「家庭のない定年前男女」は平日昼の住宅地に居づらい

知人の50代男性が、仲間と平日昼間に近所の町中を散歩するイベントを企画している。それがやりづらいのはおかしいという意識からだそうだ。それを聞いて、必要なのはまさにそういう企画だなと思った。 「平日昼の住宅地にいる男は不審者扱いされる時代」などと言われるが、本当に許しがたいことだ。引きこもりの原因の一端もここにある。そんな空気のなかを出歩きたくないのは当然だ。 自分の地元には野宿者もいるのだが、彼らの居づらさは、我々の想像も及ばないほどだろう。 地域に居づらく、居場所がない人間は多い。 平日の昼の住宅地では、公園には母親と幼児、学校には子供たち、公民館には高齢者たちがいる。市が企画するイベントのチラシを見れば、それら「存在を認められた」層向けのものばかりだ。 お父さん、お母さん、子ども、おじいちゃん、おばあちゃん。昭和の時代であれば、それらの人たちが社会の構成員のほとんどだったと言っていいかもしれない。けれども今はそうではない。 今では大きな比重を占めている「家庭のない定年前の男女」の公の居場所はほぼない。行政にはそういう人間が見えていないのだ。 親子・高齢者層を自分たちと対立するものと思っているわけではないことは、十分強調しなければならない。自分にも家庭を持っている友人は多い。批判したいのは行政だ。 子育て支援、教育支援、高齢者支援等々、行政も各党も色々輝かしい政策を打ち出すが、「家庭のない定年前の男女」の生きづらさ問題など考えられていない。そうした相手にされてる層…

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「人からどう思われるか」を基準に生きるのをやめる

「人からどう思われるのか」。 現代人が最も熱心に考えているのは、結局これなのではないか。とても高邁なことを言っている人でも、案外これを一番に考えていることが透けて見えたりする。 ここで言う「人」とは、いわゆる「世間の目」に限らず、友人、家族、同じ職場の人なども含んでいる。 大原扁理君とphaさんとやるトークイベントが12月2日にあるが、この二人のいいところは「人からどう思われるかを基準にして生きる」というあまりにも一般的な現代的生き方をきっぱりと否定して、「自分の生きたいように生きる」ことを重視しているところだ。 かく言う自分もかつてはそう主張していたし、今もそれは変わらない。 「自分の生きたいように生きる」とは、自分勝手で子どものようだと思うだろうか? 簡単なのは実は「みんながやっているようにやる」ことのほうで、まわりに合わせていれば問題も起きない。そっちがあまりに簡単なので、「自分がどう生きたいか」などということは真剣に考えられていないのではないかと思うほどだ。 まわりの人からよく思われることでなく、自分が本当にやりたいことを大事にして生きていると、どうしてもまわりとずれてくる。自分重視の生き方は、本当は誠実に熱心にやらないとできないのだ。 けれども「周囲の誰もがいいと思う完ぺきな自分」が出来上がったとして、当の自分はその時幸せだろうか。「人からよく思われる」ことを一番の基準にしていたら、本来の幸せは望めない。 pha×大原扁理×鶴見済「それぞれの幸福の自給自足…

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