「死ぬために殺した」という証言は本心なのか?(後編)

「死にたい人は、他人に危害を加え、巻き込んで死のうとするものだ」といったおかしな見方が広まったら嫌だなと思って前回の記事を書いた。するとその直後に東大刺傷事件が起きてしまい、そんなことがごく普通に言われるようになってしまって、まいった。 毎年2万人も自殺する人は出るけれども、それらのほとんどの人がそんなことをしようなんて考えない。このことは、この長い記事の初めに言っておきたい。 「死にたくて、死刑になって死のうと思い、殺人(未遂)をやった」という論理が信じられないと前回書いた。そう語った焼き肉屋立てこもり犯は、「射殺されようとしてやった」と証言を変えた。本人によって「死刑になりたくてやった」は否定された。「射殺~」も相変わらず荒唐無稽なのだが、変わるくらいなのだから、その程度のものなのだろうと思わせる。(これについては、文末に紹介した犯罪心理学の専門家の意見も、よかったら参照を)。 そんなふうに犯人が犯行直後に語った動機を、いきなり真に受けていいのだろうか。もちろん自分だって、そんなのはひとりもいないなんて言う気はない。それでも「本心ではないのではないか」と思ってみる必要はあるんじゃないか。 京王線事件と東大事件************************************** 「死刑になるためにやった」の京王線事件の犯人は、「人の多いハロウィンの日を狙った」と言った。けれども、事件があったあたりの京王線は、ハロウィンだからと言って混みぐあいに変化はない。また、あの…

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「死刑になりたくてやった」を信じていいのか?(前編)

どうしても理解できないのに、世間が受け入れている言葉がある。「死にたかったので、死刑になりたくて(凶悪犯罪を)やった」というあの言葉だ。 まず、どうしても死にたいと思う。そして自分では死ねないと思った。(←この段階はあっさり通過される)そこで「そうだ死刑になろう」と思った。(←この時点でもうわからない)そのために、やりたくもない凶悪犯罪を犯そうと、計画を立て大胆に実行した。(←1ミリもわからない) あまりにもわからなさすぎるので、本心ではないのではないかと勘ぐっている。これまで本心でない可能性を、なぜ考えてこなかったのだろう? 少なくとも長いこと死にたいと思っていた自分の場合は、そういう発想は一瞬も湧かなかった。死にたいのに、そんな気力はどこから来るのだろう?自らの体験からのみ、疑問を持っているのではない。自分で死ぬことは怖いのに、死刑ならなぜ怖くないのだろう?筋が通らないと思うことには、疑問を持ち続けるべきだ。 焼肉屋に立てこもった犯人の、「死刑になりたかったからやった」という動機が、また大々的に報道された。まず、この犯行で死刑にならないことはわかりきっている。そして犯人は野宿友だちに、「刑務所に入れば飯も寝るところもタダだ」と語っていた。野宿友だちのひとりは、「死にたいとは言っていなかった」とも語る。立てこもっている間に「電車内の事件のようにしたかった」とも言っている。(「死刑に~」は京王線事件の犯人の語った動機でもある)。さらに犯人は立てこもっている最中に、テレビ局に「取材をよこ…

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「政府と戦えよ」という圧、「革命モデル」について(後半)

間が空いてしまったが、前回の続きを。 前回 ↓「もっと政治に怒れ」という圧、「革命モデル」について ①すべての問題は社会制度や政治の、つまり政府のせいである。②それを解決する方法は、民衆が怒りで立ち上がり政府を倒す(変える)ことである。 こういう方向に寄せて社会の問題をとらえようとするひとつの流れがある。それを便宜的に「革命モデル」と呼んだ。そして、この革命モデルだけしかないと思い込むのは問題だと言ったのが前回だ。(もちろん政府に訴える必要がある社会問題はあるので、自分も政府に文句を言うが、単にそういうことを言っているのではない)。さて、例えば。かつて、親が子供を殴っていて、子の人生を勝手に決めていたのは不幸だった。(太古から自分の子どもの頃まで、ずっとそうだった)。それが減ってきたのは、とてつもなく大きな社会変革だった。世の中はこうやって生きやすくなってきたのだな、本当によかったと痛感する。けれどもこの問題はもともと、政府のせいではなかったし、民衆が政府を変えることで解決したのではない。 何がこの大変革を起こしたのか?何かを「これだ」と言い当てるのは難しい。けれども戦後のロックや若者映画などのサブカルチャーは、確実に大きな原動力になった。 音楽や映画や小説を通して、親や教師など上からの支配の批判をあれだけやった分野はめったにない。自分がよく聴いた80年代の日本のパンクが反抗していたのも、まずは親をはじめとする上からの抑圧だ。もちろん洋楽ロック全般でもそれは基本で、クイーンには「お前…

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「もっと政治に怒れ」という圧、「革命モデル」について

心が苦しいのは社会のせいなのだから、心を癒してはいけない。原因である社会を変えなければいけない。 こんな言い方がある。例えば不眠症は、社会に原因があるかどうかわからない。「すべて社会のせいだ」というところに無理がある。それでもこの説は、一方ではかなり支持されている。 このようなある種の姿勢をよく見かけないだろうか?世の中に悪いことがあるなら、すべては社会制度や政治のせい。こういう方向に持っていく姿勢だ。「社会制度や政治のせい」は結局、「政府のせい」ということになるだろう。 そしてそれは「その問題の解決方法は、人々がワーッと怒りで立ち上がって悪い政府を倒すことだ」という見方とセットになっている。(選挙で倒すのもその一部である)。これは民衆の革命が、世界で割とよく起きていて、先進国でもそれが叫ばれていた時期(70年代まで?)に定着した考え方だろうから、「革命モデル」と呼んでおく。「問題はすべて政府のせいであり、解決はすべて政府を倒すこと」という姿勢と言えばいいか。(このネーミングは大雑把なものだけども)。 こうすることによって解決できる問題があるので、自分も随分こうした方向も提唱してきたし、実践もしてきた。けれども「これのみ」と考えすぎることの弊害も見てきた。 「道は革命モデルだけ」と考えてしまうと、問題の原因を政治・政府以外のところに置く人、そもそも関心を持たない人は邪魔になる。 政治について意見を言わない、と芸能人やミュージシャンが批判されているのをよく見る。よからぬこと言った…

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社会の激動より個人の激動のほうが大きい

「バブル崩壊前は、誰もが明るい未来を信じることができる時代だった」こんな言い方をよく耳にするようになった。明るい未来? 自分と自分のまわりを思い出すにつけ疑問に思うのだが、それ、信じられていただろうか?80年代の頃の一般的な未来像は、ブレードランナーやAKIRAや北斗の拳のような、全面核戦争(やそれクラスの大惨事)後の廃墟と化した世界ばかりだったので、明るい未来のはずはない。米ソ全面核戦争の危機におびえていたのだから。でも、そんなことも関係あったかなと思ってしまう。 では、「バブル崩壊によって未来は絶望的になった」はどうだろう? これについても、少なくとも世相は、そういう感じではなかった。むしろその頃、米ソの冷戦が終わって全面核戦争の恐怖がなくなり、西側陣営だった日本はある程度戦勝気分だった。これこそ世界の大ニュースであり、むしろ未来は明るく見えた時期と言えるかもしれない。けれどもそれですら、個人の未来観を変えるほどのものだったか怪しい。これについてはまた別に改めて書くことにしよう。 ここで言いたいのは、未来が明るいかどうかは、その人個人のやっていることがうまくいっているかどうかの影響がはるかに大きくて、社会の状況はそれほど影響していないのではないかということだ。個人のこととは例えば、人との出会い、別れ、交際、同居、加害・被害、病気、怪我、進学、学習、就職、退職、転職、起業、引っ越し、結婚、出産、留学、家庭環境、不仲、技術を学ぶ、新分野開拓、配属、転職、趣味等々、そういったことだ。 …

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自分はこうしたいと言う人/みんなにこうしろと言う人

みんなや他の人にこうしろと訴えている人と、自分がこうしたいと訴えている人がいるのに、ちゃんと区別されてないという話を。 夫婦別姓について反対の人と賛成の人が、同じように扱われているのに不満がある。そこそこ指摘されることだが、夫婦別姓に反対の人は、全員に別姓を選ばせないぞと主張している。そして別姓を選ぶ人がいても、おそらくその人には何の害もない。一方賛成の人は、全員別姓にしろとは言っていない。個人の選択について言っている(ここには個人の選択を尊重するかしないかという、第二のテーマが隠されている)。後者は前者に比べて、はるかにひかえめな訴えをしているのだ。そこのところは、はっきりと意識されるべきだろう。 こういう不公平というか不利な扱い、人生のなかでずいぶんたくさん接してきてしまった。 90年代の若手論壇?に、「大人になれ派/子どものままで何が悪い派」という分類みたいなものがあった。これは一時期、どこかで勝手に名づけられたものなので、大体のイメージみたいなものでしかない。自分はこの両陣営のなかで、もちろん「子どものままで~派」に括られていた。「大人になれ派」の代表は、小林よしのり氏だった。これはこれで、今あらためて検討してみるのも面白いのだが、ここにも不公平がある。こちらは個人の勝手な選択を訴えているのに対して、「大人になれ」とは随分命令的だ。この自分にすら、生き方を指図してきていることになる。 大麻論争にもこうした側面がある。反対と言う場合は、大麻を全員吸うなということ。賛成と言って…

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自分の不幸を第一に考えることが大事

これもずっと前から気になっていたこと。「人が幸せになれる世の中にするにはどうすればいいか?」と、たくさんの人が考えるだろう。その時の発想のしかたに疑問がある。 今なら普通は、「じゃあ医療どうするんだ」「教育どうする?」「税制どうする?」(以下無限に続く)というふうに発想するだろう。もちろんそれは大事なのだが、「幸せになれる世の中にする」というワクワクするテーマの割には、ずいぶん義務的・勉強的でやる気の湧かない話だ。 もっと普通の発想のしかたってないのだろうか?まず自分の人生を振り返ってみて、何が一番不幸だったか考える。その不幸を感じた人が他にもたくさんいそうなら、それをなくすことで世の中を幸せにする。むしろ、そっちのほうが順番として普通じゃないだろうか。 前者は「社会全体からはじめる考え方」、後者は「自分からはじめる考え方」と言える。19世紀後半から20世紀前半くらいの世界では、まず社会全体をどう作るか、いちから考える必要があった。王様が支配していた国を壊して、新しい国を作らなければいけなかった。第三世界では、20世紀後半がその時だった。まさに「医療どうする、教育どうする」だ。「社会全体からはじめる考え方」は、そういうところから続いている発想のしかたに引きずられているように思う。もちろんそればかりではなく、政治家的な発想のしかたが下りてきているとも言えるが。けれども今ならもう、「自分からはじめる考え方」をしてもいい。いや、いつだってそうしてよかった。 (発想のしかたを以前からのものに縛…

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なんかムカつく相手を攻撃するために、後から正義や理屈をくっつけるやり方

「なんかムカつくから攻撃したい」、だから攻撃する。いじめはこういうものでもあり、これがだめなことは明らかだ。そして「なんかムカつく」はいじめの原動力であるというのは、専門家の意見だ。 それでは、まず「なんかムカつく」相手がいて、攻撃するために、あとから理屈や正義をくっつけるケースはどうか。よくあると思うが、それも同じくだめなはずである。けれどもそっちは、見過ごされているのではないか。 子供のいじめでも、正義を口実にして行われている場合が多いというのも、専門家の意見だ。確かに「〇〇君は悪いことをした」といった理由でいじめが行われるケースは多いと感じる。人はまったく理由もない攻撃など、滅多にできないのかもしれない。自分の理不尽な攻撃を正当化するためにも、自分のなかでも後づけの理屈・正義が必要なのだろう。 正しさの立場から何か悪いものを攻撃するのは、本来悪いことではない。こうした後づけの正義や理屈は、その形だけを悪用していることになる。 では、攻撃の理屈や正義が後づけである時の目印は何かあるだろうか?後づけだけあって、「よく考えてみればそれほど悪くない」というケースが多いのではないか。それに比べて、ムカつきはもともと大きいだけに、攻撃が不釣り合いに大きくなることも目印になるのではないか。 そして、悪のレッテル貼りが行われることも多いと思う。例えば「ヒトラー」といった悪者・敵のイメージに、攻撃したい相手を寄せていく。そうして、「攻撃している自分=正義、ムカつく相手=悪」の構図を捏造し…

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僕たちは壁のなかの一個のレンガだ

ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』というアルバムを先日の不適応者の居場所でいち推ししたのだが、言葉が足りなかったので、あらためてここに書いておきたくなった。自分の人生において、とてつもなく大きな作品だ。 このアルバムは79年に出た、ピンクフロイドの歴史のなかでは、現役時代の最後のほうの代表作になる。アルバムが2枚組なのに全米1位になったのはまあ驚いたが、シングルの『アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール』も、全米1位を4週間も続ける大ヒットになった。この曲は日本のラジオでもよくかかっており、ラジオ中毒だった10代の自分の耳にも入ってきた。「結局僕たちは、壁のなかの一個のレンガじゃないか!」と歌っているのだ。しかも子供に合唱させている。この言葉は『完全自殺マニュアル』の前書きのなかにも書いた。そこの見出しには、この曲のタイトルをわざわざ載せた。当時、こんな歌詞の曲が全米1位になるなんてありえなかった。ヒット曲はもとより、ロックの歌詞もまずは恋愛。あの娘がかわいい、ふられた、そんなくだらないものばかりだった。恋愛以外の悩みを歌っているだけでも価値があったが、この曲やアルバムに込められた怒りの対象は、結局親でもなく、教師でもなかった(親や教師は出てくるのだが)。何かと言うと、「システム」だった。自分が欲しかったのは、そういうものだった。ロックの歌詞なんて、本当に共感できるものは少なかったのに、この曲には本当の自分の「悩み」と呼べるものが歌われていたのだ。こんなテーマを曲にして、しかも全米1位に送り込ん…

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「『死にたい』は『生きたい』だ」という間違い

先日あるテレビ番組でも耳にしたのだが、「『死にたい』は『生きたい』だ」という言葉がよく使われる。「死にたいと言う人は、同時に生きたいと思っている」という意味だ。これは「『嫌い』は『好き』だ」と同じで、意味をなさない文だ。なぜそんなものが通ってしまうのか。これについては一度言っておこうと思っていた。 自分はこう考えている。「死にたい」と言う人は大きな苦痛に直面している。苦痛から逃れるにはまず、①生きて苦痛を克服する方向がある。 そして苦痛が大きすぎると、②死んで苦痛から逃れる方向も頭に浮かんでしまう。 つまり「苦痛から逃れたい」は、同時にこの二つの方向を持っている。そこから、「死にたい」と「生きたい」は同じだ、などと勘違いするのだろう。「死にたい」「生きたい」なんてこと以前に「苦痛から逃れたい」がある。これこそどんな人間でも日々、心の底から願っていることなのだ。「死にたい」はその一形態なのだ。何かとんでもなく特殊なものと考えるべきではない。 「生きたい」っていうのも、実はよくわからない。「病気で死んでしまう運命」といった状況でもないなら、わざわざ大変な気合を入れて自殺でもしなければ生きてしまうというのに、「生きたい」なんて強く思うだろうか? 自分は「生きたい」とは思ったことがないのではないか。強く思っているのは、あくまでも「苦痛から逃れたい」であって。 「死にたい」周辺には、そこらへんの気持ちがよくわかっていない人が作った言説というものが結構流通していて、それが惰性で使われていたりするので…

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悪いことに意識を集中するのをやめる

「嫌な気分になりたくない」。これは誰でも思うことだが、その割にはその思いは実行されていないのではないか。 ある人が朝から晩まで、嫌な気分に取りつかれていることはよくある。もちろん、そうならざるを得ないほどひどい状況にいるならしかたがない。けれども、朝から晩まで嫌な思いをし続けねばならないほど悪い状況もそんなに多くない。 そんな時は、わざわざ悪いことに意識を集中してしまっているのではないか。いちいち言うまでもないほど、誰でもやってしまいがちなことだ。不安なことに朝から晩まで意識を集中すれば、朝から晩まで不安になる。イライラすることに集中すれば、朝から晩までイライラすることになる。当たり前だ。 下手をすると、それを何年も、もしかしたら何十年も続けてしまうかもしれない。 自分は中年になった頃に、このままだと、こんな嫌な気分のまま、もう一生行ってしまうなと思った。物心ついた頃から、ずっと不安やイライラに圧倒されている状態だったが、放っておけば「人生のメインの時期はすべてそれだったな」などと振り返ることになりそうだった。それを思った時には、さすがに底知れない恐怖を感じた。 25年くらい前に、取材も兼ねて催眠療法というのを受けることにした。その時に言われたのが、「『自分は嫌な気分になんかなりたくないんだ』という強い思いを大事にしよう」ということだった。それをいつも心に留めておこうと。それが嫌な気分から遠ざかる方法だと。 わざわざ悪いことに意識を集中する悪習は、自分でやっていることなので、どうし…

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「気が弱い人」というまだ市民権を得られない人種

まだ市民権を得ていないマイノリティ、というか不当に低く見られている人種はたくさんいる。LGBTなんかは、最近ようやく市民権を得たマイノリティということになるだろう。 「気が弱い人」もそのひとつだ。慎重であることは、決して劣っているとは言えない(不安を感じやすいかどうかが、気の弱さと大きく関わっているだろう)。争いを好まないのは、むしろいいこととさえ言える。それなのに「気が弱い人」は「小心者」「臆病者」と見下さてきた。悪いことなど何もしていないのに。逆に「気が強い」っていうのはそんなに偉いのかというと、これも善し悪しなのだが、とにかく社会で幅を利かせることができるのは確かだ。「気が強い」「気が弱い」という切り口で世の中やTwitter界なんかを見ると、ものすごく興味深いのでぜひお薦めする。 人間の歴史は「気が強い人」の勝利の歴史だったはずだ。気の強さによって相手を威嚇したり圧倒したり、時には相手を殴り倒して従わせた者が上に立ってきた。今でもそうだ。特に学校のような一般社会に比べて野蛮さの残る場所では、まだ「オラ、やんのかよ」みたいな態度が大きな力を持てる。TwitterなどSNSのように個人が十分に守られておらず、むき出しで戦わねばならない新しい場所も同じだ。こういう気の強さ、「武士の魂」みたいなものにその一番純粋な形を見ることができるのではないか。すごく武士っぽいなと感じる。「度胸」なんて言葉が浮かんでくる。自分の子供の頃でも、気の強さが崇められるがゆえに、気の弱さは不当に蔑まれ、克服すべき気…

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心のなかにある「人には言えないこと」の意味

悪いことをしたわけでもないのに、それどころか被害を受けたのに、人には言えず隠してしまうことがある。例えば、「いじめ被害にあった」なんかはそうだろう。これほど「いじめはいけません」と言われているのに。それどころか「お前いじめられていただろう」などと、脅しに使う人間までまだいそうだ。泥棒にあったことを言えない人はいないのに、何が違うのだろう? 軽い精神病については、随分自分から公言できるようになってきた。「うつ病」「発達障害(ADHDなど)」などは、本人が堂々と公言しているし、今は「過敏症(HSP)」が市民権を得ている真っ最中だ。けれども例えば「社交不安障害(対人恐怖症)」は、今でも言いづらいだろう。何か違いがある。 つまり「気が弱い」なんてことは、まだまだ市民権を得ていないのだ。人に対してガーッと強気で行けることが、いまだに偉いのだ。市民権がないとは、やんわりと見下されているということ。そして、誰でも自分のイメージをよくしようと日々がんばっているのだから、そんなことを言いたくなるわけがない。 ちなみに、自分は96年に出した『人格改造マニュアル』のなかで、精神科に10年以上も通院していることを初めて明かした。『完全自殺マニュアル』を出してすぐにそれを言っていれば、もっと受け止められ方が違ったのだろうが、その当時はとうてい言える空気ではなかった。80年代はネクラを笑う社会だったことは周知のとおりだが、90年代前半もそんなに変わったわけではない。「暗い」などと言って、公然と他人を笑っている有名人もま…

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「誰がどうした」ばかり考えるのをやめる

SNSがなかった頃のことはよく思い出せないのだが、その頃は「誰が週末にどこに行ったか」「何を食べたか」なんてことを、どうやって知ったのだろうか。当たり前だが、時々近しい人から伝え聞く以外は、会わないような人がどうしたかなんてことは知ることができなかったのだ。それを思うと我々が人間のこと、「誰がどうした」なんてことばかり考えるようになったのに呆れてしまう。 もちろんかつても「誰がどうした」を考えてはいた。けれどもそれは、ごく近い人間やテレビで見る有名人などに限られていて、そこから簡単に離れることもできたはずだ。 人間のことを考えるのでも、人間社会の問題を考えるのと、具体的な個人がどう振る舞ったかを考えるのは別ものと見なしたい。バッドなのは後者だ。具体的な個人について考えると共感も生まれるけれども、劣等感、疑い、違和感、反感なんかもとても生まれやすい。 前々回書いたように、「誰がどうした」で頭を一杯にしている状態でストレス、イライラが高まった場合、そのストレスは気に入らない相手にはけ口を求めるだろう。 殺人の半数以上が親族間で起きているのは、そもそも頻繁に接していないような相手は、殺したいほど憎めないからだ。けれどもSNSでいつもいつも見ていれば、同じように憎しみは高まる。 我々は嫌な情報を見ないわけではない。穴がブツブツ空いた気味悪い画像を凝視してしまう時、そこに何らかの気持ちの高まりがある。その性質を利用している広告もある。嫌な相手が発信する情報をわざわざ見る時にも、それはあるだ…

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ストレスを人にぶつけて解消しない方法

ストレスがたまらない人はいないし、気に入らない人がいない人もいない。聖人君子なんてどこにもいないのだから(そういう顔をしている人がいるだけ)、それはないことにしても始まらない。そして時には、両者の回路がつながって、ストレスがたまると、気に入らない人に悪意をぶつけることでそれを解消してしまう。些細な失態や犯罪を犯した芸能人や犯罪者を攻撃する心理も、そんなところだろう。 それが常態化している人もいる。ある著名人に10年近くもネットで誹謗中傷を続けた末に、告訴され有罪になった人の話を聞いたことがある。そういう人は、 ストレスがたまる→その著名人を中傷して解消 という回路が、習慣化していたに違いない。そうでなければ、10年も同じ人を中傷し続ける動機があるとは思えない。 インターネット登場前なら、身のまわりにいる「やり返してこなさそうな人間」が、そのストレス発散の対象だっただろう。ムカムカする、カッとした、などと言って、いじめ、DV、ハラスメント等々を行って解消していたのだ。そうした人がまわりにいなければ、そういう解消法は不可能だった。 けれども今はネットがあって「書き込み」ができる。こうして「たまったストレスを人間にぶつけて解消」という不幸な回路が、全盛期を迎えてしまったのだ。 なぜいじめをするのか? ハラスメント、マウンティングは? そんなことをこのブログでは書いてきたが、その仕組みは大体こんなところだろう。 それなら、この両者をつなげないことは、ネットの書き込みによって人が死んで…

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マウンティングしない方法

アンケートを見ると、いじめをしたことがある人のほうが、されたことがある人より多いくらいなのだが、なぜか「いじめをしてしまう」立場に立った言説はない。「いじめを許すな」「いじめをなくそう」「みんな仲よくしよう」といった、いじめを「どこかの悪人がやってしまう悪事」扱いした叫びなら溢れている。もちろんそれは必要なのだが、何かしっくりこないのだ。 前々回の記事で、「暴力に反対」みたいに読めることを書いたのだが、そこにも同じような違和感を感じてしまった。暴力や明確ないじめのように、滅多にないことだけ取り上げたいわけではないのだ。 いじめでなくても、相手に強く出てしまう、ガーッと行ってしまう、偉そうにする、命令するといったことがすでにダメだと思うし、それらはいじめと別物とは考えられない。一方がもう一方をいつも威圧したり指図したりしている関係も、いじめと呼ばれなくても恐ろしいものだ。いじめでなければ、少し違うけれども「マウンティング」くらいの言葉がいいだろうか。「ハラスメント(嫌がらせ)」だともっと違ってしまうし。 そういうことを、どんな時にやってしまうか、どうすればブレーキをかけられるかを考えてみると、はるかにしっくり来る。 まずは、どんな時に人にマウンティングしてしまいそうになるか?自分がその場の古株、仲間が多い、知識が多い、上手い、そして相手がその逆である場合なんかは、やってしまう危険が大きい。しかも、相手が大人しいなど、一言で言えば、嫌な言い方だが、自分が「強い」、相手が「弱い」と感じられた時だ…

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暴力に支配されている家庭はかなりあるはずだ

Twitterに家庭のなかの「暴力による支配」の問題を「昭和の頃までの話」として書いていたら、農水次官が息子殺しを正当防衛と主張したというニュースが出た。「殺すか殺されるか」だなんて地獄だなと思うが、そういうことが起こり得ることもわかる(事実関係はよくわからないものの)。こうした事件が現に起きているので、昔のこととして語るのもよくない。そしてこういう話はどこまで開示するべきか悩むが(引かれるのも嫌だし)、現在進行形の問題である以上、語ることに意義はあるだろう。 少なくとも昭和の頃までは、親が子供を厳しくしつけるのはむしろいいことで、父親は威張っている「べき」ものだった。子供に対して怒鳴る、叩く、をしない親がいただろうか。つまりこの頃までの親は、今で言う「毒親」が普通だったと言っていい。 そして親が暴力を後ろだてにして家庭を支配をしているのだから、他のメンバー間で暴力を行使してはいけない理由がない。兄・姉が弟・妹を、同じように暴力で従わせることは珍しくなかったはずだ。当時は2人以上の兄弟が普通だった。こちらのほうが大人が関わらない分、より危険だ。 例えば子供の頃、向かいの家に男の兄弟が住んでいた。よく彼らと遊んでいたので、兄が3歳下の弟にあれこれ命令したり、怒鳴ったりしているのはわかった。そして弟さんは母親が外出して兄と家に二人だけになりそうになると、何をされるかわからないので、用もないのに母親に付いて回っていたそうだ。親がいない状態が極めて危険なのはよくわかる。ただ、暴力による力関係は逆…

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花は互いに恩恵を与えあう関係のシンボル

コロナ自粛期間がちょうど春だったこともあって、花を飾ったり花の写真をSNSにアップしたりするのが流行ったのはなかなかよかった。自分も花を摘んでは飾っていた。 食べられる植物を育てる前は、90年代終わり頃からずっと主に花を栽培していた。その頃は花が好きだとよく言っていた(今はその頃より、男が花のよさを語りやすくなったのもいい)。そのうち花に限らず、食虫植物など、面白い植物全般に対象が広がっていったのだが、それでも中心は花だった。ありとあらゆる花を栽培した。鉢は常に10以上はあったはずだ。始めたきっかけは、近所の林に咲いていたムラサキノハナナ(通称ダイコンの花)を根ごと持って帰って鉢に植えたら、それだけでもかなりいけるとわかったからだった。それ以降は、花を摘んで花瓶に活けるのもずっとやっている。花を見ながら、なぜ花がこんなにいいのかよく考えた。そもそも、花は何のためにあるのか? もちろん虫をおびき寄せて、受粉を成功させるためだ。甘い蜜も、心地よい匂いも虫への贈り物だ。花は虫に受粉の手伝いをしてもらうために、ここまで手の込んだもてなしをしている。 我々の目に見える範囲にも、花(顕花植物=種子植物)と昆虫はたくさん存在している。 「進化史上最もめざましい成功をおさめた種間関係は、昆虫と『顕花植物』の共進化である」。(真木悠介『自我の起源』) ということなのだ。 互いに恩恵を与えあう「共進化」は、生物が最も得をする関係性だ。花とミツバチの関係では、どちらが得をしているのかよくわからない。寄生のよう…

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教室やオフィスに通う生き方の問題

教室やオフィスのような、人が密集しているひとつの箱のなかに一日中居ること。工場のような環境もそれに近い。そしてそこに毎日通うこと。これが人間の当たり前の生き方だと思っている人は多いだろう。そのこと自体を問題として考えたいのだ。自分も人生の初めの30年は疑いもなくそれをやっていた。その後思い切ってやめて以来、まったくその環境には縁がない。この変化は、自分の人生を振り返っても特に大きなものだった。そして今は、もしあれを続けていたらどうなっていたかわからないと、胸をなでおろすような気分だ。 あれほど人の視線が張り巡らされている空間に、あんなに長時間座っていることなど、今からでは想像もできない。否が応でも他人のことを強く意識してしまうし、意識される。意識し合えばもめごとも起きる。生きた心地がしないではないか。 ああした場所に通わない生き方など、何かとんでもなくひどいことになるのではないかと誰もが思うだろう。自分も初めはそう思った。けれども、そんなことはないと言っておきたい。(もちろん収入もつながりも、この社会は保障してくれないのだが)。 教室やオフィスや工場のような環境にずっと居ること、そしてそこに毎日通うことが当たり前になったのは、人間の歴史のなかでもヨーロッパで18世紀に産業革命が起きて工場ができ、続いて学校ができてからの、ここ200年くらいのことだ。人間の体や脳は、そんな環境に合わせて作られているわけではない。誰もができて当たり前のことではないのだ。だから意識過剰になったり、視線恐怖になったり…

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「人はみんな死ぬ」と思っただけでもホッとする

転んだことが直接の原因になって死んでしまう人は、国内で年間1万人もいる(間接的な死因となる人はもっと多い)。風呂に入ったことが原因(溺死・温度差など)で死ぬ人は年間1万9千人。そして去年1月の窒息死亡者は1300人。これらの原因は主に餅を喉に詰まらせたことではないかと推測される。(季節性インフルエンザで死んだ人は、18年は3325人)。これらは、最近自分で勝手に調べて分かったことだ。毎日今日のコロナの死者は10人、今日は15人、今日は13人、減る気配がありませんなどとやられると、絶望的な気分になってくるが、こういう数字を見ると気が楽になる。以前に本に書いたことだが、今地球上に生きている人が100年後にはほぼ全員死んでいると思ってまわりを見回してみるのも好きだ。 人は死ぬのだと思っただけでホッとするし、死んではならないなどと思うと肩に重い荷が載ったような気分になる。 前から思っていることなのだが、人が死ぬことをすべて、あってはならない痛恨の過ちのように見なして、死から目を背けていると、何かを見誤ってしまう。人が生きて死ぬというごく当たり前のプロセス全体を、普通に見ることができなくなってしまう。それは我々が生きるうえで、大きな考えの歪みをもたらしているはずだし、精神的な重荷にもなっているはずだ。(人が死ぬことを「殺された」と見なして、何かのせいにしようとする作戦のようなものも使われすぎていると思う)。 重荷になる言葉の最たるものが「生きることは素晴らしい」だ。自分は「生きていさえすればそれだけで…

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