼らは低い身分ではなかったので、最低限のお金は持っていたと思われるが。良寛以外は。

その価値観においては、お金や財産はひとつの要素にすぎず、地位、人間関係、業績、他者評価、将来、過去など、自分の外にあるものすべてを、自分の幸福の根拠としないつまりは、「現在」と「自分」の充足を重視した。
そしてこうしたシンプルさを重んじる感覚は、決して彼らのような特別な立場の人間だけのものではなく、庶民にまで広く行きわたっていたそうだ。
(註2)もともと仏教とともに来た考え方だそうなので、大陸にも大きな流れとしてあったはずだ。

これは今の傾向にも言えることだ。日本にもアメリカにもこんな傾向があり、物にあふれた時代を経験したことや、リーマンショックのような経済破綻を目の当たりにしたことから来ているだろう。

こういう価値観が全然珍しいことではなく、古くからこの地の文化の重要な側面だった、というのがなかなか嬉しい。

これだけではまだうまく言い表せていないのだけれども、ブログで完全を目指してもしょうがない。軽く書くほうがいいと思っているところなので、このへんで。
posted by 鶴見済 at 12:32| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月07日

世間に背を向ける者はいつの時代にもいる

1104776.jpg正月にはいつも、世間に背を向けたはぐれ者が放浪の旅をする映画を観る。アメリカン・ニューシネマというジャンルにこの手の映画が多く、『イージー・ライダー』はその代表だ(註1)。
「自分の人生なんだ。好きなように生きていいんだ」というスカッとした気分になれる。

(註1)他に『バニシング・ポイント』『明日に向かって撃て』『俺たちに明日はない』『さらば冬のかもめ』『スケアクロウ』など。『テルマ・アンド・ルイーズ』『モーターサイクル・ダイアリー』なども。

今年観たのは、『イントゥ・ザ・ワイルド』だった。ネタバレになるので多くは書かないが、大学を卒業した実在アメリカ青年が「この人生」「この生活」に疑問を持ち、本当の生き方を求めて放浪と荒野の一人暮らしをする映画だ。まあ面白かった。
自分はこういうタイプの人や映画に強く惹かれる。

世間やこの人生・この生活に嫌気がさして放浪や自然内独居に向かった例は枚挙にいとまがない。ソロー、ランボー、ケルアック、鴨長明、松尾芭蕉、、、など時代や地域を問わず無数にいる。今の小屋暮らしやモバイルハウスも、その系譜に入るだろう(註2)。
(註2)ただ、ソロー、ケルアックの作品については、そんなに面白いと思っていない。

実は、今のひきこもりの人たちも、ある意味、こうしたものの一形態ではないかと考えている。放浪も自然暮らしもできないなら、部屋に閉じこもるのが「脱世間」のやり方だからだ。メンタリティーは共通している。
江戸時代以前の出家する僧侶や、現代のミニマリストにも、共通するものを感じる。

日頃あれこれと各方面のことを気にして、心配事で頭がいっぱいになって、気が重くなっていることすら当たり前になり、自覚できなくなっている。大体このようなものが、大方の人の「この人生」「この生活」になっていると言えるだろう。
いつの時代でも、どんな地域でも、ある程度そうかもしれない。
そんな時は、「自分の人生、好きなように生きていい」「思い切って道を踏み外していい、そうしないとわからない」「真面目ないい子ちゃんじゃなくていい」などなどを思い出すだけで、気が軽くなる。
posted by 鶴見済 at 23:54| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月22日

「集まりたい」という人間の巨大な欲求

「本当のところを言う」のが10代のころから、大事なことだと思っていた。弱い面、うまくいっていない面があれば、そう言う。誰もがそうしていれば、無駄な憧れ、嫉妬、劣等感、やっかみ、反感なんかも相当減るだろうと思う。

