2018年10月26日

つながりをなくしがちな人の会やります

「日頃つながりをなくしがちで、つまらない思いをしている人」が、駄弁ることで楽になろうという会を開くことにしました。

仮に名付けて「不適応者の居場所」。

ひきこもりがち、フリーランス、労働週4以下、メンヘラ等々、様々な理由で、つながりがなくなりがちであり、かつ、それもつまらないなと思っている人、飲んで食べて、ゆるく話しましょう。

一人でつまらない思いをしている人が、各々出会わずにいるだけというのは、あまりにももったいない。


イベント会場内に花見のように敷物を敷いて座り、飲み食いしながら駄弁るだけです。

支援活動ではないので、仕切りや討論もなし。自己紹介くらいはしたいと思います(パスも可)。

会場内に本、CDDVD、ゲームソフトなどの0円ショップも作るので、放出できる物があったら、持ってきてください(残ったら持ち帰りで)。それが会話のいいネタになればいいなと。

お薦めの音楽などあれば、会場でかけられます。


『0円で生きる』に「あえて二人以上の人が集まってやることは助け合い」と書いたとおり、この集まりも、単に会うことでギブアンドテイクが成立して各々が生きやすくなる、という助け合いだと思ってます(もちろん全然話さなくてもOK。聞いてくれているだけでも、相手に何かを与えてます)。
*相互扶助なので、相手を攻撃したり勧誘したりといった、一方だけが得をすることはしないでください。



別に一人はよくない、集団はいいなどという考えではありません。学校や会社から降りたら何のつながりもなくなってしまう現状をなんとかして、降りても楽な社会にしていきたい。むしろ集団主義でない、個人が個人のままいられる社会を目指してます。


参加は年齢不問。もちろん鶴見の知り合いであるなしも無関係(会ったことない人大歓迎)。

途中から参加、途中抜け、途中帰り、すべて可。

会場代と食べ物(ビーガン料理)、飲み物(酒含む)は、カンパ制になるので、出費は多少あると思ってください。

自分でもどうなるかわかりません。うまくいきそうだったら、定期開催したいです。

ぶらっとお越しを!



不適応者の居場所

日時:11月9日(金) 18:30〜4時間くらい?

場所:高円寺:素人の乱12号店 (20人くらい入れば一杯の会場です)

費用:会場代(安い)はカンパで。食べ物、飲み物は用意するので、そちらもカンパお願いします。


posted by 鶴見済 at 16:39| Comment(2) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月09日

80年代の日本のパンクは何に怒っていたか?

オッサンの昔語り的なテーマが続くが、『爆裂都市』や『ちょっとの雨ならがまん』というパンク系映画を久々に観たこともあって、80年代の日本のパンクについて書いてみたい。

このブログやTwitterは、浮かんだ考えを自分のなかにしっかり定着させるために書いている面もあるので。



80年代半ばまでの日本のパンクが好きだった。こう言うのもなんだが、自分はパンクスだなどと思っていた。

好きだったのは、バンド名で言えば、スターリン、ラフィンノーズ、スタークラブ、GISM、あぶらだこといったところで(もちろんその他のバンドも。なかでもスターリンは断トツだった)、当時としては、ごく一般的な好みと言える。

ライヴにもよく客が入っていたし、レコードもメジャーから出せるほど売れたし、シーンは盛り上がっていた。


そのシーンで吐き出されていたのは、もちろん怒りであり、「くそったれ」という感情だった。では、何に対しての「くそったれ」だったのか。


反戦の曲はあった。ハードコア系のバンドに多かった。しかしそれは、お手本と言えるUKハードコアパンクがそうだったから、という面があるように思う。

また米ソ全面核戦争が起きるかもしれないというバッドな感覚は、すでに日常的なものだったので、そのイメージが曲のなかに出てくるのは、特に社会派・政治的でなくても十分あり得た。


DSCPDC_0001_BURST20181009133817240_COVER.JPGではそれ以外に、政治的・(狭い意味での)社会的なテーマが歌われていたかというと、極めて少なかったと思う。

