80年代のネクラ嘲笑文化、陰口文化

80年代に大人気だったビートたけしのオールナイトニッポンは、メインがきよしや軍団をはじめ身近な人間の嘲笑や陰口だった。大島渚や村田英雄など、有名人をしつこくバカにすることも多かった。それに大なり小なり影響されて、教室でも口調まで真似して、他人の観察と嘲笑に明け暮れていた。誰があの時変なことを言った、誰は笑っちゃうなどとたけし気取りでしきりに言っている本人自身も、それによってますます危険になるのだから、実にご苦労なことだった。こういうのは、高校にも大学にも、そして職場にもいた。 たけしほどではないものの、80年代に人気のあったタモリのオールナイトニッポンでも、ネクラ嘲笑を芸としていて、極めてよくなかった。よしとされたのはネアカな性格である。考えとか思いやりとか、そんなことよりも、とりあえず人当たりが明るいか暗いかで、その人の集団内での評価が決まってしまった。ネクラ嘲笑/ネアカ賛美は、もともとタモリが言い出したなんてことは気づかれないほど、広く社会全般に広まった。今は「陰キャ」という言葉がある。それもあまりよくないと思うのだが、クラスなどの集団のなかのポジションを指す言葉なので(「俺は中学では陰キャだった」など)、嘲笑の言葉である「ネクラ」とはちょっと違うように思う。 滅多に振り返られることもないが、こういうものは、個人の生きやすい/生きづらいを決定的に左右する。ああいう放送は今は無理だと思うので、いい時代になったものだと思う。 「バブルの時代はよかった」「80年代は幸福だった」。一面的…

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西伊豆・田子瀬浜のシュノーケルと冒険の効果

西伊豆の田子瀬浜でシュノーケリングをしてみたのだが、ここにもそこそこサンゴや熱帯魚が見られることが分かった。ここの特徴は、海岸の向かいに泳いで行けるところに尊之島という小島があって、その周りを勝手に見て回れるところだ。魚を見るのに砂浜はまったく必要ないので、こういう場所はシュノーケルに絶好と言える。 尊之島では静かな右側のほうにどんどん進んでいくと、ソラスズメダイの群れがたくさんいた。西伊豆独特の切り立った岩や岩穴があり、そこを海中を見ながらくぐるのも面白い。サンゴは島よりも海岸の右側に多かった。南伊豆のヒリゾ浜ほどではないが、こちらは広々としているところがいい。 こういう好き勝手な場所でやるシュノーケルを、『ロンリープラネット』に倣って「DIYシュノーケル」と呼んでいる。魚が多い場所を探すとなると、どうしても人気のない「行ってはいけない場所」になってしまうので、DIYシュノーケルには冒険・探検の要素が入ってくる。道かどうか怪しいところをかき分けて海に入ることもある。 熱帯のジャングルでそんなことをやっていた時、海にも出られず、戻る道もわからなくなり、本気で死ぬかと思ったことがあった(GPSがあっても)。潮の流れが速くて、流されそうになったこともある(泳いでも泳いでも潮の流れがほぼ同じくらい)。大抵は濡れた岩場を歩いて海に出るので、よく滑って転ぶし、いつか骨折するだろうな、海外で骨折したらどうなるんだろう、などと思っている。それでも自分は相当慎重なほうだと思っている。やる人は十分注意しましょ…

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不審者通報を「する側」と「される側」の違いって何なの?

川崎での殺傷事件があった頃Twitterで、「公園のベンチに座っていただけのおじさんが、ママ友集団に不審者通報された」という事件が批判的に広まったことがある。 公園のベンチに座っただけで通報されたおじさん 不審者扱いの理由は「普段は見ない人。スマホを使っているから盗撮かも」 (キャリコネニュース)驚いたのは、それに対して「悪くない、どんどん不審者通報をしよう」というツイートもまた、拡散されたことだ。興味深いのでそうしたツイートも色々漁って読んでしまった。ネット右翼など、特定の考えの人たちが言っているわけではなく、多くは「子供を守るため」「犯罪をなくすため」という正義感を持った人たちのようだった。 自分が疑問を持ったのは、そうした発言のすべてに、通報される側にいる人々のことが、まったく頭にないことだった。そして不審かどうかの判断を、通報する人間が完全に恣意的に行えることへの疑問もない。 不思議な気持ちになった。同じ地域に住んでいる人間のなかで、なぜ一方には自らを「通報する側」という特別に有利な立場と自認している集団がいて、もう一方には「通報される側」という不利な立場に置かれる人間が生じるのか。もちろん自分は後者に入るし、「平日昼に地域をウロウロしている高齢者でない男」は、皆そうなりうる。一人でいる、子供を連れていない、など他にも色々あるだろう。逆に、「子供を連れたママ友集団」は絶対に通報されないと断言できる。 地域における「生きやすさ」は、すでにそのくらい違っているのだ。近隣の目を怖がること…

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川崎殺傷事件報道があおる「自殺したい人」への偏見

「自殺をする人は他人を殺しかねない」。川崎の殺傷事件を「拡大自殺」などという自殺の一形態と見なす報道によって、こういうイメージがまき散らされた。拡大自殺とは、自殺したい人が他の誰かや社会に恨みを持っている場合、まずその相手や見知らぬ人を殺してから自殺することを言うらしい。 その拡大自殺の提唱者である片田珠美氏が、その説の元にしているのが、「自殺とは他人を殺したい願望が自分に向かった形である」という「自殺と他殺は表裏一体」説なのだ。その説は彼女の著書『拡大自殺』のなかでも説かれている。こういうおかしな仮説は「死にたい人」に対して、人殺しをしかねないという偏見を生んできた。 こういうことは、傾向としてあると言えるのだろうか? 実際に、数え切れないほどの自殺者の事例に当たり、まわりの死にたかった/死にたい人の話を聞き、何よりも自分が死にたいと思っていた時の経験から言うと、自殺したい人が他人を殺して恨みを晴らしてから死のうとするケースは滅多に見られないと言うほうが正しい。 自殺しようとする人も、「どうせ死ぬのだから何でもできる」などと思っているわけではない。もちろん例外はあるものの、死体の見栄えや迷惑をはじめ、自分の死後のイメージを強く意識するものだ。そもそも、自分の今の苦しみと死と格闘することで精いっぱいで、その前に復讐のために人を殺すという一大事を持ってくるエネルギーなどない場合が多い。 もし日本の自殺者のわずか1%にでも、こうした復讐の殺人を犯す傾向があるとしたら、毎年200~300件の「復…

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エジプトの駄弁り文化はすさまじい

エジプトに少し長めの旅行に行ってきた。自分は旅行中、そこに住んでいる人の暮らしに触れるのが好きなので、地域の屋台や小さな飲食店にばかり行っている。地元の人が乗りこなす小さなバスにもよく乗る(料金は15円くらい)。自転車や徒歩で、住宅地みたいなところを見て回るのも好きだ。 今回そんなふうに見ていて驚いたのが、都会でも地方でも盛んな駄弁り文化・カフェ文化だ。カフェは夕方から夜にかけて、駄弁る人々で一杯になる。カイロのカフェが集中している地帯では、ざわざわと話声が響いている。地方ではサッカーの中継を大画面で見る人も多い。街頭テレビといったところか。平日昼でも、水タバコを吸いながらのんびり話していたり、独特のボードゲームをしていたり。カフェに限らず、街頭や公園のそこかしこに腰かけて、あるいは連れ立って歩きながら、延々と会話をしている。大通りでない路地にも、子供も大人も人が溢れていて、彼らがまた立ち話をしている。 インドネシアをはじめ東南アジアでもよく感じたのだが、平日でも人々が夜に連れ立って外に出て、延々駄弁るという文化がある。学校や職場しか行くところがないような社会とはまるで違う。エジプトは物質的には豊かな国とは言えない。失業率も高い。そんな場所で何か楽しめることと言えば、やはり会話ということになるだろう。何しろ無料だし、昔から親しまれてきた娯楽だ。もしこの会話を毎日数時間でも心から楽しんでいるなら、他に何もいらないかもな、と思える。 もちろん、旅行者にはわからない仲間外れ、いじめ、敵対はあるに決…

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弱者認定をしてもらうことへの違和感

日頃から自らの弱さの公開はとても大事だと言っているし、自分でもそれをやってきた自負はある。けれども、自分はこんなにかわいそうな立場なんですよと世間や周囲に認めてもらおうとするのは、自分としてはちょっと違う。例えば、自分は精神病だと言うことで、進んで弱者カテゴリーのなかに自分を押し込んでいけば、「かわいそう」というある種の特別扱いをしてもらえることは予想できる。けれども、それはとてもムズムズする違和感のあることなのだ。今は本当に色々な精神障害が認められるようになって、それは掛け値なしにいいことなのだけれども、注意すべきところもある。 ミシェル・フーコーというフランスの思想家は、狂人と言われた人が古くから今までに、ヨーロッパでどんな扱いを受けてきたかを研究した。かつて狂人は、村のなかで自由にしていたり、後には犯罪者や物乞いなどと一緒に収容所に閉じ込められていた。それが18世紀末から「精神病者」という「病人」として扱われるようになって、今に至っている。それはいいことではある。けれどもフーコーは、まさにここに大きな問題があると考える。狂人と呼ばれていた人が、病気で判断能力がないとされ、社会的な責任を免除され、精神科医の子供のように扱われるようになるからだ。狂人はかつて、我々の「理性的にまとまった判断」を脅かす、不安にさせる、それなりの一個の存在だった。けれども、それですらない「かわいそう」でしかない存在になったわけだ。 これと同じことを、弱者認定の問題に感じる。自分が90年代に、弱さを公開しつつも、弱…

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「貧乏暮らし」ではなく「簡素な生」ーー『清貧の思想』から

ミニマリスト、小屋暮らし、モバイルハウス(車上生活)、隠居、、、これらは、お金や物にとらわれない新しい生き方として注目されがちだが、志向されているのは単に貧乏ではないだろうという話。フリーランスやあまり働かない選択、「プア充」などについても言える広い傾向について。 『清貧の思想』という90年代のベストセラーを久々に読み返すと、そのあたりのことがはっきりしてくる。この本は、松尾芭蕉、良寛、西行、鴨長明、吉田兼好(註1)といった、日本を代表する世捨て人たちの価値観を、「日本文化の精髄」として紹介している。そこで強調されているのが、著者が「清貧」という言葉で言おうとしてるのは、単にお金や財産を持たないことではなく、「簡素な生」のことだということ。(註1)彼らは低い身分ではなかったので、最低限のお金は持っていたと思われるが。良寛以外は。 その価値観においては、お金や財産はひとつの要素にすぎず、地位、人間関係、業績、他者評価、将来、過去など、自分の外にあるものすべてを、自分の幸福の根拠としない。つまりは、「現在」と「自分」の充足を重視した。そしてこうしたシンプルさを重んじる感覚は、決して彼らのような特別な立場の人間だけのものではなく、庶民にまで広く行きわたっていたそうだ。(註2)もともと仏教とともに来た考え方だそうなので、大陸にも大きな流れとしてあったはずだ。 これは今の傾向にも言えることだ。日本にもアメリカにもこんな傾向があり、物にあふれた時代を経験したことや、リーマンショックのような経済破綻を目の…

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世間に背を向ける者はいつの時代にもいる

正月にはいつも、世間に背を向けたはぐれ者が放浪の旅をする映画を観る。アメリカン・ニューシネマというジャンルにこの手の映画が多く、『イージー・ライダー』はその代表だ(註1)。「自分の人生なんだ。好きなように生きていいんだ」というスカッとした気分になれる。 (註1)他に『バニシング・ポイント』『明日に向かって撃て』『俺たちに明日はない』『さらば冬のかもめ』『スケアクロウ』など。『テルマ・アンド・ルイーズ』『モーターサイクル・ダイアリー』なども。 今年観たのは、『イントゥ・ザ・ワイルド』だった。ネタバレになるので多くは書かないが、大学を卒業した実在アメリカ青年が「この人生」「この生活」に疑問を持ち、本当の生き方を求めて放浪と荒野の一人暮らしをする映画だ。まあ面白かった。自分はこういうタイプの人や映画に強く惹かれる。 世間やこの人生・この生活に嫌気がさして放浪や自然内独居に向かった例は枚挙にいとまがない。ソロー、ランボー、ケルアック、鴨長明、松尾芭蕉、、、など時代や地域を問わず無数にいる。今の小屋暮らしやモバイルハウスも、その系譜に入るだろう(註2)。(註2)ただ、ソロー、ケルアックの作品については、そんなに面白いと思っていない。 実は、今のひきこもりの人たちも、ある意味、こうしたものの一形態ではないかと考えている。放浪も自然暮らしもできないなら、部屋に閉じこもるのが「脱世間」のやり方だからだ。メンタリティーは共通している。江戸時代以前の出家する僧侶や、現代のミニマリストにも、共通するものを感じる…

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「集まりたい」という人間の巨大な欲求

「本当のところを言う」のが10代のころから、大事なことだと思っていた。弱い面、うまくいっていない面があれば、そう言う。誰もがそうしていれば、無駄な憧れ、嫉妬、劣等感、やっかみ、反感なんかも相当減るだろうと思う。 先日、無料放出アクションの0円ショップで、通りかかった男性がこう聞いてきた。 「いや、なんで、なんでね、こんな寒い中で、こういうことやってるんですか?」 その質問には、挨拶ではない真剣味が感じられたので、こう答えておいた。 「こうやって集まったり人と会ったりしてるのが楽しいんですよ」 これはあくまでも数人のメンバーのなかの自分の意見にすぎないし、他にも答えようはいくつかある。捨てるしかないと思っていた物を、他の人が喜んで貰っていくのは、本当にスカッとする。おすそわけ経済の推進のためでもある。けれどもそれは、「本当のところ」2番目以下だ。もしこの時に、「地球環境のため」等の高邁な理念を言ってしまったら(もちろんそれもあるが)、あの人はどう思っただろう。 「宗教みたい」 こう思うのではないか。これはまったく謎の感覚で人が動いている時に浮かぶ、代表的な考えだ。自分たちの0円ショップが、そう思われていた面もあるとも聞いた。 世の中には無数の、高邁な理念を持つ無償の活動がある。支援のボランティア活動とか。それらも「集まるのが楽しい」、そして「何かやりたい」「何もせずにいるのもつまらない」、さらに「どうせやるならいいことをやりたい」といった動機から行われている側面が大きいと自分は見る。…

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人生は「偶然」で決まっている

大阪から新潟の佐渡島の田舎に移住した友人家族が遊びに来てくれて、佐渡暮らしの話を聞かせてくれた。近隣の農家の作業をローテーションで手伝いながら収入を得ている話など、どれもとてもためになる。特にはっとしたのは、次の話だ。 彼の地では仕事も暮らしも、自然環境に大きく左右されるので、住んでいる人はあきらめがいいそうだ。台風で果樹の実がみんな落ちてしまって致命的な大損害のはずなのに、「まあしょうがねえか」とあきらめが早い。自分にはどうしようもない力のせいなのだから、それも当然だ。そんな空気が、もともと心を病んで移住を決意した友人の精神面にもいい影響を与えているという。それを聞いて思い出した。 よくない結果が起きた時、我々はその原因を、自分か他の誰かかの二択で考える。「あの時ああしていれば」と際限なく後悔し、「あいつのせいで」と他人を恨み、過去にとらわれる。そして、もっと慎重に先々の計画を詰める。 けれども、自然に包まれた暮らしでなくても、我々の人生は、どうにもならない「偶然」や「運」の力に左右されていたんじゃなかったか。そもそも、生まれる土地や家族が選べない。そして、たまたま同じクラスになった友人、偶然知り合ったパートナー、たまたま採用された会社、偶然見つけた住まい、などの影響力がどれほど大きいことか。病気になって死ぬのも偶然の要素が大きい。こうした大きな偶然の力に比べれば、自分が決められる部分などごく一部とさえ思える。 あの人の人生も、この人の人生も、たまたまそうなっているだけだ。現代人はものご…

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80年代の日本のパンクは何に怒っていたか?

オッサンの昔語り的なテーマが続くが、『爆裂都市』や『ちょっとの雨ならがまん』というパンク系映画を久々に観たこともあって、80年代の日本のパンクについて書いてみたい。このブログやTwitterは、浮かんだ考えを自分のなかにしっかり定着させるために書いている面もあるので。 【ちょっとの雨ならがまん】 予告編 80年代半ばまでの日本のパンクが好きだった。こう言うのもなんだが、自分はパンクスだなどと思っていた。好きだったのは、バンド名で言えば、スターリン、ラフィンノーズ、スタークラブ、GISM、あぶらだこといったところで(もちろんその他のバンドも。なかでもスターリンは断トツだった)、当時としては、ごく一般的な好みと言える。ライヴにもよく客が入っていたし、レコードもメジャーから出せるほど売れたし、シーンは盛り上がっていた。 そのシーンで吐き出されていたのは、もちろん怒りであり、「くそったれ」という感情だった。では、何に対しての「くそったれ」だったのか。 反戦の曲はあった。ハードコア系のバンドに多かった。しかしそれは、お手本と言えるUKハードコアパンクがそうだったから、という面があるように思う。また米ソ全面核戦争が起きるかもしれないというバッドな感覚は、すでに日常的なものだったので、そのイメージが曲のなかに出てくるのは、特に社会派・政治的でなくても十分あり得た。 ではそれ以外に、政治的・(狭い意味での)社会的なテーマが歌われていたかというと、極めて少なかったと思う。社会派とは見なされないセックス・ピ…

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「大人になれない若者」批判が流行っていた

80年代に「モラトリアム人間」という言葉が流行っていた。モラトリアムというのは「猶予期間」のことで、大学生などで「大人になれない青年」を非難する意味合いで広まった。大人になれないというのは、まずはサラリーマンになるのを嫌がることだ。けれどもそれだけではない。ハキハキ話す大人の態度が取れないことや、割り切れずに内面の自我にこだわる人まで、広く外向的・社交的になれない青年がモラトリアム人間とひと括りにされていたと言える。もっと詳しく言えば、大人(=社会に適応した人間)になることこそが人間として“アイデンティティ”を確立することで、それができずにぐずぐずしていることが「モラトリアム」というネガティブな意味合いで語られていた。精神科医が提唱して、精神医学界から広まった言葉で、他にも「ピーターパンシンドローム」「青い鳥症候群」「成熟拒否」など、似たような概念が精神医学界から色々提唱されていた。自分も精神科医から、そうした非難を毎度のように浴びていた。「君は大人になれない」「未熟だ」と。ただこれは言っておきたいが、そんなことを言われても、「はいなります」なんて思えない。就職活動は嫌というほどやったが、「やってられるか」という気持ちでやった(そのせいか結果は悲惨だった)。サラリーマンになってからもその気持ちはゆずらなかった(そこは大事なところだ)。90年代の論壇的な世界で「大人になれ」という言説が広まったことがあったが、それもこの流れを汲むものだ。もちろん自分は、「反=大人になれ派」だった。さて今の時代には、社…

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会話における嘘と対人場面での苦痛の話

ひきこもりになる人は、コミュニケーションを求めていないのではなくて、「純度100%」のコミュニケーションを求めているという説がある(斎藤環氏による)。その言葉が気になっていた。 自分は、10代から20代にかけて、うわべだけの言葉、相手や周りに合わているだけの言葉、心にもない言葉、社交辞令、愛想笑い、心にもない相槌、、、などなどがまったく苦手だった。それらは一言で言えば「嘘」なのだ。大なり小なり、自分の心に嘘をついている。その嘘が嫌だった。そうやってみんなが心を偽っているから世の中が悪くなってるんだ、とさえ思っていた。思っていたというか、今もある程度そう思っている。苦しいのに楽しいふりなんかしていたら、いつまでも問題は解決しない。人の胸を打つ歌や文学作品は、正直に自分の心を表現したものだ。程度の差こそあれ、多くの人が思うことだろう。 ただしそこにこだわっていると、「会話」というものがとても難しくなる。自分の場合は挨拶で「よう、元気?」などと聞かれても、「元気じゃない」(時には「死にてえよ」)などと、答えていた。その場を取り繕うための、心にもない話題というのも苦手なので、人に会ってもおざなりの会話というものが切り出せない。結局気まずい時間になってしまい、そのせいでまた落ち込む。大勢で話している時でも、なあなあの相槌を打たないので、ぎくしゃくする。そんなことばかりなので、会話や人づきあいはやりたくなくなってしまう。自分の場合は、そこに対人場面における心の問題までが加わっていたため、人づきあいは避けた…

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路上の会話は心を癒す

Sidewalk Talk(歩道の会話)というアメリカの団体の活動している映像がとても面白くて、何度も見てしまう。Sidewalk Confessions Sidewalk Talk // 60 Second Docs彼らは、路上に椅子を並べて、通行人に何でもいいから話してもらい、それを聞く、一風変わった傾聴ボランティアと言える。2014年に構想され、全世界40の都市に1700人のボランティアがいるという。創始者は心理療法士で、孤独を克服するには、路上での見知らぬ人との会話が特に有効だと考えている。これは、心の問題に取り組む活動なのだ(注)。Sidewalk Talkhttps://www.sidewalktalksf.com本当にきつい時には、「会話」は有効だ。きつい状態で一人でいると、その悩みや不安にずっと集中してしまいがちなので、そこから離れらるだけでもいい。その悩みを打ち明けられれば一番いいのだが、本当の悩みというのは、よほど親しい人でなければなかなか言えないものだ。中途半端な知り合いよりは、まったく見ず知らずの人相手のほうが言いやすい。Sidewalk Talkは路上の占い師に見た目がよく似ているのだが、あの占い師たちもそのためにいるのだろう。職場や家庭がない人が増えるにつれて、会話をどこで確保するかはますます大きなテーマになってくるはずだ。こうした路上の会話は、昔ならわざわざこんな活動をしなくても、普通に起こりえた。立ち話や井戸端会議というのは、日常茶飯事だった。路上に屋台や露店、ある…

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「死にたい」に対する謎の上から目線

座間の事件をきっかけに、自殺に関する連続ツイートをしたので、その記録を残したい。 ここからあれこれ文章化しようとすると、面倒になって残すことすらやめてしまうので、そのまま転載する。 ひとつだけ。 「#自殺募集」というツイッターのタグがニュースなどで話題になった直後、ここに自殺をやめさせようとするツイートが多く寄せられた。自分がこのタグを見た時、何百もリツイートされて上位に来ていた話題のツイートはどれも、そんななかの薄っぺらい説教に対する怒りだった。 この怒り。自分にもあったどころか、自殺についてものを言う原動力のひとつだった。 死にたくなっている人は、他の誰よりも生きづらさの真っただ中にいるのに、こと自殺となると、なぜか上から目線でたしなめるような、あるいは叱るような態度を取る人が多い。自分が若かった頃は、もっともっと多かった。 そこに出てくるのが、「弱い」「命の大切さがわかっていない」「前向きになれない」「もっと大変な人もいるのに」といった、まったく心に響かない言葉の群れだ。 死にたい人より自分のほうが、よくものをわかっていると思うのも間違いだ。 そんなことはわかっていても、死にたい気持ちは強くなってしまう。死にたいというか、こんな人生にはこれ以上興味が湧かない、もう愛想が尽きたという気持ち。 うまく言葉にならない、あるいは100万語でも言いたいことがあるこの怒りを、他の人のツイートでありありと思い出した。 ちなみに自分も、自殺を回避できるならそれに越したことはな…

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「家庭のない定年前男女」は平日昼の住宅地に居づらい

知人の50代男性が、仲間と平日昼間に近所の町中を散歩するイベントを企画している。それがやりづらいのはおかしいという意識からだそうだ。それを聞いて、必要なのはまさにそういう企画だなと思った。 「平日昼の住宅地にいる男は不審者扱いされる時代」などと言われるが、本当に許しがたいことだ。引きこもりの原因の一端もここにある。そんな空気のなかを出歩きたくないのは当然だ。 自分の地元には野宿者もいるのだが、彼らの居づらさは、我々の想像も及ばないほどだろう。 地域に居づらく、居場所がない人間は多い。 平日の昼の住宅地では、公園には母親と幼児、学校には子供たち、公民館には高齢者たちがいる。市が企画するイベントのチラシを見れば、それら「存在を認められた」層向けのものばかりだ。 お父さん、お母さん、子ども、おじいちゃん、おばあちゃん。昭和の時代であれば、それらの人たちが社会の構成員のほとんどだったと言っていいかもしれない。けれども今はそうではない。 今では大きな比重を占めている「家庭のない定年前の男女」の公の居場所はほぼない。行政にはそういう人間が見えていないのだ。 親子・高齢者層を自分たちと対立するものと思っているわけではないことは、十分強調しなければならない。自分にも家庭を持っている友人は多い。批判したいのは行政だ。 子育て支援、教育支援、高齢者支援等々、行政も各党も色々輝かしい政策を打ち出すが、「家庭のない定年前の男女」の生きづらさ問題など考えられていない。そうした相手にされてる層…

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「人からどう思われるか」を基準に生きるのをやめる

「人からどう思われるのか」。 現代人が最も熱心に考えているのは、結局これなのではないか。とても高邁なことを言っている人でも、案外これを一番に考えていることが透けて見えたりする。 ここで言う「人」とは、いわゆる「世間の目」に限らず、友人、家族、同じ職場の人なども含んでいる。 大原扁理君とphaさんとやるトークイベントが12月2日にあるが、この二人のいいところは「人からどう思われるかを基準にして生きる」というあまりにも一般的な現代的生き方をきっぱりと否定して、「自分の生きたいように生きる」ことを重視しているところだ。 かく言う自分もかつてはそう主張していたし、今もそれは変わらない。 「自分の生きたいように生きる」とは、自分勝手で子どものようだと思うだろうか? 簡単なのは実は「みんながやっているようにやる」ことのほうで、まわりに合わせていれば問題も起きない。そっちがあまりに簡単なので、「自分がどう生きたいか」などということは真剣に考えられていないのではないかと思うほどだ。 まわりの人からよく思われることでなく、自分が本当にやりたいことを大事にして生きていると、どうしてもまわりとずれてくる。自分重視の生き方は、本当は誠実に熱心にやらないとできないのだ。 けれども「周囲の誰もがいいと思う完ぺきな自分」が出来上がったとして、当の自分はその時幸せだろうか。「人からよく思われる」ことを一番の基準にしていたら、本来の幸せは望めない。 pha×大原扁理×鶴見済「それぞれの幸福の自給自足…

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