先日、無料放出アクションの0円ショップで、通りかかった男性がこう聞いてきた。

「いや、なんで、なんでね、こんな寒い中で、こういうことやってるんですか?」

その質問には、挨拶ではない真剣味が感じられたので、こう答えておいた。

「こうやって集まったり人と会ったりしてるのが楽しいんですよ」

これはあくまでも数人のメンバーのなかの自分の意見にすぎないし、他にも答えようはいくつかある。捨てるしかないと思っていた物を、他の人が喜んで貰っていくのは、本当にスカッとする。おすそわけ経済の推進のためでもある。けれどもそれは、「本当のところ」2番目以下だ。
もしこの時に、「地球環境のため」等の高邁な理念を言ってしまったら(もちろんそれもあるが)、あの人はどう思っただろう。

「宗教みたい」

こう思うのではないか。これはまったく謎の感覚で人が動いている時に浮かぶ、代表的な考えだ。自分たちの0円ショップが、そう思われていた面もあるとも聞いた。

世の中には無数の、高邁な理念を持つ無償の活動がある。支援のボランティア活動とか。それらも「集まるのが楽しい」、そして「何かやりたい」「何もせずにいるのもつまらない」、さらに「どうせやるならいいことをやりたい」といった動機から行われている側面が大きいと自分は見る。そういう世界に接してきて、そう思うにいたった(それ以前には、自分にも「宗教みたい」と見えていた)。

宗教団体の活動でさえ、「集まるのが楽しい」から来ているのではないかと今では思う。高邁な理念に比べて、こうした動機が何割何割になるかはその人次第と言えるし、活動の種類や緊急性によっても違うだろう。けれども、少なくともそんなに小さくはないと思うし、半分以上である場合が多いのではないか。こういう本音はアンケートを取っても出るとは限らないので、勝手な推測だが。

主義主張が違うあれやこれやの無償の活動も、表看板ではなく、こうした本音の部分から見てみるとどうだろう。もしもその動機の大きな部分が同じ「集まりたい」から来ているのなら、この人間の「集まりたい」という欲求の巨大さに圧倒される思いだ。
社会的な活動でなくても、ママ友のランチでも、高齢者の趣味サークルでも、チームでやるスポーツのグループでもいい。それらを「集まりたい」の視点で見渡すと、人間はどれだけそこにエネルギーを注いでいることか。
こっちのほうを真剣に考えてみてもいい。

※「集まること」だって、楽しいばかりじゃないという「本当のところ」も書き添えておく。話が複雑になるけれども、誤解のないように。「集まって楽しー」的な情報が溢れすぎていることも問題なので。

posted by 鶴見済 at 11:19| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月12日

人生は「偶然」で決まっている

201812 佐渡の土産.JPG大阪から新潟の佐渡島の田舎に移住した友人家族が遊びに来てくれて、佐渡暮らしの話を聞かせてくれた。近隣の農家の作業をローテーションで手伝いながら収入を得ている話など、どれもとてもためになる
特にはっとしたのは、次の話だ。

彼の地では仕事も暮らしも、自然環境に大きく左右されるので、住んでいる人はあきらめがいいそうだ。台風で果樹の実がみんな落ちてしまって致命的な大損害のはずなのに、「まあしょうがねえか」とあきらめが早い。
自分にはどうしようもない力のせいなのだから、それも当然だ。そんな空気が、もともと心を病んで移住を決意した友人の精神面にもいい影響を与えているという。
それを聞いて思い出した。

よくない結果が起きた時、我々はその原因を、自分か他の誰かかの二択で考える。「あの時ああしていれば」と際限なく後悔し、「あいつのせいで」と他人を恨み、過去にとらわれる。そして、もっと慎重に先々の計画を詰める。

けれども、自然に包まれた暮らしでなくても、我々の人生は、どうにもならない「偶然」や「運」の力に左右されていたんじゃなかったか。
そもそも、生まれる土地や家族が選べない。そして、たまたま同じクラスになった友人、偶然知り合ったパートナー、たまたま採用された会社、偶然見つけた住まい、などの影響力がどれほど大きいことか。病気になって死ぬのも偶然の要素が大きい。こうした大きな偶然の力に比べれば、自分が決められる部分などごく一部とさえ思える。

あの人の人生も、この人の人生も、たまたまそうなっているだけだ。現代人はものごとの原因と結果をコントロールできているような顔をしているが、実際は昔の人と同じように運に翻弄されている。自分の力でできることなど、高が知れている。過去を悔やむのは、必要な分だけで十分だ。

「偶然」や「運」というものの大きな力。「まあしょうがねえか」という感覚。心の健康のために、これは忘れないでおきたい。

※写真はもらった佐渡のお土産の一部。ただで人を泊めたら損だ、なんてことはない。
※また佐渡では民泊をやっていたうちが何軒かあったが、民泊新法ができて条件が厳しくなったので、彼らが知っていることろは皆やめてしまったという話も書き添えておこう。全国的にも民泊利用者はむしろ減ったようで、まったく空しい。
posted by 鶴見済 at 12:33| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月09日

80年代の日本のパンクは何に怒っていたか?

オッサンの昔語り的なテーマが続くが、『爆裂都市』や『ちょっとの雨ならがまん』というパンク系映画を久々に観たこともあって、80年代の日本のパンクについて書いてみたい。

このブログやTwitterは、浮かんだ考えを自分のなかにしっかり定着させるために書いている面もあるので。



80年代半ばまでの日本のパンクが好きだった。こう言うのもなんだが、自分はパンクスだなどと思っていた。

好きだったのは、バンド名で言えば、スターリン、ラフィンノーズ、スタークラブ、GISM、あぶらだこといったところで(もちろんその他のバンドも。なかでもスターリンは断トツだった)、当時としては、ごく一般的な好みと言える。

ライヴにもよく客が入っていたし、レコードもメジャーから出せるほど売れたし、シーンは盛り上がっていた。


そのシーンで吐き出されていたのは、もちろん怒りであり、「くそったれ」という感情だった。では、何に対しての「くそったれ」だったのか。


反戦の曲はあった。ハードコア系のバンドに多かった。しかしそれは、お手本と言えるUKハードコアパンクがそうだったから、という面があるように思う。

また米ソ全面核戦争が起きるかもしれないというバッドな感覚は、すでに日常的なものだったので、そのイメージが曲のなかに出てくるのは、特に社会派・政治的でなくても十分あり得た。


DSCPDC_0001_BURST20181009133817240_COVER.JPGではそれ以外に、政治的・(狭い意味での)社会的なテーマが歌われていたかというと、極めて少なかったと思う。

社会派とは見なされないセックス・ピストルズでさえ、女王やキリスト教を敵視したし、日本のバンドに比べたらかなり社会派と言える。

政治的なバンドのシーンがあったことも知っているが、全体の特徴としてはやはり、政治的・(狭義の)社会派ではなかったと言うべきだろう。


けれども、単にわめいているだけ、単に滅茶苦茶だったかというと、そういうわけではまったくなく、極めて真面目だった。セックス・ピストルズのほうが、よほどいい加減だ。


では何に怒っていたのか。やはりそれは、押しつけられる人生や生き方、日常的な窮屈さ、閉塞感に対する「くそったれ」だったと思う

当時はなかなか気づけなかったのだが、ある程度引いて眺められる今ならハッキリとわかる。やはり世界のなかでも当時の日本は、特別に窮屈な「硬い」社会だった(例えば終身雇用も、学校も家庭も)。それは多少崩れながら、今もある。

その人生の閉塞感に対して「ふざけんな」と言うことは、まったく当然のことだった。それなりに十分「(広い意味での)社会派」だったのだ。


自分たちには自分たちなりの社会の問題と不満がある。それは新聞が取り上げてくれるような大問題でなかったり、自分でもいわく言い難いものかもしれない。それでもそれは、とても大事なものなのだ。

(狭義の)社会問題・政治問題にそんなに怒りが湧かないのであれば、無理に怒って叫ぶことのほうがはるかに誠実さに欠ける。

そもそも人が強く思い悩んでいることの大半は、新聞に載らないような個人的な問題ではないのか。



今回はこのへんで。

これに対して、「当時は生きやすい社会だったからだ、それにひきかえバブル崩壊後は──」などというあれを言ってくるのは、違うのでやめてもらいたい。

posted by 鶴見済 at 17:19| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月08日

「大人になれない若者」批判が流行っていた

DSC_0099.JPG80年代に「モラトリアム人間」という言葉が流行っていた。

モラトリアムというのは「猶予期間」のことで、大学生などで「大人になれない青年」を非難する意味合いで広まった。大人になれないというのは、まずはサラリーマンになるのを嫌がることだ。けれどもそれだけではない。

ハキハキ話す大人の態度が取れないことや、割り切れずに内面の自我にこだわる人まで、広く外向的・社交的になれない青年がモラトリアム人間とひと括りにされていたと言える。

もっと詳しく言えば、大人(=社会に適応した人間)になることこそが人間として“アイデンティティ”を確立することで、それができずにぐずぐずしていることが「モラトリアム」というネガティブな意味合いで語られていた。


精神科医が提唱して、精神医学界から広まった言葉で、他にも「ピーターパンシンドローム」「青い鳥症候群」「成熟拒否」など、似たような概念が精神医学界から色々提唱されていた。
自分も精神科医から、そうした非難を毎度のように浴びていた。「君は大人になれない」「未熟だ」と。

もちろんそんなことを言われながらも就職活動は嫌というほどやったが、「やってられるか」という気持ちでやった(そのせいか結果は悲惨だった)。その気持ちはゆずらない、というのは大事なところだ。もちろん会社で働きはじめた後も、その気持ちはゆずらなかった。
念のために言うと、社会人として仕事をこなせるような人間ならこうは呼ばれないので、正社員か非正規かなどという問題は、ここでは関係ない。

DSC_0100.JPG90年代の論壇的な世界で「大人になれ」という言説が広まったことがあったが、それもこの流れを汲むものだ。もちろん自分は、反「大人になれ派」だった。


さて今の時代には、社会に適応しない人は随分増えた。当時の精神科医が今いたら、叱るべき相手が多すぎて身がもたないだろう。

もちろんほとんどの人にとって、社会に適応する必要などまったくない、なんてことはない。けれどもそのハードルが高すぎたのだ。「社会人になること」は、自分らしさも含め、あまりにも多くのものを捨て、諦めねばならなかった。

もともとそこに問題があるのに、各個人の資質も考えず、十把ひとからげにして、モラトリアムだ、大人になれないと批判していたのがおかしかった(「じゅっぱひとからげ」でなく「じっぱひとからげ」だったことを今知った)。


これは過去形で語るべきなんだろうか? 社会人になることの難しさはそんなに変わらないかもしれない。働く時間が短くなった、などいくつかの要素が多少はマシになった程度かもしれない。

働かない者など、社会に適応しない者がたくさんいて困ったと言うなら、その難しさという問題が背後にあることを疑ってみなければいけない。

しかしもっと軽く書かないと、なかなかブログを更新できなくて辛いな。

posted by 鶴見済 at 14:26| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月07日

会話における嘘と対人場面での苦痛の話

ひきこもりになる人は、コミュニケーションを求めていないのではなくて、「純度100%」のコミュニケーションを求めているという説がある(斎藤環氏による)。その言葉が気になっていた。


自分は、10代から20代にかけて、うわべだけの言葉、相手や周りに合わているだけの言葉、心にもない言葉、社交辞令、愛想笑い、心にもない相槌、、、などなどがまったく苦手だった。

それらは一言で言えば「嘘」なのだ。大なり小なり、自分の心に嘘をついている。その嘘が嫌だった。

そうやってみんなが心を偽っているから世の中が悪くなってるんだ、とさえ思っていた。思っていたというか、今もある程度そう思っている。

苦しいのに楽しいふりなんかしていたら、いつまでも問題は解決しない。

人の胸を打つ歌や文学作品は、正直に自分の心を表現したものだ。

程度の差こそあれ、多くの人が思うことだろう。


ただしそこにこだわっていると、「会話」というものがとても難しくなる。自分の場合は挨拶で「よう、元気?」などと聞かれても、「元気じゃない」(時には「死にてえよ」)などと、答えていた。

その場を取り繕うための、心にもない話題というのも苦手なので、人に会ってもおざなりの会話というものが切り出せない。結局気まずい時間になってしまい、そのせいでまた落ち込む。

大勢で話している時でも、なあなあの相槌を打たないので、ぎくしゃくする。

そんなことばかりなので、会話や人づきあいはやりたくなくなってしまう。

自分の場合は、そこに対人場面における心の問題までが加わっていたため、人づきあいは避けたいものになっていた。


今はどうしているかというと、かつてに比べればはるかにたくさんの、うわべだけの言葉や社交辞令を使っている。もしかしたら、普通よりも少し社交的な人間と見えているかもしれない。少しずつそうなっていった。対人場面で苦労が少ないことのほうを優先したわけだ。

自分だけくそ真面目に筋を通して、その代わりにへとへとになるようなことは、これ以上やってられるかという気持ちもあった(どんな問題についても、真面目になりすぎて苦しくなったら、「バカバカしい、これ以上やってられるか」を出すことにしている)。

たいていの会話において大事なのは、その深い内容などではなく、「はずんだ会話をしている」という状態なので、天気の話でも何でもいいのだ。深い会話は、その後で考えればいい。そう思うようになった。


その分、ある大事なものは失った。けれども、対人場面でのきつさは激減し、人とつながる世界が開けた。対人場面における心の問題のほうも、その結果なのか原因なのかわからないが、少しずつ消えていき、気づいたらなくなっていた。


どちらがいいとも言い難い。これを書いたのはどちらかと言えば、かつての気持ちを忘れないためだ。同時に、対人場面を楽に乗り切るための、何かしらの参考になればとも思う。


posted by 鶴見済 at 11:30| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月14日

路上の会話は心を癒す

Sidewalk Talk(歩道の会話)というアメリカの団体の活動している映像がとても面白くて、何度も見てしまう。



彼らは、路上に椅子を並べて、通行人に何でもいいから話してもらい、それを聞く、一風変わった傾聴ボランティアと言える。
2014年に構想され、全世界40の都市に1700人のボランティアがいるという。創始者は心理療法士で、孤独を克服するには、路上での見知らぬ人との会話が特に有効だと考えている。これは、心の問題に取り組む活動なのだ(注)。

Sidewalk Talk
https://www.sidewalktalksf.com

本当にきつい時には、「会話」は有効だ。きつい状態で一人でいると、その悩みや不安にずっと集中してしまいがちなので、そこから離れらるだけでもいい。
その悩みを打ち明けられれば一番いいのだが、本当の悩みというのは、よほど親しい人でなければなかなか言えないものだ。中途半端な知り合いよりは、まったく見ず知らずの人相手のほうが言いやすい。

Sidewalk Talkは路上の占い師に見た目がよく似ているのだが、あの占い師たちもそのためにいるのだろう。
職場や家庭がない人が増えるにつれて、会話をどこで確保するかはますます大きなテーマになってくるはずだ


こうした路上の会話は、昔ならわざわざこんな活動をしなくても、普通に起こりえた。立ち話や井戸端会議というのは、日常茶飯事だった。
路上に屋台や露店、あるいは演奏など何かがあれば、そこに足を止める人の間で、路上の会話が芽生えるチャンスがある。
屋台や有人マーケットが盛んな東南アジアでは、当たり前のようにそんな光景がある。店の人なのか友達なのかわからない人たちが、店の周りでペチャクチャと話しては去っていく。

20180616 (2).JPG我々の社会は路上の様々なごちゃごちゃを、「面倒だから」と禁止したがために、大事な心を癒すチャンスまで失っているらしい。
漠然と意識してはいたが、路上の空白化は心の空白化ともつながっていたのだ。

0円ショップの大きな楽しみの一つは、この「路上の会話」が出品者と通行人、出品者どうしの間で起きること、そして終わった後には何かしら自分の心が癒されていると感じられることだ。

ただ、こういう話には注釈が必要だ。
映像の冒頭で「孤独は人の寿命を縮める」と言われているが、自分は学校・職場・家庭の人間関係がなければ、人生においてあんなに死にたくなることはなかった。単純に孤独が悪で、人間関係が善などという説はおめでた過ぎる。
人間関係をめぐる話にはもっと丁寧な説明が必要で、自分にもまとまった考えがあるのだが、また追々言うことにする。

注)Sidewalk Talkは、申し出てやり方を学べば、どこでも開催できる。マレーシアでも行われているようだ。
ちなみに0円ショップは、あくまでも自分としてはだが、ボランティア活動などという意識はない。写真は0円ショップ。

posted by 鶴見済 at 12:24| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

「死にたい」に対する謎の上から目線

座間の事件をきっかけに、自殺に関する連続ツイートをしたので、その記録を残したい。
ここからあれこれ文章化しようとすると、面倒になって残すことすらやめてしまうので、そのまま転載する。

ひとつだけ。
「#自殺募集」というツイッターのタグがニュースなどで話題になった直後、ここに自殺をやめさせようとするツイートが多く寄せられた。自分がこのタグを見た時、何百もリツイートされて上位に来ていた話題のツイートはどれも、そんななかの薄っぺらい説教に対する怒りだった。

この怒り。自分にもあったどころか、自殺についてものを言う原動力のひとつだった。
死にたくなっている人は、他の誰よりも生きづらさの真っただ中にいるのに、こと自殺となると、なぜか上から目線でたしなめるような、あるいは叱るような態度を取る人が多い。自分が若かった頃は、もっともっと多かった。
そこに出てくるのが、「弱い」「命の大切さがわかっていない」「前向きになれない」「もっと大変な人もいるのに」といった、まったく心に響かない言葉の群れだ。
死にたい人より自分のほうが、よくものをわかっていると思うのも間違いだ。
そんなことはわかっていても、死にたい気持ちは強くなってしまう。死にたいというか、こんな人生にはこれ以上興味が湧かない、もう愛想が尽きたという気持ち。

うまく言葉にならない、あるいは100万語でも言いたいことがあるこの怒りを、他の人のツイートでありありと思い出した。
ちなみに自分も、自殺を回避できるならそれに越したことはないと思っていることは書き添えておこう。余計な誤解を生まないように。

*************************
話題の「自殺募集」タグで上位に来るのは、意外にも薄っぺらい説教への怒りのツイート。死にたい人から見たら、その気持ちがわからない人は人生経験が浅いと見えているはず(ある意味そのとおり)。「親から貰った大切な命云々」といった薄っぺらい言葉・倫理観など、ギリギリの人に通じるはずがない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926083377555374081

「障害があっても前向きに生きている人」「流産で生まれることもできなかった赤ちゃん」もいるのに、などと、死にたい人の苦痛を相対的に軽いものと見なして自殺を止めにかかるツイートも、嫌な気分になる。個人が感じる生きづらさの軽重は、そんなふうに比べられるものではない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926089811785482240

死にたい人は一時的にまともな判断力をなくしているのだという、よくある解釈もあまり好きじゃない。正常な人なら誰もが生きたいと思うほど、この社会で生きることは素晴らしいことじゃない。あるいは、生きることはそんなに言うほど素晴らしくない。素晴らしい素晴らしい言いすぎ。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927173060850937857

死んでほしくない人が自殺したいと言ってきたらどうするか? 自分なら、普通にきついと言ってる人とするような話をするだろう。楽になるあんなやり方や、こんな音楽もよかったよなどと。そのうえで、今やらなくても、様子見てればよくなるかもよ、くらいは言うかもしれない。(続く)
https://twitter.com/wtsurumi/status/926447631588458496

自殺だけやめさせようとしていると思われないように気をつける。自分が死にたいほうの立場だったら、誰のために言ってんだろうと思うから。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926451532299509761

自殺したい気持ちを抱える人について、「自爆テロにもなりかねない」とか「方向が変わればオウム真理教になる」などと言う輩がいるが(「自殺マニュアル」についてそう言う阿呆もいた)、人一倍苦しんでいる人間に対して、とんでもない侮辱だ。自殺を犯罪のように見なして忌避する風潮はなくしたい。
https://twitter.com/wtsurumi/status/925709032970584064

死んでほしくない人が死にたいと言ってきたら、紹介してみたいもののひとつに「認知の歪みの10か条」がある。認知療法で使われるものだが、読むだけでも楽になる。実際にひどい状況である場合もあるが。かつて本にも書いた。
http://www.nakaoclinic.ne.jp/mentalhealth/mh_02_01.html
https://twitter.com/wtsurumi/status/926800214874210305
(死にたい人は認知が歪んでいると見なしているということではまったくない。念のために)

認知療法、認知行動療法は、保険診療で受けられる。自分も以前に認知療法と行動改善を合わせた認知行動療法を受けていた。効くとは限らないが、薬物療法に煮詰まっている時にいいかもしれない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927536454724546562

最終的には、律儀に悩み心配してばかりいるのがいいかげん馬鹿馬鹿しくなり、すべてどうでもよくなって、可笑しさがこみあげてきたりするのが、自分なりの理想的脱出法。こういう時、人は強い。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927888206820814850

あまりにも悩み苦しんだ結果、すべてが馬鹿馬鹿しくどうでもよくなる開き直りの境地に至る最良のBGMはクレイジーキャッツ。そのうちなんとかなるだろう。
https://twitter.com/wtsurumi/status/928627508647309312

先日某紙の自殺に関する取材で、「死にたい人に何か言うとしたら?」と聞かれて「もっといい加減でいい、もっと不真面目でいいと思う」みたいなことを答えたのだが、真面目に思いつめる人より、ちゃらんぽらんな人のほうが生きやすいのだから、人生とは理不尽なものだ。ずっとそう思っている。
https://twitter.com/wtsurumi/status/932970533481672704

この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている。−−この世界について言えるのはこれだけだ。(カミュ『シーシュポスの神話』)
人間の理性では割り切れない不条理なことはいくらでも起きると。
https://twitter.com/wtsurumi/status/932979015131963392

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと(…)は、それ以後の問題だ。(カミュ『シーシュポスの神話』)
https://twitter.com/wtsurumi/status/933347398474014722

自殺の問題に始まる『シーシュポスの神話』で、人生が生きるに値するか否かを考え抜いたカミュは、不条理に抗って反抗的に生きることは幸福であるという結論に達している。
https://twitter.com/wtsurumi/status/934064560444600320


鶴見済ツイートまとめ読み(twilog)
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2017年10月14日

「家庭のない定年前男女」は平日昼の住宅地に居づらい

201504191553001.jpg知人の50代男性が、仲間と平日昼間に近所の町中を散歩するイベントを企画している。それがやりづらいのはおかしいという意識からだそうだ。それを聞いて、必要なのはまさにそういう企画だなと思った。