社会派とは見なされないセックス・ピストルズでさえ、女王やキリスト教を敵視したし、日本のバンドに比べたらかなり社会派と言える。

政治的なバンドのシーンがあったことも知っているが、全体の特徴としてはやはり、政治的・(狭義の)社会派ではなかったと言うべきだろう。


けれども、単にわめいているだけ、単に滅茶苦茶だったかというと、そういうわけではまったくなく、極めて真面目だった。セックス・ピストルズのほうが、よほどいい加減だ。


では何に怒っていたのか。やはりそれは、押しつけられる人生や生き方、日常的な窮屈さ、閉塞感に対する「くそったれ」だったと思う

当時はなかなか気づけなかったのだが、ある程度引いて眺められる今ならハッキリとわかる。やはり世界のなかでも当時の日本は、特別に窮屈な「硬い」社会だった(例えば終身雇用も、学校も家庭も)。それは多少崩れながら、今もある。

その人生の閉塞感に対して「ふざけんな」と言うことは、まったく当然のことだった。それなりに十分「(広い意味での)社会派」だったのだ。


自分たちには自分たちなりの社会の問題と不満がある。それは新聞が取り上げてくれるような大問題でなかったり、自分でもいわく言い難いものかもしれない。それでもそれは、とても大事なものなのだ。

(狭義の)社会問題・政治問題にそんなに怒りが湧かないのであれば、無理に怒って叫ぶことのほうがはるかに誠実さに欠ける。

そもそも人が強く思い悩んでいることの大半は、新聞に載らないような個人的な問題ではないのか。



今回はこのへんで。

これに対して、「当時は生きやすい社会だったからだ、それにひきかえバブル崩壊後は──」などというあれを言ってくるのは、違うのでやめてもらいたい。

posted by 鶴見済 at 17:19| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月08日

「大人になれない若者」批判が流行っていた

DSC_0099.JPG80年代に「モラトリアム人間」という言葉が流行っていた。

モラトリアムというのは「猶予期間」のことで、大学生などで「大人になれない青年」を非難する意味合いで広まった。大人になれないというのは、まずはサラリーマンになるのを嫌がることだ。けれどもそれだけではない。

ハキハキ話す大人の態度が取れないことや、割り切れずに内面の自我にこだわる人まで、広く外向的・社交的になれない青年がモラトリアム人間とひと括りにされていたと言える。

もっと詳しく言えば、大人(=社会に適応した人間)になることこそが人間として“アイデンティティ”を確立することで、それができずにぐずぐずしていることが「モラトリアム」というネガティブな意味合いで語られていた。


精神科医が提唱して、精神医学界から広まった言葉で、他にも「ピーターパンシンドローム」「青い鳥症候群」「成熟拒否」など、似たような概念が精神医学界から色々提唱されていた。
自分も精神科医から、そうした非難を毎度のように浴びていた。「君は大人になれない」「未熟だ」と。

もちろんそんなことを言われながらも就職活動は嫌というほどやったが、「やってられるか」という気持ちでやった(そのせいか結果は悲惨だった)。その気持ちはゆずらない、というのは大事なところだ。もちろん会社で働きはじめた後も、その気持ちはゆずらなかった。
念のために言うと、社会人として仕事をこなせるような人間ならこうは呼ばれないので、正社員か非正規かなどという問題は、ここでは関係ない。

DSC_0100.JPG90年代の論壇的な世界で「大人になれ」という言説が広まったことがあったが、それもこの流れを汲むものだ。もちろん自分は、反「大人になれ派」だった。


さて今の時代には、社会に適応しない人は随分増えた。当時の精神科医が今いたら、叱るべき相手が多すぎて身がもたないだろう。

もちろんほとんどの人にとって、社会に適応する必要などまったくない、なんてことはない。けれどもそのハードルが高すぎたのだ。「社会人になること」は、自分らしさも含め、あまりにも多くのものを捨て、諦めねばならなかった。

もともとそこに問題があるのに、各個人の資質も考えず、十把ひとからげにして、モラトリアムだ、大人になれないと批判していたのがおかしかった(「じゅっぱひとからげ」でなく「じっぱひとからげ」だったことを今知った)。


これは過去形で語るべきなんだろうか? 社会人になることの難しさはそんなに変わらないかもしれない。働く時間が短くなった、などいくつかの要素が多少はマシになった程度かもしれない。

働かない者など、社会に適応しない者がたくさんいて困ったと言うなら、その難しさという問題が背後にあることを疑ってみなければいけない。

しかしもっと軽く書かないと、なかなかブログを更新できなくて辛いな。

posted by 鶴見済 at 14:26| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月07日

会話における嘘と対人場面での苦痛の話

ひきこもりになる人は、コミュニケーションを求めていないのではなくて、「純度100%」のコミュニケーションを求めているという説がある(斎藤環氏による)。その言葉が気になっていた。


自分は、10代から20代にかけて、うわべだけの言葉、相手や周りに合わているだけの言葉、心にもない言葉、社交辞令、愛想笑い、心にもない相槌、、、などなどがまったく苦手だった。

それらは一言で言えば「嘘」なのだ。大なり小なり、自分の心に嘘をついている。その嘘が嫌だった。

そうやってみんなが心を偽っているから世の中が悪くなってるんだ、とさえ思っていた。思っていたというか、今もある程度そう思っている。

苦しいのに楽しいふりなんかしていたら、いつまでも問題は解決しない。

人の胸を打つ歌や文学作品は、正直に自分の心を表現したものだ。

程度の差こそあれ、多くの人が思うことだろう。


ただしそこにこだわっていると、「会話」というものがとても難しくなる。自分の場合は挨拶で「よう、元気?」などと聞かれても、「元気じゃない」(時には「死にてえよ」)などと、答えていた。

その場を取り繕うための、心にもない話題というのも苦手なので、人に会ってもおざなりの会話というものが切り出せない。結局気まずい時間になってしまい、そのせいでまた落ち込む。

大勢で話している時でも、なあなあの相槌を打たないので、ぎくしゃくする。

そんなことばかりなので、会話や人づきあいはやりたくなくなってしまう。

自分の場合は、そこに対人場面における心の問題までが加わっていたため、人づきあいは避けたいものになっていた。


今はどうしているかというと、かつてに比べればはるかにたくさんの、うわべだけの言葉や社交辞令を使っている。もしかしたら、普通よりも少し社交的な人間と見えているかもしれない。少しずつそうなっていった。対人場面で苦労が少ないことのほうを優先したわけだ。

自分だけくそ真面目に筋を通して、その代わりにへとへとになるようなことは、これ以上やってられるかという気持ちもあった(どんな問題についても、真面目になりすぎて苦しくなったら、「バカバカしい、これ以上やってられるか」を出すことにしている)。

たいていの会話において大事なのは、その深い内容などではなく、「はずんだ会話をしている」という状態なので、天気の話でも何でもいいのだ。深い会話は、その後で考えればいい。そう思うようになった。


その分、ある大事なものは失った。けれども、対人場面でのきつさは激減し、人とつながる世界が開けた。対人場面における心の問題のほうも、その結果なのか原因なのかわからないが、少しずつ消えていき、気づいたらなくなっていた。


どちらがいいとも言い難い。これを書いたのはどちらかと言えば、かつての気持ちを忘れないためだ。同時に、対人場面を楽に乗り切るための、何かしらの参考になればとも思う。


posted by 鶴見済 at 11:30| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月14日

路上の会話は心を癒す

Sidewalk Talk(歩道の会話)というアメリカの団体の活動している映像がとても面白くて、何度も見てしまう。



彼らは、路上に椅子を並べて、通行人に何でもいいから話してもらい、それを聞く、一風変わった傾聴ボランティアと言える。
2014年に構想され、全世界40の都市に1700人のボランティアがいるという。創始者は心理療法士で、孤独を克服するには、路上での見知らぬ人との会話が特に有効だと考えている。これは、心の問題に取り組む活動なのだ(注)。

Sidewalk Talk
https://www.sidewalktalksf.com

本当にきつい時には、「会話」は有効だ。きつい状態で一人でいると、その悩みや不安にずっと集中してしまいがちなので、そこから離れらるだけでもいい。
その悩みを打ち明けられれば一番いいのだが、本当の悩みというのは、よほど親しい人でなければなかなか言えないものだ。中途半端な知り合いよりは、まったく見ず知らずの人相手のほうが言いやすい。

Sidewalk Talkは路上の占い師に見た目がよく似ているのだが、あの占い師たちもそのためにいるのだろう。
職場や家庭がない人が増えるにつれて、会話をどこで確保するかはますます大きなテーマになってくるはずだ


こうした路上の会話は、昔ならわざわざこんな活動をしなくても、普通に起こりえた。立ち話や井戸端会議というのは、日常茶飯事だった。
路上に屋台や露店、あるいは演奏など何かがあれば、そこに足を止める人の間で、路上の会話が芽生えるチャンスがある。
屋台や有人マーケットが盛んな東南アジアでは、当たり前のようにそんな光景がある。店の人なのか友達なのかわからない人たちが、店の周りでペチャクチャと話しては去っていく。

20180616 (2).JPG我々の社会は路上の様々なごちゃごちゃを、「面倒だから」と禁止したがために、大事な心を癒すチャンスまで失っているらしい。
漠然と意識してはいたが、路上の空白化は心の空白化ともつながっていたのだ。

0円ショップの大きな楽しみの一つは、この「路上の会話」が出品者と通行人、出品者どうしの間で起きること、そして終わった後には何かしら自分の心が癒されていると感じられることだ。

ただ、こういう話には注釈が必要だ。
映像の冒頭で「孤独は人の寿命を縮める」と言われているが、自分は学校・職場・家庭の人間関係がなければ、人生においてあんなに死にたくなることはなかった。単純に孤独が悪で、人間関係が善などという説はおめでた過ぎる。
人間関係をめぐる話にはもっと丁寧な説明が必要で、自分にもまとまった考えがあるのだが、また追々言うことにする。

注)Sidewalk Talkは、申し出てやり方を学べば、どこでも開催できる。マレーシアでも行われているようだ。
ちなみに0円ショップは、あくまでも自分としてはだが、ボランティア活動などという意識はない。写真は0円ショップ。

posted by 鶴見済 at 12:24| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月05日

「死にたい」に対する謎の上から目線

座間の事件をきっかけに、自殺に関する連続ツイートをしたので、その記録を残したい。
ここからあれこれ文章化しようとすると、面倒になって残すことすらやめてしまうので、そのまま転載する。

ひとつだけ。
「#自殺募集」というツイッターのタグがニュースなどで話題になった直後、ここに自殺をやめさせようとするツイートが多く寄せられた。自分がこのタグを見た時、何百もリツイートされて上位に来ていた話題のツイートはどれも、そんななかの薄っぺらい説教に対する怒りだった。

この怒り。自分にもあったどころか、自殺についてものを言う原動力のひとつだった。
死にたくなっている人は、他の誰よりも生きづらさの真っただ中にいるのに、こと自殺となると、なぜか上から目線でたしなめるような、あるいは叱るような態度を取る人が多い。自分が若かった頃は、もっともっと多かった。
そこに出てくるのが、「弱い」「命の大切さがわかっていない」「前向きになれない」「もっと大変な人もいるのに」といった、まったく心に響かない言葉の群れだ。
死にたい人より自分のほうが、よくものをわかっていると思うのも間違いだ。
そんなことはわかっていても、死にたい気持ちは強くなってしまう。死にたいというか、こんな人生にはこれ以上興味が湧かない、もう愛想が尽きたという気持ち。

うまく言葉にならない、あるいは100万語でも言いたいことがあるこの怒りを、他の人のツイートでありありと思い出した。
ちなみに自分も、自殺を回避できるならそれに越したことはないと思っていることは書き添えておこう。余計な誤解を生まないように。

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話題の「自殺募集」タグで上位に来るのは、意外にも薄っぺらい説教への怒りのツイート。死にたい人から見たら、その気持ちがわからない人は人生経験が浅いと見えているはず(ある意味そのとおり)。「親から貰った大切な命云々」といった薄っぺらい言葉・倫理観など、ギリギリの人に通じるはずがない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926083377555374081

「障害があっても前向きに生きている人」「流産で生まれることもできなかった赤ちゃん」もいるのに、などと、死にたい人の苦痛を相対的に軽いものと見なして自殺を止めにかかるツイートも、嫌な気分になる。個人が感じる生きづらさの軽重は、そんなふうに比べられるものではない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926089811785482240

死にたい人は一時的にまともな判断力をなくしているのだという、よくある解釈もあまり好きじゃない。正常な人なら誰もが生きたいと思うほど、この社会で生きることは素晴らしいことじゃない。あるいは、生きることはそんなに言うほど素晴らしくない。素晴らしい素晴らしい言いすぎ。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927173060850937857

死んでほしくない人が自殺したいと言ってきたらどうするか? 自分なら、普通にきついと言ってる人とするような話をするだろう。楽になるあんなやり方や、こんな音楽もよかったよなどと。そのうえで、今やらなくても、様子見てればよくなるかもよ、くらいは言うかもしれない。(続く)
https://twitter.com/wtsurumi/status/926447631588458496

自殺だけやめさせようとしていると思われないように気をつける。自分が死にたいほうの立場だったら、誰のために言ってんだろうと思うから。
https://twitter.com/wtsurumi/status/926451532299509761

自殺したい気持ちを抱える人について、「自爆テロにもなりかねない」とか「方向が変わればオウム真理教になる」などと言う輩がいるが(「自殺マニュアル」についてそう言う阿呆もいた)、人一倍苦しんでいる人間に対して、とんでもない侮辱だ。自殺を犯罪のように見なして忌避する風潮はなくしたい。
https://twitter.com/wtsurumi/status/925709032970584064

死んでほしくない人が死にたいと言ってきたら、紹介してみたいもののひとつに「認知の歪みの10か条」がある。認知療法で使われるものだが、読むだけでも楽になる。実際にひどい状況である場合もあるが。かつて本にも書いた。
http://www.nakaoclinic.ne.jp/mentalhealth/mh_02_01.html
https://twitter.com/wtsurumi/status/926800214874210305
(死にたい人は認知が歪んでいると見なしているということではまったくない。念のために)

認知療法、認知行動療法は、保険診療で受けられる。自分も以前に認知療法と行動改善を合わせた認知行動療法を受けていた。効くとは限らないが、薬物療法に煮詰まっている時にいいかもしれない。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927536454724546562

最終的には、律儀に悩み心配してばかりいるのがいいかげん馬鹿馬鹿しくなり、すべてどうでもよくなって、可笑しさがこみあげてきたりするのが、自分なりの理想的脱出法。こういう時、人は強い。
https://twitter.com/wtsurumi/status/927888206820814850

あまりにも悩み苦しんだ結果、すべてが馬鹿馬鹿しくどうでもよくなる開き直りの境地に至る最良のBGMはクレイジーキャッツ。そのうちなんとかなるだろう。
https://twitter.com/wtsurumi/status/928627508647309312

先日某紙の自殺に関する取材で、「死にたい人に何か言うとしたら?」と聞かれて「もっといい加減でいい、もっと不真面目でいいと思う」みたいなことを答えたのだが、真面目に思いつめる人より、ちゃらんぽらんな人のほうが生きやすいのだから、人生とは理不尽なものだ。ずっとそう思っている。
https://twitter.com/wtsurumi/status/932970533481672704

この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている。−−この世界について言えるのはこれだけだ。(カミュ『シーシュポスの神話』)
人間の理性では割り切れない不条理なことはいくらでも起きると。
https://twitter.com/wtsurumi/status/932979015131963392

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと(…)は、それ以後の問題だ。(カミュ『シーシュポスの神話』)
https://twitter.com/wtsurumi/status/933347398474014722

自殺の問題に始まる『シーシュポスの神話』で、人生が生きるに値するか否かを考え抜いたカミュは、不条理に抗って反抗的に生きることは幸福であるという結論に達している。
https://twitter.com/wtsurumi/status/934064560444600320


鶴見済ツイートまとめ読み(twilog)
posted by 鶴見済 at 10:05| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月14日

「家庭のない定年前男女」は平日昼の住宅地に居づらい

201504191553001.jpg知人の50代男性が、仲間と平日昼間に近所の町中を散歩するイベントを企画している。それがやりづらいのはおかしいという意識からだそうだ。それを聞いて、必要なのはまさにそういう企画だなと思った。

「平日昼の住宅地にいる男は不審者扱いされる時代」などと言われるが、本当に許しがたいことだ。引きこもりの原因の一端もここにある。そんな空気のなかを出歩きたくないのは当然だ。
自分の地元には野宿者もいるのだが、彼らの居づらさは、我々の想像も及ばないほどだろう。
地域に居づらく、居場所がない人間は多い。

平日の昼の住宅地では、公園には母親と幼児、学校には子供たち、公民館には高齢者たちがいる。市が企画するイベントのチラシを見れば、それら「存在を認められた」層向けのものばかりだ。
お父さん、お母さん、子ども、おじいちゃん、おばあちゃん。昭和の時代であれば、それらの人たちが社会の構成員のほとんどだったと言っていいかもしれない。けれども今はそうではない。
今では大きな比重を占めている「家庭のない定年前の男女」の公の居場所はほぼない。行政にはそういう人間が見えていないのだ。

親子・高齢者層を自分たちと対立するものと思っているわけではないことは、十分強調しなければならない。自分にも家庭を持っている友人は多い。批判したいのは行政だ。

子育て支援、教育支援、高齢者支援等々、行政も各党も色々輝かしい政策を打ち出すが、「家庭のない定年前の男女」の生きづらさ問題など考えられていない。そうした相手にされてる層とされてない層の落差は感じざるを得ない。
こっちを見てもいない政治家を応援するのも、本当は空しい。残念ながら、左派政治家であってもそう感じる。

自分が参加している「0円ショップ」のいいところはひとつには絞り切れないが、自治体や国に目を向けてもらえない、あるいは住宅地で市民権を得ていない、地域に居場所が少ない有象無象の人たちの居場所になっているところもいい。以前にやっていた畑も、結局はそういうものになっていた。
そうした活動にはやりがいがある。

そして平日昼の住宅地を出歩こう。心ない連中にどう思われるかなど、気にしてやるだけ無駄だ。そんな連中に気に入られるために生きているわけではない。
***************************************
これはツイッターに連続的に書いた投稿を大幅に手直ししたもの。ツイッターへの投稿はすぐに消えてしまうので、本来長めに書いた方がいいこうした文章は、ブログに再掲載していきたい。と、以前から思っているのだが、なかなかできていない。
写真は、居場所のない人々の交流の場ともなっている0円ショップ。
posted by 鶴見済 at 12:05| Comment(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

「人からどう思われるか」を基準に生きるのをやめる

「人からどう思われるのか」。
現代人が最も熱心に考えているのは、結局これなのではないか。とても高邁なことを言っている人でも、案外これを一番に考えていることが透けて見えたりする。
ここで言う「人」とは、いわゆる「世間の目」に限らず、友人、家族、同じ職場の人なども含んでいる。

大原扁理君とphaさんとやるトークイベントが12月2日にあるが、この二人のいいところは「人からどう思われるかを基準にして生きる」というあまりにも一般的な現代的生き方をきっぱりと否定して、「自分の生きたいように生きる」ことを重視しているところだ。
かく言う自分もかつてはそう主張していたし、今もそれは変わらない。

「自分の生きたいように生きる」とは、自分勝手で子どものようだと思うだろうか? 簡単なのは実は「みんながやっているようにやる」ことのほうで、まわりに合わせていれば問題も起きない。そっちがあまりに簡単なので、「自分がどう生きたいか」などということは真剣に考えられていないのではないかと思うほどだ。

まわりの人からよく思われることでなく、自分が本当にやりたいことを大事にして生きていると、どうしてもまわりとずれてくる。自分重視の生き方は、本当は誠実に熱心にやらないとできないのだ。
けれども「周囲の誰もがいいと思う完ぺきな自分」が出来上がったとして、当の自分はその時幸せだろうか。「人からよく思われる」ことを一番の基準にしていたら、本来の幸せは望めない。

pha×大原扁理×鶴見済「それぞれの幸福の自給自足法」B&B(予約終了)
去年の同じメンバーによるトーク 
pha × 大原扁理 × 鶴見済 生きづらさの脱出法 (tsurumi's talk)
posted by 鶴見済 at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 生きづらさ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする