暴力に支配されている家庭はかなりあるはずだ

Twitterに家庭のなかの「暴力による支配」の問題を「昭和の頃までの話」として書いていたら、農水次官が息子殺しを正当防衛と主張したというニュースが出た。「殺すか殺されるか」だなんて地獄だなと思うが、そういうことが起こり得ることもわかる(事実関係はよくわからないものの)。こうした事件が現に起きているので、昔のこととして語るのもよくない。そしてこういう話はどこまで開示するべきか悩むが(引かれるのも嫌だし)、現在進行形の問題である以上、語ることに意義はあるだろう。 少なくとも昭和の頃までは、親が子供を厳しくしつけるのはむしろいいことで、父親は威張っている「べき」ものだった。子供に対して怒鳴る、叩く、をしない親がいただろうか。つまりこの頃までの親は、今で言う「毒親」が普通だったと言っていい。 そして親が暴力を後ろだてにして家庭を支配をしているのだから、他のメンバー間で暴力を行使してはいけない理由がない。兄・姉が弟・妹を、同じように暴力で従わせることは珍しくなかったはずだ。当時は2人以上の兄弟が普通だった。こちらのほうが大人が関わらない分、より危険だ。 例えば子供の頃、向かいの家に男の兄弟が住んでいた。よく彼らと遊んでいたので、兄が3歳下の弟にあれこれ命令したり、怒鳴ったりしているのはわかった。そして弟さんは母親が外出して兄と家に二人だけになりそうになると、何をされるかわからないので、用もないのに母親に付いて回っていたそうだ。親がいない状態が極めて危険なのはよくわかる。ただ、暴力による力関係は逆…

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花は互いに恩恵を与えあう関係のシンボル

コロナ自粛期間がちょうど春だったこともあって、花を飾ったり花の写真をSNSにアップしたりするのが流行ったのはなかなかよかった。自分も花を摘んでは飾っていた。 食べられる植物を育てる前は、90年代終わり頃からずっと主に花を栽培していた。その頃は花が好きだとよく言っていた(今はその頃より、男が花のよさを語りやすくなったのもいい)。そのうち花に限らず、食虫植物など、面白い植物全般に対象が広がっていったのだが、それでも中心は花だった。ありとあらゆる花を栽培した。鉢は常に10以上はあったはずだ。始めたきっかけは、近所の林に咲いていたムラサキノハナナ(通称ダイコンの花)を根ごと持って帰って鉢に植えたら、それだけでもかなりいけるとわかったからだった。それ以降は、花を摘んで花瓶に活けるのもずっとやっている。花を見ながら、なぜ花がこんなにいいのかよく考えた。そもそも、花は何のためにあるのか? もちろん虫をおびき寄せて、受粉を成功させるためだ。甘い蜜も、心地よい匂いも虫への贈り物だ。花は虫に受粉の手伝いをしてもらうために、ここまで手の込んだもてなしをしている。 我々の目に見える範囲にも、花(顕花植物=種子植物)と昆虫はたくさん存在している。 「進化史上最もめざましい成功をおさめた種間関係は、昆虫と『顕花植物』の共進化である」。(真木悠介『自我の起源』) ということなのだ。 互いに恩恵を与えあう「共進化」は、生物が最も得をする関係性だ。花とミツバチの関係では、どちらが得をしているのかよくわからない。寄生のよう…

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教室やオフィスに通う生き方の問題

教室やオフィスのような、人が密集しているひとつの箱のなかに一日中居ること。工場のような環境もそれに近い。そしてそこに毎日通うこと。これが人間の当たり前の生き方だと思っている人は多いだろう。そのこと自体を問題として考えたいのだ。自分も人生の初めの30年は疑いもなくそれをやっていた。その後思い切ってやめて以来、まったくその環境には縁がない。この変化は、自分の人生を振り返っても特に大きなものだった。そして今は、もしあれを続けていたらどうなっていたかわからないと、胸をなでおろすような気分だ。 あれほど人の視線が張り巡らされている空間に、あんなに長時間座っていることなど、今からでは想像もできない。否が応でも他人のことを強く意識してしまうし、意識される。意識し合えばもめごとも起きる。生きた心地がしないではないか。 ああした場所に通わない生き方など、何かとんでもなくひどいことになるのではないかと誰もが思うだろう。自分も初めはそう思った。けれども、そんなことはないと言っておきたい。(もちろん収入もつながりも、この社会は保障してくれないのだが)。 教室やオフィスや工場のような環境にずっと居ること、そしてそこに毎日通うことが当たり前になったのは、人間の歴史のなかでもヨーロッパで18世紀に産業革命が起きて工場ができ、続いて学校ができてからの、ここ200年くらいのことだ。人間の体や脳は、そんな環境に合わせて作られているわけではない。誰もができて当たり前のことではないのだ。だから意識過剰になったり、視線恐怖になったり…

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「人はみんな死ぬ」と思っただけでもホッとする

転んだことが直接の原因になって死んでしまう人は、国内で年間1万人もいる(間接的な死因となる人はもっと多い)。風呂に入ったことが原因(溺死・温度差など)で死ぬ人は年間1万9千人。そして去年1月の窒息死亡者は1300人。これらの原因は主に餅を喉に詰まらせたことではないかと推測される。(季節性インフルエンザで死んだ人は、18年は3325人)。これらは、最近自分で勝手に調べて分かったことだ。毎日今日のコロナの死者は10人、今日は15人、今日は13人、減る気配がありませんなどとやられると、絶望的な気分になってくるが、こういう数字を見ると気が楽になる。以前に本に書いたことだが、今地球上に生きている人が100年後にはほぼ全員死んでいると思ってまわりを見回してみるのも好きだ。 人は死ぬのだと思っただけでホッとするし、死んではならないなどと思うと肩に重い荷が載ったような気分になる。 前から思っていることなのだが、人が死ぬことをすべて、あってはならない痛恨の過ちのように見なして、死から目を背けていると、何かを見誤ってしまう。人が生きて死ぬというごく当たり前のプロセス全体を、普通に見ることができなくなってしまう。それは我々が生きるうえで、大きな考えの歪みをもたらしているはずだし、精神的な重荷にもなっているはずだ。(人が死ぬことを「殺された」と見なして、何かのせいにしようとする作戦のようなものも使われすぎていると思う)。 重荷になる言葉の最たるものが「生きることは素晴らしい」だ。自分は「生きていさえすればそれだけで…

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個人を不幸にするのは別の個人による加害である

人生の不幸を減らすために一番重要だと思っていることがある。 1~2年以上といった長期にわたって、自分のことを狙い撃ちして攻撃してくる人間がいるだろう。家族、同じ学校、同じ職場、同じ地域にいることが多いが、ストーカーやネット上の加害者に出くわすこともあるだろう。そういう人間は、一生のうちに10人も現れないだろうが、5人以上は出るかもしれない(はっきりと姓名を憶えているはずだ)。人の不幸の最大の原因になるのは、そういう人間であり、そこから来る攻撃(暴力や嫌がらせ)なのだ。そしてそういう人間が現れた時に、なるべく早く有効な対処をすることが何よりも大事だ。そう思っている。 人の不幸の原因として、政治や社会制度のことばかり語られるけれども、この日本の場合それでいいのかと疑問に思う。もちろん国政を変えねばどうにもならない問題はあるのだから、そちらも大事だ。けれども、別格と言える不幸を招くのは身近な人間からの執拗な攻撃ではないか。経験からはそうとしか思えない。個人を不幸にするのはまずは、「鈴木」とか「田中」といった具体的な名前を持っている別の個人だ。 身も蓋もない話だ。けれども世の中は、唱えられている社会論のとおりではない。本気で自分の苦しみを減らしたいと願う人には、社会論など勉強するよりもまず、とにかく身近な人間から来る加害に目を向けてほしいと思う。そして加害者からはもちろんのこと、そういう加害が容認されている世界からも、迷わずに離れる(近づかない)ことだ(もちろん、そうできない場合もあるし、反撃し…

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「自殺する人はなんて弱いんだろう」という言葉

90年代からよくしていた話に、こんなのがある。中学生の頃の給食の時間に、ある生徒の作文が給食時の校内放送で作者によって読み上げられたことがある。その作文の確か冒頭はこんなだった。「自殺する人はなんて弱いんだろう。親からもらった大切な命をどう思っているのだろう」。それは、校内作文コンクールか何かの最優秀作品だったと思う。 それを聞いていた自分は、無性に腹が立った。「お前に何がわかるんだ」と。その頃、自殺のことは頭にあった。すぐにでも死にたいというわけではなかったが、太宰治や芥川龍之介など、自殺した作家の死に際の小説を読んで、なんとか乗り切っていた。そうした人のギリギリの作品には、他の人には書けない本物の苦悩や絶望が書かれている。 自殺については、しないですむならそれに越したことはないと思っている、といつも言っている。けれどもこの作文には、そういうことでは済まされない大きな問題がある。 これをTwitterに書いたら、自分の学校にも全校生徒の前でそういう作文を読み上げた人がいた、というリプライがあった。また、自分は昔のこととして書いたのだが、今でも変わらないという意見もあった。もちろんそれはあるだろう。wtsurumi / 鶴見済 『0円で生きる』発売中中学校の給食の時間に校内放送で、「自殺する人はなんて弱いんだろう。親からもらった大事な命をどう思っているんだろう」という作文を、書いた生徒が読み上げたことがあった。作文コンクール優勝とかで。悲惨な時代だった。 at 08/02 23:46 …

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なぜ不安を感じすぎるのか?

今回は、「なぜ人間はここまで余計とも思える不安を感じるようにできているのか」の話を。 心配事や悩み事で頭が一杯で、眠れないことが誰にでもあるだろう。なぜあんな厄介な機能が体に備わっているのだろう?これは推測なのだが、考えてみれば、部族社会、狩猟採集時代のような身のまわりに生命の危険が迫るような環境で、不安があるのにぐっすり眠ってしまっては、その生き物は生き残れなかったかもしれない。今は眠る環境だけはまったく安全になったのに、体がそれについていっていないのではないか。 また人間は、悪いことばかり思い悩む病気は多いのに、いいことばかり考えてしまう病気はあまり聞かないのはなぜなのだろうと気になっていた。どうせならその病気にかかりたいものだと。これも考えてみれば、そういう性質の生きものがいたとしたら、命の危険にあふれている太古の時代には生き延びられないかもしれない。 狩猟採集時代の人間が、獲物を獲りに森に入ったとする。まず、自らを襲う外敵や、植物の毒や、地形や天気にも細心の注意を払い、それ以上の繊細な注意をもって獲物を探すことだろう。目に見える、耳に聞こえるありとあらゆるものが、心配や注意の対象だ。 そういう命を危険にさらすような不安材料を人間は今に至るまでに、ひとつひとつ取り除いてきた。もちろん細かく色々あるけれども、はっきり言って今はそこまで不安が必要な環境ではない。例えば人の目のこと、ばい菌など生活環境のこと(コロナウイルスや放射性物質なんかは別として)、健康のこと、不審者等々、材料は色々あ…

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就職氷河期の原因は「大卒者が増えたから」

これは言っておいたほうがいいと思っていたことがある。就職氷河期世代とかロストジェネレーションに関する「あること」だ。 去年7月に出版された小熊英二氏の『日本社会のしくみ』という本で、こんなことが強調されている。 1)正社員の数は、バブル崩壊前も後も、今に至るまでほぼ一定である。2)90年代から正社員に就職できない大卒者が増えたのは、大卒者の数が増えたからだ。3)90年代から非正規雇用の数が増えていったのは、自営業者が非正規に転じたからだ(雇用される人が増え、それらの人が非正規雇用になった)。 これが詳細なデータとともに示されていて、十分な説得力がある。このことは第一章の主旨となっていて、本のなかでも特に強調されていることと言える。(1については、業種によっては正社員を減らし、非正規を増やした部門も一部にあると書かれている。2については単に人口が多かっただけでなく、大学数の増加も大きい)。これらのことは、個別にはしばしば取り上げられていた。けれどもこうして、まとめて体系的に説明されたことはなかったように思う。 これを知って仰天する人は多いのではないか。 もちろん、前後の時代より「正社員になりたかったのになれなかった人」がたくさん出て、大変だったことに変わりはない。だから文句を言っていいし、賃金を上げるよう要求していい。余力があるなら正社員化も必要。同一労働同一賃金は当たり前だ。これが非正規雇用の問題そのものだ。 では何が違ったのか?そこから広がっていった面白い尾ひれの部分、時代論・世代論…

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「もっと心配しろ」で人は幸せになるか?

今回は曖昧な気持ちのまま書いてみよう。 万が一ウイルスが手に付いたら、万が一感染したら、万が一死んだら、万が一他人に移したら、、、と、コロナ自粛期間は「万が一」「もっと心配しろ」勢力の天下だった。 少しずれるが、「みんな自分を感染者だと思え!」という呼びかけにも抵抗を感じた。全体にとってはそれでいいのだろう。けれども個人にとっては、自分が感染者だったら外にも出られないのだから、大変な心理的負担だ。心配しすぎで苦しんでいる人(たくさんいたと思う)なんて眼中にない言い方だと思っていた。 こういう「万が一〇〇になったらどうするんだ!」という言葉は強く言える。怒鳴ることができる。どんなに低い可能性であっても。「万が一子供が死んだら」なんかは強く言える言葉の典型だ。そんな苦情が入ったら、市役所も公園でも何でも使用禁止にしたくなるだろう。それに対して何か言おうとすると、「まあ大丈夫なんじゃないの?」といったとても弱い言い方しか出てこない。「心配しろ」の勢いは、なかなか止めるのが難しいのだ。 それほどまでに「もっと心配しろ」は特に大切で、「大丈夫なんじゃないの?」は大したことのない考え方なのか? もちろん交通や医療や、その他安全を確保しなければならない仕事の担い手が手を抜くことなど肯定できない。そこに対する不信感があるなら、注意深くするのも当たり前だと思う。真面目なんだから、そんなに悪くないじゃないかとも思う。そんなこともあるので曖昧な気持ちなのだ。 けれども、「適当でいいよ」「気楽に行こう」は…

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外出自粛中でもつながりを作る方法がふたつある

外出自粛が長引いて、孤立はどんどん大きな問題になりつつある。ただでさえ大問題とされていたのだから、当然のことだ。やっかいなことに、人は不安が高まった時にこそ、誰かとつながって安心したくなるものだ。けれども、こんな状況でもつながりを作ることはできる。世界的に流行っている方法がふたつある。 1ひとつめはもちろん、Zoomなどのオンラインミーティングでつながる方法だ。友人レベルで飲み会というのが一番盛んなのだが、では誰とやってみようかと考えてみるとなかなかハードルが高い。友達はいても、オンライン飲み会に誘うのはまたちょっと違う難しさがある。それならもう一つ広いレベルで、参加者を募集している読書会、英会話などのオンライン集会に参加する手がある。居酒屋も含めありとあらゆる「居場所」が今オンライン化しているので、新しい人間関係を開拓するチャンスと言える。場所を問わないというメリットがあるので、この機会に地方の人や海外の人とつながっておくのもいい。ただこれも、一度顔を出したことがある、など近い集まりから探していくのがいいだろう。もちろんGoogleやTwitterで検索し、いきなり飛び込むのもいい。勇気がいるが、リアルのほうがもっと勇気がいる。 例えば世界的な集まり募集サイト Meet up でもオンライン化が進んでいる(英語関係の集まりが目立つが、そうでないあらゆるテーマの集まりがある。ジャンル別に検索してみよう)。 自分もネット上のつながりはあまりあてにしていなかったのだが、それはSNSなどでのことで…

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緊急事態宣言下、心の健康を守るためにできること集

緊急事態宣言によってさらに厳しい外出自粛が求められているので、そんななかでもできる心の健康を維持するための対策を挙げてみる。どこかに通わない自宅生活数十年の自分が大事だと思うものを。もちろん誰にでも当てはまるわけではない。 ●散歩・ジョギング・サイクリング いきなり外出じゃないかと思われるかもしれないが、不要不急の外出とはこういうものを指しているわけではない。それを知らずに、この期間中まったく部屋から出ない人がいるのではないかと、逆に心配になる。欧米でさえ、個人が自宅近くでやる運動は認めている。犬の散歩を含める国もあるし、感染者の多いアメリカでもサイクリングを認めている。その点日本では、心や体の健康について国や自治体は重視していないので、言及されることも少ない。下手に店になんか行くより、十分に人との距離を取って散歩して帰って来るほうが、感染を止めるためにはずっと有効だ。 健康維持のための散歩やジョギングなど生活の維持に必要な場合には外出できます (内閣官房HP) 自粛期間に限らず、心の健康のために一番大事なのは「外に出ること」だと思っている。外に出た瞬間にふっと感じる何か違う肌触り、あれは大きなものなのだ。特に今は季節がいいので有効。 ●植物の世話をする 人間以外の生き物の世話をするのは、この時期とてもいい手だ。自分の場合は植物というか野菜。野菜をやる前10年くらいは主に鉢花をやっていたが、ホームセンターで安い苗を買って、花を育てるのもいい。ペットがいる人はこの時期もっといいだ…

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兄弟姉妹間のDVが問題にならない件。 自分も被害を受けていた

兄弟姉妹間での嫌がらせや暴力について、あまり話題になることがない。親子や夫婦間の暴力や虐待は頻繁にニュースになり、取り締まる法律もある。けれども兄弟姉妹間についての法律はない。むしろ、親子や夫婦間よりも頻繁で、根深くなるのではないかと思えるが。互いに子供、あるいは若者なのだから。 兄弟姉妹の喧嘩について少し調べただけでも、「仲がいい証拠」「親が介入しなくていい」といったアドバイスばかり出てくるのだ。「取っ組み合いの喧嘩をしていても放っておけ」とまで言われている。喧嘩は仲が悪い証拠だと思うが、その逆とは恐れ入る。 そしてそのプラスの面として、「手加減を学べる大切なもの」という説がよく付いてくる。それは何か実証的な根拠のある説なのだろうか? 学ぶどころか、体格がよくなるにつれて暴力がエスカレートする傾向もあると思うのだが。暴力は親が使おうが、子供どうしだろうが、よくないものじゃないのか?「親がジャッジしてはいけない」もよく出てくる。「喧嘩両成敗」という悪しき慣習はこのへんから来るのだろう。 兄弟喧嘩が子供を成長させるって本当!? (これはその一例) すべてがおかしい。と言うより、正直言って腹立たしい。兄弟姉妹は年の差もあるし、まったく対等であるはずがない。体格の違う者どうしが、ハンデもなくボクシングをやっているようなものではないか。反論など無限に出てきてしまう。 子供がいないので、自分の体験や、知り合いなどから聞いた話しか参考にできない。ただ「喧嘩」などと、まるで対等な何かであるように言われ…

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コロナ渦中にお薦めの落ち着く場所は「墓地」

コロナウイルスに関するあれこれで気が滅入っている人にお薦めの、心が落ち着く場所がある。広い墓地だ。墓地は実は公園のようにも利用されている。自分も先日、ある市がやっている公園に行こうとして、感染対策で閉まっていたため(なぜガラガラの公園が?)、墓地に行ったのだった。 いつもそこをブラブラしながら、なぜこんなに落ち着くのか考える。一番の理由は「死ぬことを思うから」なのだが、大きなテーマすぎて、それについてはまた別の機会に。建物がないので空が開けていて、しかも動きや生命感がないので、異様に静かだという理由もある。そんな場所は他にはない。 そして大きいのは、どうしても過去の長い時間に思いを馳せるからだ。 過去の、時には未来の、長い長い時間に思いを馳せると心が落ち着く。古い建物や遺跡を見ている時の独特の静かな気持ちも、そのせいなのではないかと思う。むしろそれが目的で、人は名所旧跡を訪れるのかもしれない。以前にエジプトのピラミッドに行って、ピラミッド、空、砂漠ばかりの風景を目にした。これらはどれも、4千年前から変わるものではない。4千年前の人もこの同じ風景のなかにいたのかと思うと、興奮するのではなく、気持ちがシーンと落ち着いたのを覚えている。 日々生きていると、どうしても近い過去や近い未来のことばかり考える。近い時間は動きが速いので、とてもせわしない気持ちになる。まるで凸レンズを覗くように、近くばかりが大きく、遠くは小さく見えてしまう。けれども遠い過去も、やはり今と同じように、それぞれ濃密な時間が…

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「私は私、あなたはあなた」という胸に来る真理

私は私の人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。私がこの世界にいるのは、あなたの期待に応えるためではなく、あなたがこの世界にいるのは、私の期待に応えるためではない。私は私、あなたはあなた。私たちがたまたま出会い、互いを見つけるならそれは素晴らしいこと。私たちが出会わなくても、それもまたいいことだ。 これは『ゲシュタルトの祈り』と呼ばれる詩で、ゲシュタルト療法という大きな心理療法を作ったパールズが、療法の基本となる考え方を盛り込んで作ったものだ(「祈り」ではなく「願い」と訳すべきだと思う。ちなみにこの療法についてはそれほど詳しくない)。 当たり前のことなのに、なぜこんなに胸に来るのだろうか。パールズがこの詩をワークショップで読み上げていたことの重みを考えたい。このことがわからなくなって心を病む人が多いということだ。 これは冷たい考え方だろうか?昭和の頃までの日本であれば、そう思われただろう。他の誰かのためにすべてを捧げてつくすような姿勢は、長らく尊いとされてきた。例えば家族とか、恋人とか。企業のために生きた会社員も同じだ。本来、他人のためを思うのはいいことだ。しかしそれは、単に他の誰かに自らの生きがいを依存する口実になってしまうこともある。自分が生きがいを依存した相手が理想と違ってきたら、「好きにすればいい」とは思えなくなる。依存された側ともども不幸になってしまう。他人に生きがいを依存しなくて済むように、まず自分が生きがいを見つけ、幸せになることはとても大事なことだ。そんな人間同士がつな…

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肯定される人間関係を見つければ人は幸せになる

今回はさらっと書いてみよう。 否定されている人間関係のなかにいることは、生きていて最もつらいことのひとつだろう。いじめを受けている人が自殺するのは、それが「死以下」だと見なしたからだ。家庭や職場で毎日のように否定されるのも、確かに最もつらいことに数えられる。 それよりは、一人でいるほうがマシである。肯定されない代わりに、否定はされない。 そしてそれよりマシなのが、肯定される人間関係のなかにいることだ。この状態を続けることができたら、それはもうかなり幸せな人生と言えるかもしれない(もちろん一定のお金は必要だが)。ただし、そこで否定されるようになるかもしれないので、危険はある。 たった一人でいることは、人間関係を持つことと対極にあるかのように言われているが、心理的には否定的な関係と肯定的な関係の真ん中あたりにあるわけだ。自分は人間関係すべてが嫌なのだと思っていた人も、「否定される関係」が嫌なだけで、「肯定される関係」であれば大歓迎なのかもしれない。 その先には「褒められる」「羨ましがられる」という段階もあって、この状態にある人はまず自殺するとは思えない。そのくらい生きるうえで軽視してはならない本質的なものが、「褒められる」のなかに入っている。それを口にしない決まりになっているのも面白い。が、それについてはまたの機会にしておく。 周囲から肯定されていることは、その場所を自分の居場所だと感じる決定的な要因になる。人間関係があっても、否定されているならば、人はいたたまれなく感じるのであって、そこ…

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映画『わたしに会うまでの1600キロ』と不安をあおる社会

正月には何か一本、放浪ものの映画(ロードムービー)を観ることにしている。今年観たのは『わたしに会うまでの1600キロ』だった。 【ここからネタバレ】主人公が母の死から自暴自棄になり、性依存症や薬物依存に陥ってしまい、経験もないのに無謀にもパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)の踏破、つまり数か月に及ぶ過酷な長距離の山歩きに乗り出す話。道中の宿泊はほぼ、人気のない場所でのテント暮らしで、水や食料の不足、雪や野生生物に悩まされる。あまりにも過酷すぎて、死んでしまってもおかしくないなと思うほどだ。【ネタバレここまで】 これはアメリカ女性作家の伝記の映画化で、正直に言えば、実話ゆえに話の出来はそれほどでもない。それでも見ているだけで爽快な気持ちになるから、放浪もの映画は素晴らしい。我々の日々の暮らしには、こうしたものが必要なのだ。 今の日本の社会は、不安をあおる情報ではちきれそうだ。病気や事故の不安、老後、生活、災害、等々。もちろんもともとはどれも必要な情報であり、善意で流されていたはずだ。そのくらい警告するのが適当というものも、なかにはあるだろう。ただ全体的に見れば、適量を超えても止まらなくなっているのが今の状態と言える。 「公園での禁止を増やす自治体の心理」的なものの作用はある。あれもこれも危険だ、やめておけと言っておけば、社会全体が窮屈になったとしても、自分は責任追及を免れる。それは別の形の無責任でもあるのだ。 また、「不安情報は人の目を引くことを知っているマスコミの心理」的なものの作…

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ベタベタした人間関係がいいわけではない

自分は親とは仲が悪くはないが、そんなに頻繁には会わないことにしている。あくまでも時々会うだけだ。なぜか。それは、近づきすぎると必ず、ああしろ、こうするなという特有の嫌な面が出てくるからだ。これまでにもそれで、何度も決裂して、そのまま絶交しそうになったこともあった。そうした経験をふまえての、互いの知恵なのだ。(もちろん今後どうなるかはわからないが)。 これは人間関係を考えるうえで、とても重要なことだ。人は、あまりに近づいていると、好感だけでなく「嫌だ」という感情も湧くものだ。人間は誰でも聖人君子ではないのだから。いつも口では聖人君子のようなことを言っている人間でも、近づいてよく見れば普通に醜い面を持っているのがわかる。 では、学校の人間関係はどうだろう。細々とした班、係、掃除、給食、学級会、朝礼、体育祭、文化祭、合唱祭、そして部活動。考えてみれば教科以外にたくさんの活動があることに気づく。うちは勉強だけ教えますという大学にはまったくないものだ。「特別活動」という日本独特の教育法である。あれらは道徳教育でもあり、「みんな仲良く」の教育とも言える。いじめへの対策として、特別活動をもっと活発にすることも提唱されている。 けれどもこういう対策には、人間の悪い面が見えていない。こんなに朝から夕までベタベタさせていたら、誰でも「嫌い」の感情が出てくる。それがいじめにもつながる。いじめの温床を自分たちで作っておいて、いじめをゼロにしようとしているのだ。もちろんうまくやれる相手となら、どこまでも親密になればい…

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異性とつきあったことがなかった話

男女一対一のつきあいをこの社会が褒めたたえすぎていることについても、見直すべきだとかねがね思っていた。 自分は30歳くらいになるまで、異性とつきあったことは一度もなかった。最大の理由は、高校から大学という普通なら一番異性とつきあいそうな時期に、心の病の関係で対人関係が非常にやりづらかったから。症状の重い期間は、そもそも異性とつきあいたいという気持ちがない(病んでいる人が皆そうだとは限らないが)。別に異性が嫌いではないし、話もする。けれども、そんなに重くない時期でも、男女一対一でつきあうのは対人不安を押してまではしなくていいかと思いつつ、結局引いてしまうというところだった。 30歳くらいになってつきあうようになったのはなぜかと言うと、書いた本が売れて雑誌などで散々持ち上げられたため、異性同性を問わずそれまでは知り合えなかった、気が合う人、話が合う人と格段に知り合えるようになったからだった。 ただしこれは、心の病とかそういう特別な話にしたくない。自分としてもそれだけではない。無理につきあわなくてもいいか、くらいに思っている人は、今の世の空気のなかでは言えないだけで、実はたくさんいるのではないか。そもそも、そんなに皆が皆、一対一で異性とつきあいたいと思うかどうかが怪しい。またあの、異性の目を気にして、自分をよく見せようと努力すること(カッコつけたり、かわい子ぶったり)をよしとする文化が嫌な人も多いだろう。自分にもそれはあった。 そもそもこの社会では、「若者=男女一対一の恋愛」というイメージが強す…

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巨大台風が来ると盛り上がるわけ (みんな一緒編2)

巨大台風が来ると盛り上がる話の三回目。前々回になぜ盛り上がるのかを、「非日常的なものにみんなで飲み込まれる」からだと書いたが、ここでは「みんな一緒に」の部分について。前々回も書いたが、巨大台風が来る時に盛り上がる心性は、不謹慎と切り捨てられるようなことでもなく、考えるべき大事な問題だ。 まず言えるのは、巨大な台風が東京を襲う場合、こんなにみんなで同じ経験をする機会はめったにないということだ。台風が通過している最中、東京にいるおそらく全員が暴風雨のことを心配しただろう。自分もネットでどの川が氾濫しそうなのか、飽きることなく検索していた。 「みんな思いが一緒」だと感じた時、何であれ涙が出るような熱い気持ちにならないだろうか? そこに、みんな動きが一緒、格好が一緒が加われば、熱さはさらに増す。これは社会的動物である人間に元から備わっている性質なのだと思う。だから、悪いものとして切り捨てることなどできない。 我々は日々、「みんな一緒」になれるチャンスを求めている。ライブ会場やスポーツの会場などは、以前よりも「みんな一緒」になっているように見える。ライブで全員が手を上げて左右に振る習慣や、スポーツ観戦でのウェーブなんかは以前にはなかった。ひとりのリーダーを壇上に上げて、大勢でワーッと歓声をあげると、何であれ、胸が自動的に熱くなるだろう。 人間は「みんな一緒」を肯定しているのか否定しているのか、まだよくわからない。それを決めていない。ただ今の日本について言えば、個々バラバラよりはみんな一緒のほ…

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巨大台風が来ると盛り上がるわけ(みんな一緒編1)

「この特殊なメカニズムは、現代社会において、大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとが彼に期待するような状態になりきってしまう。「私」と外界の矛盾は消失し、それと同時に、孤独や無力を恐れる意識も消える。」 「個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一になった人間は、もはや孤独や不安を感ずる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である。」 これは、社会心理学者E・フロム『自由からの逃走』(1941年)の一節。彼は大衆社会やファシズムに熱狂する人々の心理を研究して、この歴史的名著を書いた。彼はナチスによってドイツを追われ、この頃はまだナチスの全盛期だった。ただし、ナチスのことを中心に語っている本ではない。この本の趣旨は、自由を追求すると人は孤独で不安になるというもの。ここは、人がどのようにそこから逃れようとするかの三つのメカニズムのうち、どの社会でも人々が最も普通に取っているやり方を述べているところだ。つまり大衆の心理について語っている。ここは自分がこの本のなかでも一番気に入った部分で、大学のレポートなどに何度引用したかわからない。 さて、すでにここまでで長くなってしまった。巨大台風が来ると盛り上がる話の続きを書こうと…

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