「平日昼の住宅地にいる男は不審者扱いされる時代」などと言われるが、本当に許しがたいことだ。引きこもりの原因の一端もここにある。そんな空気のなかを出歩きたくないのは当然だ。
自分の地元には野宿者もいるのだが、彼らの居づらさは、我々の想像も及ばないほどだろう。
地域に居づらく、居場所がない人間は多い。

平日の昼の住宅地では、公園には母親と幼児、学校には子供たち、公民館には高齢者たちがいる。市が企画するイベントのチラシを見れば、それら「存在を認められた」層向けのものばかりだ。
お父さん、お母さん、子ども、おじいちゃん、おばあちゃん。昭和の時代であれば、それらの人たちが社会の構成員のほとんどだったと言っていいかもしれない。けれども今はそうではない。
今では大きな比重を占めている「家庭のない定年前の男女」の公の居場所はほぼない。行政にはそういう人間が見えていないのだ。

親子・高齢者層を自分たちと対立するものと思っているわけではないことは、十分強調しなければならない。自分にも家庭を持っている友人は多い。批判したいのは行政だ。

子育て支援、教育支援、高齢者支援等々、行政も各党も色々輝かしい政策を打ち出すが、「家庭のない定年前の男女」の生きづらさ問題など考えられていない。そうした相手にされてる層とされてない層の落差は感じざるを得ない。
こっちを見てもいない政治家を応援するのも、本当は空しい。残念ながら、左派政治家であってもそう感じる。

自分が参加している「0円ショップ」のいいところはひとつには絞り切れないが、自治体や国に目を向けてもらえない、あるいは住宅地で市民権を得ていない、地域に居場所が少ない有象無象の人たちの居場所になっているところもいい。以前にやっていた畑も、結局はそういうものになっていた。
そうした活動にはやりがいがある。

そして平日昼の住宅地を出歩こう。心ない連中にどう思われるかなど、気にしてやるだけ無駄だ。そんな連中に気に入られるために生きているわけではない。
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これはツイッターに連続的に書いた投稿を大幅に手直ししたもの。ツイッターへの投稿はすぐに消えてしまうので、本来長めに書いた方がいいこうした文章は、ブログに再掲載していきたい。と、以前から思っているのだが、なかなかできていない。
写真は、居場所のない人々の交流の場ともなっている0円ショップ。
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2016年11月29日

「人からどう思われるか」を基準に生きるのをやめる

「人からどう思われるのか」。
現代人が最も熱心に考えているのは、結局これなのではないか。とても高邁なことを言っている人でも、案外これを一番に考えていることが透けて見えたりする。
ここで言う「人」とは、いわゆる「世間の目」に限らず、友人、家族、同じ職場の人なども含んでいる。

大原扁理君とphaさんとやるトークイベントが12月2日にあるが、この二人のいいところは「人からどう思われるかを基準にして生きる」というあまりにも一般的な現代的生き方をきっぱりと否定して、「自分の生きたいように生きる」ことを重視しているところだ。
かく言う自分もかつてはそう主張していたし、今もそれは変わらない。

「自分の生きたいように生きる」とは、自分勝手で子どものようだと思うだろうか? 簡単なのは実は「みんながやっているようにやる」ことのほうで、まわりに合わせていれば問題も起きない。そっちがあまりに簡単なので、「自分がどう生きたいか」などということは真剣に考えられていないのではないかと思うほどだ。

まわりの人からよく思われることでなく、自分が本当にやりたいことを大事にして生きていると、どうしてもまわりとずれてくる。自分重視の生き方は、本当は誠実に熱心にやらないとできないのだ。
けれども「周囲の誰もがいいと思う完ぺきな自分」が出来上がったとして、当の自分はその時幸せだろうか。「人からよく思われる」ことを一番の基準にしていたら、本来の幸せは望めない。

pha×大原扁理×鶴見済「それぞれの幸福の自給自足法」B&B(予約終了)
去年の同じメンバーによるトーク 
pha × 大原扁理 × 鶴見済 生きづらさの脱出法 (tsurumi's talk)
posted by 鶴見済 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする