2018年06月11日

DIYシュノーケルと他者評価でない歓び

無題3.jpg『0円で生きる』にもやり方を詳細に書いたDIYシュノーケルとは、自分の好きな場所から海に入り、好きなだけ海中を眺めるというもの。ボートでいい場所に連れて行ってもらって(主にサンゴがあるところ)、決まった時間だけ海中を見るシュノーケリング・ツアーと区別している。獲物を求めて狩りをしているような、独特の面白さがある。

けれどもサンゴ礁について言うなら、歩いて行ける海岸の沖に素晴らしい状態のサンゴがある場所は、そう簡単には見つからない。つい先日行ってきたインドネシアの片田舎ブナケン島は、まさにそんなところだった。

ブナケン島海岸でのシュノーケリングで見られるもの 


IMG_8930.JPG「サンゴと熱帯魚を見る」という行為が、自分が生きるうえで何の役に立っているのか、まったくわからない。

けれども、自分が生きてやっていることのなかで、これを上回る歓びを感じられるものは、残念ながら他にない。熱帯魚を見ながらプカプカと海に浮ている時間はもちろんいいのだが、岸に戻って海を眺めながらイヤホンで好きな音楽を聴いていると、何かこみ上げてくるものがあり、この世界はそんなに悪くないと思えてくる。

こういう単純な歓びがなければ、人生は悩ましいことで埋め尽くされてしまい、この世界への興味も失せてしまいそうだ。大げさだが、生きる歓びと言ってもいい。
これに似た体験というと、レイヴパーティーで踊りながら朝日を見たことが思い浮かぶくらいだ。
いずれも、人間関係的な世界のなかでの悪戦苦闘とは、まるで関係ないことに驚く。こういうものが最大の歓びであるなら、あの悪戦苦闘は何なのか。そちらの世界は、注ぎ込んだ努力に見合う、生きたいと思う何かを返してくれるのだろうか。

IMG_8944.JPGこういう経験をすると、「他者評価」というものについて考えてしまう。
誰でも他人によく思われれば嬉しいものだ。けれどもそれは、よく思われなくなったり、悪く思われて苦しむことと表裏一体で、よく思われる方だけ選ぶことはできない。
こうした他者評価を、自分の幸不幸の絶対の基準としているときつい。自然を見ることでも、音楽を聴くことでも、本を読むことでも何でもいいので、他者評価のような不確かなものではない、自分なりの歓びを持っていると強い。これまでそう思ってきた。
他者評価がすべてなら、ちょっとしたことですべては失われてしまうかもしれない。それなのに、そこに労力を注ぎ込みすぎる社会になっているんじゃないか。

貼った動画は岸からリーフの端(ドロップオフ)までが、実際に見た時のように再現されている。
こういうものを時々見ては、見た時の気持ちを思い出すようにしている。そうしていると、これが生涯の財産であるような気がしてくる。
ブナケン島に行くには飛行機を少なくとも一度は載り継がなければならないので、行くまでの行程は正直言って面倒くさいし、金もある程度かかる。民宿は1泊1500円からある。島には他の呼び物はなく、ダイビングとシュノーケリングに来た客がそこそこいる程度だった。
これまで行ったなかでここまでの場所というと、フィリピン・セブ島のモアルボアルくらいだったが、伊豆でもかなりいける。

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posted by 鶴見済 at 16:38| Comment(0) | 0円で生きる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月15日

『0円で生きる』インタビュー・書評のまとめと書き足し

『0円で生きる』について受けたインタビューや、書いていただいた書評の一覧をまとめておく。
どれでも主に主張しているのは、無料でのやり取りを増やして、この社会のメインストリームに適応したくない人間の領域を拡大しようということ。

●記事

不適応者でも生きやすい領域を作る 鶴見済

『波』という雑誌に書いた記事。ここに書いた、泊めてくれたカフェのオーナーとは、今も連絡を取りあっている。
「これは、単なるお金の節約だけの問題ではないのだ。この社会に適応したくない人間のための、もうひとつの世界を作るための試みだと思っている」。

●インタビュー

「0円生活」で居場所見つける 脱・お金依存の先にあるもの(Yahoo!ニュース)

90年代から『脱資本主義宣言』のあたりの経緯まで含め、今言いたいことを上手くまとめてくれているインタビュー。
出だしの部分では、「戦後の若者文化は一貫して抑圧に抵抗して自由になろうとしていて、『道徳的なもの』もその抑圧のなかに含まれていた」という話もしていて、ここの内容はそれとも関連している。


ゼロ円で生きることを提唱するライター 鶴見済さん (中外日報)

『中外日報』は歴史ある仏教系の専門紙。
生や死、そして無料の経済について話している。メインは無料経済の話なのだが、「自分としては人生をもっと軽く考えたい」「個人が集団の犠牲になる」といった部分が自分としては心に残ったりする。

ここでは載らなかったが、「色即是空、空即是色」の話もしていた。
一切の価値が空しくなったとき、かえって鮮烈によみがえってくる価値というものがある。仏教のいちばんいい部分には、万象を空しいと観じた時に、逆にふわっと浮かび上がってくる万象への価値の感覚があるように思う」(真木悠介『気流の鳴る音』)。
これは自分が、
生涯で最も大切にしてきた感覚と言えるかもしれない。特に仏教とは関係なく、楽になるので、いつの間にか身についていたものだが。90年代に書いた本には、大体この感覚が入っている。


生きにくい現代人の心のゆるめ方「0円で生きる」こととは? 私たちがお金で買っているものの正体(Money Plus 前半)

老後の不安を減らす、貯金「以外」の方法は? 「0円で生きる」著者のお金に頼りすぎない生活(Money Plus 後半)

お返しについて強調しているが、考えてみればあまりこれを言いすぎると、自分が何かあげる時に相手に警戒されてしまう。なので、「自分に対しては、お返しは気にしなくていいですよ」と付け加えておきたい。誰でもそんなものだと思う。けれども、世の中全体について言うなら、やはりあげたりお返ししたりで何かを作っていくのがいいですねと言わざるを得ない。
これも最後の最後に人間関係について言っていて、そこが割と印象深い。





●書評やブログでの紹介

Book Reviews 0円で生きる――小さくても豊かな経済の作り方  鈴木孝弥(ele-king)

鶴見済「0円で生きる」 〜貫かれた倫理〜  佐々木典士(Minimal&ism)

がんじがらめの資本主義からの脱出 大西赤人 (レイバーネット)

皆さんよく読みこんでいただけて、とても光栄。


●関連インタビュー

「生きづらい」社会をどうするか (NewStory)

座間の事件に関連して受けた自殺に関するインタビュー。
「『みんながやっているからやらないといけない』としがみつくのを辞めることでしょうか。学校の部活動についてもそう思います。誰もが孤立することを恐れて辞めることができないことがあるなら、みんなで降りてしまえばいいと思います」。


種子を巡る冒険B鶴見済さん達が自主耕作している放棄されていた国有地に種子をまきに出かける(8bit News)

種子法廃止に関連して受けた、畑に関する動画インタビュー。


●本の感想を書いてもらったブログ

A1理論はミニマリスト
グッバイ社畜
なうひあdiary
カレジョの七転八起ライフ
神田神保町でのまなびニート気質な僕の生きる道
徒手空拳日記
エンログ
俺、まちがってねぇよな?
スズイチのブログ
あさよるネット

posted by 鶴見済 at 17:25| Comment(0) | 0円で生きる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月24日

健全さへの抵抗感、寄付の世界

『0円で生きる』では、寄付の貰い方、あげ方についても書いていて、寄付サイトなども紹介している。

Japan Giving    Give One

けれどもサイトを見てもらえばわかるとおり、こうした寄付の世界は、「いわゆるいいこと」の独壇場となっているのが気になっていた。『愛は地球を救う』みたいな感じ、と言えばわかりやすいだろうか。日本の寄付や募金は、ほぼ「健全さ」や「道徳的なもの」に独占されているかのようだ。


けれども自分が知る限りでは、日々のお金に困っている人には、むしろそうした健全さや道徳的なものから縁遠い人、それに抵抗感を持っている人が多い。

ふさわしい言葉が見つからないのだが、斜に構えた者、不良っぽい者、やさぐれている者などと言えばいいのか。

ブレイディみかこさんの『花の命はノー・フューチャー』という本に、イギリスの最低所得者層の地域には、タトゥーが入っている人が圧倒的に多いという話が載っている(自分の書評)。自分が会った野宿している人たちにも、そんなタイプが多い。

もちろん、ここで言っているのは「内面的にやさぐれている者」全般のことだ。お金のあるなし、不良っぽさ、そんな外面的なことに関係なく、そのような人はたくさんいる。むしろ生きづらい系の人のほうに多いのかもしれない。


そして、こうした健全さに抵抗のある層は、社会の様々な恩恵からはじかれてしまっているのだ。

保守政党は経済的強者を守り、リベラル・左派政党は健全な層を守るかもしれない。けれどもそうした層を誰が相手にしているのか。そうしたタイプの人間が、選挙に立候補するのを見たこともない。

行政に何かを申請するなら、団体名は「いきいき友の会」のような健全な名前を付けるのが無難である。健全そうな身なりをしていれば、職務質問を受ける回数も減るだろう。


こういうことを書くのは、とても難しい。けれども、健全な人たちと健全さに抵抗を持つ人たちの食い違いは、かねてから重要なテーマだと思っていた。

健全なこと、道徳的なこと、「いわゆるいいこと」を批判するのは難しいし、批判する必要もないかもしれない。社会的に見れば、最も褒められやすい強い論理と言えるだろう。批判を恐れるテレビや新聞などの大きなメディアも、それなら安心して取り上げられる。

けれども、これまでに自分の胸を打ってきた音楽と言えば、どれもこれも健全でないものばかりだったし、そういう人は多いだろう。そういうものへの抵抗感には、十分な理由がある。


この世の理不尽さや不運を味わった者の多くには、特有の「世界(この世)への不信感・恨み」があると思う。人間は素晴らしい、世界は素晴らしい、清く正しく生きていればいいことがある、そういった言い草は、端的に言って間違っている。本当は人間も世界も運命も、健全ではないし、清廉潔白でもあったかくもない。理不尽で残酷な面がたくさんある。それに気づいたのだ。

この多くの人が持っている「世界に対する不信感・恨み」は、ほとんど語られないが、人間の心情や文化を理解するうえでとても大きなものだと思っている。


健全なことを言っている人のなかには、そうした人を、「ひねくれている」「こじらせてしまった」程度にしか見れない人もいるのだが、全く賛同しない。そちらのほうが、世界に対するより深い知見であると思えるからだ。

そしてその観点からは、大方の健全で道徳的なあれこれは、ほぼ抵抗感が湧くものになってしまうのだ。
いわれのないDVに苦しんだ者は、笑顔のファミリーの写真を見て、単純に「ああいいな」と思えなくて当然だ。


健全な人たちと、健全さに抵抗を持つ人たち。

嫌なら無理にそうすることもないのだが、両者がつながったほうが、利益が大きいことは想像に難くない。けれども、健全さに抵抗のある人たちが、健全な世界におもねったり、自らの考えを変えねばならないのはおかしい。そうすることなく、つながらねばならない。そのためには、いずれの側も懐を深く持ったり、共通する面を見ていったりする必要があるのだろう。


自分が0円ショップや畑をやっても、贈与や共有を提唱しても、「なんか健全なことやってるね、俺には無理だな」という反応を受けることは多い。確かにそうしたことは、日本では健全な世界の専売特許のようで、それをやるなら心や態度を入れ替えねばならないように思えてくる。が、欧米や東南アジアではそうではない。タトゥーだらけのパンクスや依存症の者が、そんなことをやっている。

健全さに抵抗のある人々の世界にも、今は健全な世界にある様々なメリットを開放したいものだ。


※念のために、自分はつながることに抵抗があるどころか、大歓迎だ、と言い添えておこう。

posted by 鶴見済 at 11:20| Comment(0) | 0円で生きる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月11日

世界の0円サービスと新しい「共助」の時代

世界の、とは言ってもヨーロッパがほとんどだ。以前から感じていたが、ヨーロッパに比べれば、日本の0円活動はまだまだ盛んではないと言えるだろう。

それらを紹介する前に、「共助」という助け合いについて少し。


ここであげたものは、大体「共助」と呼ばれる助け合いに相当する。

「助ける」という行為には三種類あって、

@自助=個人が自分を助ける

A公助=公(行政)が人を助ける(社会保障など)

そして、

B共助=人(民間人)が人(民間人)を助ける

の三つとされる。


前近代(日本なら江戸時代以前)では、特に村のなかで共助の役割はとても大きかった。けれども近代以降(日本なら明治以降)は、まずお金のやり取りが盛んになったので「お金による自助」が増えた。そして、国や行政の力が大きくなったので、公助も大きくなった。こうして共助は廃れた。日本では特に、高度成長期以降に廃れたと言われる。


0円活動が活発なヨーロッパには、共助の伝統が多少は残っていたのだろうし、インターネットの普及が新たな「共助の時代」を進めていることは間違いない。


『0円で生きる』には、これらの三つはどれも含まれているが、多いのはやはり「共助」の原理にもとづくものだ。これらはどれも大切であり、あまりにも自助や、家族による介護などの共助ばかり強調するのはよくない。けれどもこの社会では、共助はもっと見直されるべきだ。自助と公助のなかで、人々は孤立しがちになった。


共助が廃れて、代わりに日本には「他人は危ない」という考えが行きわたった。もちろん「他人」など、いい奴ばかりではない。「人はみないい人」みたいなことを言っている人は、悪い面を知っていて黙っているか、そのくらいの人生経験しかなかったのだろう。

けれどもその危険を取り除いた一人の安全な生活で、我々が幸せかと言ったら、そうとは限らない。


*********************
●家を交換する「ホーム・エクスチェンジ」

一定の期間、自分の家やアパートの一室を、海外の他の家・部屋の持ち主と交換して住む。世界的なネットワーク。双方の都合を合わせるのが大変そうだが、長期海外滞在したい時には特に有利。

Home exchange

Stay 4 Free


5669023215_3cc0d46cca_o2.jpg●イギリスの「ストリートパーティー」

イギリスでは、申請して地域の通りを通行止めにし、そこに椅子を持ち出して盛大に路上パーティーを開ける。そのやり方を解説するサイトまである。ブリストルという街では年100回以上(!)も開かれるという。『無銭経済宣言』(マーク・ボイル著)でも紹介されていた。

The Street Party Site 


●自転車旅行している人を無料で泊めてあげる「ウォーム・シャワー

自転車旅行をする人を無料で泊めてあげる、自転車愛好家による世界的ネットワーク。体験談を聞けるので、愛好家なら泊めるだけでもメリットがある。これも『無銭経済宣言』で知った。


●近所で物をシェアする「Peerby」(ピアビー)

オランダからヨーロッパに広まった、近所で物を貸し借りするネットのサービス。無料で貸し借りするのが特徴。大工用品、キャンプ用品、パーティグッズが人気だそうだ。

Peerbyの解説


●フランスでの拾いを紹介する映画『落穂拾い』

フランス各地を巡って、様々な「拾う」行為を取材した映画。ゴミだけではなく、畑でも果樹園でも、養殖所近辺でも、拾えるものはいくらでもある。難しくなってはいても、日本よりも拾うことに寛容な社会であることがわかる。この映画は必見。

予告編


●ヨーロッパの相乗り仲介サイト「BlaBlaCar

フランスからヨーロッパ12カ国に広がる車の相乗りサービス。毎月100万人以上が利用していて、相手も簡単に見つかるようだ。お金は払うが、ガソリン代・高速代などを割り勘にするので、営利目的ではなく、許可云々の問題はない。日本にも類似のサービスに「notteco」があるが、規模が違う。

BlaBlaCar解説


●店の廃棄予定食品を教える「resQ club

ドイツからヨーロッパへ広まった。店が廃棄になりそうな食べ物と料金をアップし、それをネットで申し込んで買うサービス。半額以下の料金で買える。日本でも類似のReduce Goというサービスがはじまったが、こちらは月々定額を支払う仕組みなのでやや使いづらい。

resQ Club解説


『0円で生きる』に詳しく書いた、無料宿泊できる『カウチサーフィン』、作業と宿泊を交換する『Workaway』については、日本のサイトの登場を願う


写真は2011年のストリートパーティ。バーベキューをやっているらしいが、卓球台まである。ccライセンス by Adam Burt

しかし、長くなってしまった。もう少しブログを軽くしないと、なかなか更新できなくなるな。

posted by 鶴見済 at 14:52| Comment(0) | 0円で生きる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月18日

無料でつながる方法と、縛りのきつい関係を拒否する時代

複数の人があえて集まってやることは、ほとんど助け合いである。

そんなことを『0円に生きる』に書いたが、よく考えればそうなのだ。誰かが誰かを支援などしなくても、例えば孤独感に苛まれている人同士が集まって問題が解消したなら、それはお金も苦労もいらない有意義な助け合いだ。本で紹介した「自助グループ」は、そんな助け合いのひとつの形だ。


ネット上には、〈つなげーと〉、
〈ジモティー〉のメンバー募集版といった同好会のメンバー募集サイトがある。英語で外国人が多いが世界で一番有名なサイトに〈Meetup〉がある。こうやって集まることも、やはり助け合いなのだ。

欲を言えばもっと、日頃からつながりがなくて困っている人向けの集まりが増えてほしいところだが。



今の日本では、こうした
新しいつながりを作ることが極めて重要だ。それには深い理由がある。

以前から、昭和の時代には珍しかった、あるいは少なかった新しい生き方として、次のようなものがあるなと思っていた。

労働週4以下、フリーランス、ニート、不登校、ひきこもり、生涯独身、未婚同棲男女、子なし夫婦、シングルマザー、養子縁組親子、そして同性愛。まだ行きわたっているとは言えないが、アメリカなどでは広まっているポリアモリー(公認複数恋愛)も。


これらはすべて、戦後ほとんどの人が押し込められていた「学校」「会社(職場)」「家庭」という三つの領域から、あるいは「男女が結婚して子供を作り、男は終身雇用」という縛りのきつい人生から外れていることに気づく。晩婚化や離婚の増加も同じ傾向の一部だろう。


021z4.jpgこうした新しい生き方に向かった人は、まだまだ社会から「真っ当」と見なされるには至っておらず、昭和の典型的な生き方よりははるかに低く見られる。

親子連れやスーツを着た人、高齢者は警察の職務質問を受けそうになく、そうでない人は受けやすい。


夫婦のみの世帯数は今や夫婦+子供の世帯数に迫る勢いで、独身世帯を含めれば、子供のいない世帯数は
平成に入って、夫婦+子供世帯数を追い越し、今でははるかに上回っている

「一人暮らし世帯」は「夫婦と子供から成る世帯」を追い越越すか?(統計局)

それでも、まだまだ子供のいない世帯が、それほどに社会から認められているとは言いがたい。


こうした縛りのゆるい新しい生き方は、これからどんどん増えていくはずだ。なぜなら、学校・会社・家庭の三領域に長い間閉じ込められていたことが異常だったのだから。それは世界的に見ても特異な現象だったのだ。今では、よく全員がこんなものを我慢していたなと思えるほどだ。

現在の人間関係は、数百年という長いスパンで見ても、地縁、親子、男女関係など、どれをとっても縛りを緩くする方向に向かう途上にある。


だからこそ、つながりをなくした状態に不本意に落ち込まないように(本意ならばそのままでいいが)、新しいつながり方、つまり助け合い方の道筋をつけておくべきだ。

オルタナティブな者たちが、早く社会から「真っ当」と認められるためにも。

※グラフは統計局HPのものだが、ピンボケしてしまうのでクリックして見て
ください。

posted by 鶴見済 at 11:15| Comment(0) | 0円で生きる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月28日

自然が無料でくれる大きなもの

201504151609000.jpg『0円で生きる』では、自然界から無料で貰う方法もあれこれ書いている。

鶴見は最近すっかり変わって、自然がいいと言っている、などと言われることもあるが、そういうことは90年代から言っている。


本には、野菜栽培、野草採取、茶葉作りなど色々な技を書いているが、平凡な雑木林でも、眺め方しだいで十分楽しめる(その眺め方まで書いた)。

ひとつの林でも、季節はもちろん、雪・霧などの天気、夕方・曇りなどの光の加減、鳥・虫などの他の生き物の有無によってもまるで違ってくる。こうしたタイミングに、和歌や俳句を詠んできた人々は、最も神経を研ぎ澄ませてきたのだなと思うと、その無料で自然を楽しむ「技」に恐れ入るばかりだ。


こうしていると、自然物との関係というものに思いを馳せるようになる。

「野菜を作って食べる」という行為ひとつを取ってみても、このなかに光、水、空気、土といった、あらゆるものとの関係が含まれている。

「食べていく」とは本来これだけ単純なことで、面接を受けて就職をして月々何万円稼ぎ、そのお金をあれとこれの支払いにあてて、という途方もなく複雑なものではなかった。

また「関係」とは「人間関係」のことではなく、他の生き物や生きていない物(無機物)全般との関わりのことであって、それが見えなくなっているのだな、と気づく。


すべての人間関係に失敗してしまったとしても、それで一巻の終わりではない。けれども、そう思えてしまうような世界に、我々は生きるようになったのだ。


もう少し書こう。

我々はどれだけわめいても全員が死ぬわけだが、死んだらどこに行くのだろうか。

あの世などというものは存在しない。死んだ人たちは、この地球上の「そのあたり」に有機物や無機物として散らばったのだ。

それらの物質は、他の植物や動物に吸収され、それをさらに他の動物が食べている。もちろん我々人間もそれを食べる。この自分もそのように他の生き物を食べて育ち、死ねば「このあたり」に散らばる。

これを思った時に、自然界というものに(そして「このあたり」に)、愛着のようなものが湧いてきた。


人が自殺するうえでは、この世界に興味を失う(愛想が尽きる)という要因が大きいと思う。確かに、人間だけが生きる世界には愛想も尽きやすい。
けれども、世界とはこういうところなのだと思えば、まさかの「世界への興味」が湧いてくるのではないか?


こうした気づきや癒し全般が、自然界から貰えるものならば、自然界がくれるものは確かに安すぎると言える。何しろ0円なので。

これは新刊だけでなく、色々なところに書いてきたことだが、多くの人に読んでもらいたいことなので、また書いた。


※写真は近所の雑木林で、この色は素晴らしいと思い、撮った新緑なのだが、こうしたものは見たとおりに撮れることがない。そのうえこのブログ上ではピンボケするので、クリックしてみてほしい。Seesaaブログ、色々勘弁してほしいことが多い。

posted by 鶴見済 at 11:49| Comment(0) | 0円で生きる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月13日

0円で生きるために役立つ無料サービス一覧

新刊『0円で生きる』で紹介した、無料で貰ったり共有したりするためのサイト等々の一部を掲載する。

お金が稼ぐのが苦手な人も軽んじられない世のなかにするために。

また、労働と消費だけの人生から脱却するために。


●不要品を無料で放出するサイト

ジモティー(不要品無料・有料放出、その他募集全般。近くで無料品が出るとメールを受け取るように設定するのがいい)

mixiあげます&くださいコミュニティ (mixiでもまだ使われているコミュ)


●不要品放出+募集

くにたち0円ショップ(路上、東京)

くるくるひろば(常設店、東京)

ほげ0円ショップ(河原、京都)

かなやまFreeshop(路上、名古屋)

くるくるひろばinつくば (公園、つくば)


●住まい、交換労働

カウチサーフィン(無料宿泊者募集、英語)

WWOOF(有機農場無料滞在+手伝い)

Workaway (宿泊・食事と手伝い、英語)
HelpX (同)


●無料相談

精神保健福祉センター(心の悩み無料相談)

弁護士による無料法律相談(東京都の区役所)

総合労働相談コーナー  (厚生労働省)

法務局人権相談 (人権侵害全般の相談)

●無料での作品などの共有

青空文庫(著作権切れ作品無料公開)

Flickr(共有写真検索が便利)

ナイン・インチ・ネイルズ『ゴースト』(無料アルバムダウンロード)

マーク・ボイル『無銭経済宣言』全文掲載サイト(英語)


●公の無料施設など

海と陸からの見学会(東京湾無料見学。大推薦)

Tokyo霊園さんぽ (公園として使える公共の墓地紹介)

農林水産省食堂 (いい食材で安く多めに食べられる)

東京大学総合研究博物館 (構内散策と併せて)


●車の相乗り 

notteco(相乗り募集。お金は運賃ではなく、かかる実費の割り勘なので法的な問題はない)


●小商いなど

フリマガイド(フリマ出店募集)

軒先新聞(空きスペースの有料貸し借り)

軒先ビジネス(同)


●寄付・合宿型ボランティア

チャリボン(古本による寄付)

GiveOne(寄付サイト)

ジャパンギビング(同)

NICE(海外ボランティア募集)

posted by 鶴見済 at 12:42| Comment(1) | 0円で生きる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月04日

私はなぜ『0円で生きる』を書こうと思ったのか

IMG_7814.JPG例えば一方に、ただでもいいから自分の演奏を聴いてほしい人がいて、もう一方には、誰かの演奏を聴きたい人がいるとする。マイクを一本置いて両者を集めれば、基本的には無料で双方の望みが叶うことになる。これが「オープンマイク」だ。


こんな組み合わせは、誰かに泊まってほしい人と泊まりたい人、ある物がいらない人と欲しい人、ヒマをつぶしたい人と人手が足りない人、空きスペースのある人とスペースが欲しい人など、無限に考えられる。


こうした組み合わせが成功した場合、そこには単にお金を使わわずに済ませた以上のことが起きている。こうしたほうが、お金を払って事を済ませるよりも豊かだと感じられる。個人的には「美しい」とさえ感じてしまう。


こんな「お金は使わないけれどもより豊かなやり方」は、お金を使いたくない人の間で、もちろん自分の身のまわりでも、錬金術のように練りに練られているのを近年感じてきた。気がつけば、自分でも色々とやるようになっていた。ネットの普及がそれを広めてもいるし、国内よりも欧米のほうがもっと練られ、実践されているとも感じた。

考えてみれば、お金をそれほど使わず、物や人手が足りなかったかつての社会では、毎日がこんな工夫の連続だっただろう。

こういう発想は、物をもっと売ったり(ひとりにひとつ!)、お金を使わせるための商業戦略のせいで抑えられてきたのだ。


こうした流れをもっと推し進めて、お金を稼ぐのが苦手な人でも、つながりを持って豊かに生きることができる社会にしたいものだ。もっと、お金を稼ぐことが重要でない社会になればいい。

『0円で生きる』のような本を書こうと思った動機はいくつかあるのだが、そのひとつは、こんなところにある。


本の意図については、こんな記事も参照してほしい。

不適応者でも生きやすい領域を作る(鶴見済)

版元・新潮社のこの本のサイトでは、この記事の他に、目次と前書きが読める

『0円で生きる小さくても豊かな経済の作り方

写真は、ベトナムでただで寝かせてもらったカフェの閉店後の空きスペース。ここのオーナーはカウチサーフィンを使い、毎日のように旅行客をただでこのスペースに泊めている。

posted by 鶴見済 at 18:33| Comment(0) | 0円で生きる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月14日

新刊『0円で生きる』の目次

0円で生きる 表紙正.jpg新刊『0円で生きる──小さくても豊かな経済の作り方』が発売になった。
日常的な様々なことを無料でやる方法と、なぜ無料が必要なのかの解説が書いてある。詳しい出版の意図などはまたあらためて書くとして、まずは目次を紹介したい。じっくり書いただけに、他の本に比べて内容が詰まっているところが売りなので。


まえがき

1.貰う──無料のやり取りの輪を作る
贈り物を貰おう/「不要品放出サイト」で貰う!/不要品放出市〈0円ショップ〉」/不要品を回す「店」/世界に広がる不要品市/カンパを貰う方法/クラウドファンディングで集める/「寄付」もいつかは返ってくる
<この章のレクチャー>贈与経済とは何か?
普遍的な経済の形は「贈与」/増える日本人の贈り物/なぜ寄付をするのか?/贈与はいいことばかりではない

2.共有する──余っているものを分け合う
当たり前だった「貸し借り」/自宅パーティー、道具、服、DVD/人の家に泊まる・泊める/スイスの青年を六週間泊めてみた!/無料で泊まれる〈カウチサーフィン〉/ベトナムでのカウチサーフィン体験/有料で部屋を借りる・貸し出す/車を相乗りしよう/「ヒッチハイク」も空席のシェア/ネットの無料共有物を使う/庭を解放する「オープンガーデン」
<この章のレクチャー>なぜ私有が行き渡ったのか?
農耕社会が土地の私有を生んだ/日本の共有財産「入会地」/共産主義は共有財産社会を目指した/新しい共有の時代

3.拾う──ゴミは宝の山
近所のゴミ、店のゴミ/おから、野菜、新聞、食器……/職場から売れ残りを貰う/ゴミを拾う時の注意/自治体との問題/都心のゴミ観察レポート
<この章のレクチャー>捨てる問題と拾う人々
食べ物はどの段階で捨てられるか?/管理が厳しすぎる日本/ゴミを救出する人々/拾って貧しい人に回す/廃棄に立ち向かう欧米/すべてのゴミに目を向ける

4.稼ぐ──元手0円で誰にでもできる
もうひとつの経済を作る/フリマで売ってみる/フリマの主催は楽じゃない/やりやすい「イベント出店」/ケータリングも元手いらず/「移動屋台」は出店場所が決め手/公道から屋台が消えた/日替わり店長になる/自宅を店にする
<この章のレクチャー>市とお金と資本主義
お金を使うのが悪いのか?/市の始まり/お金は物々交換から生まれたのか?/資本主義の前と後/市としての「コミケ」

5.助け合う──一緒にやれば負担が減る
二人以上でやることはすべて「助け合い」/相互マッサージ、料理持ち寄り、英会話サークル/「輪番制」を使う/手伝う代わりに寝場所と食事を/合宿型ボランティア「ワークキャンプ」/海外ボランティア体験談/一般のボランティア活動/悩みを分かち合う「自助グループ」
<この章のレクチャー>日本の「助け合い」とそのマイナス面
力を合わせる「ユイ」「モヤイ」/一方的な支援「テツダイ」/お金を積み立ててまとめる「頼母子」/ヨーロッパの助け合いも同じ/村八分=助け合いのマイナス面/「ムラ社会」を越えて

6.行政から貰う──もっと使える公共サービス
再分配を貰おう/図書館は大切な「居場所」/公園・霊園でくつろぐ/国公立大学のキャンパスで憩う/ライヴも開ける公民館/生活保護は権利/職業訓練でお金を貰う/やりがいのある「地域おこし協力隊」/スポーツ施設で鬱屈の解消を/驚くほど多い「無料相談」/市民農園、博物館、見学会……
<この章のレクチャー>再分配は富の偏りを正す
太古からの政治の中心的役割/一パーセントが半分以上の富を持つ

7.自然界から貰う──無償の世界
育てる(薬味・調味料、香味野菜/ハーブ/サラダ・葉物野菜/大きめの作物/難しい作物/栽培上の注意)/採取する(野草/茶/その他)/鑑賞する(木や花を見る/野鳥を寄せる/魚を見る/環境全般を楽しむ)
<この章のレクチャー>自然界と「無償の贈与」
自然界は贈与で成り立っているのか?/人類は「無償の贈与」を尊重する/今も残る「神への贈与」

あとがき

『0円で生きる』
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2017年09月10日

贈り物とお返しの経済

61xjwKwgUzL.jpg贈与と返礼について書いた過去記事をアップ。

資本主義には贈与経済で対抗すべきだとは思っている。

ただし、贈与経済を極端に崇めるのにも抵抗があり、古い社会、村社会、人間本来の性質などについても同様だ。そんなにいいところばかりであったはずはないし、かつての風習の悪いところも見なければ、今の時代に合ったより良いものを作り出すこともできない。

村の相互扶助や共同作業に協力しない者への制裁として「村八分」はあったし、それ自体悪いものではないが、贈り物への義務とされた「お返し」を、現代でどう位置付けるかも問題になる。

こうした煩わしさから逃れるために、近代人が個人の自由を求めたことには、十分な理由があるのだ。

今の社会が悪いのはAというもののせいで、それをBというものに変えたら(あるいは戻したら)すべては解決するのだった!などという誰も気づかなかった「解」などというものはないのだ。

『気流舎通信1 SOMA号』という伝説のzine(2013年10月)に、「贈与とお返しの経済」のタイトルで寄稿した。この媒体も、今は品切れ状態だが素晴らしい。一部書き足した。


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ヒトは贈物をやめない


お中元は、一説には明治三〇年代に、大売出しを催す百貨店の影響で定着した習慣で、それが戦後ますます盛んになったのだそうだ。あまり感心しない経緯だが、それでも日本に住む人々は、夏の盛りの時期には盆礼、暑中見舞いなどの贈物をしてきたのだから、やはり興味深い。


クリスマスやバレンタインデーのプレゼントはより感心しないが、それらでさえ我々のなかにある贈物とお返しの不思議な「本能」のようなものを見せてくれるという意味で注目に値する。

他にも有形無形様々な贈与が、この社会にはある。お年玉、お土産、お見舞い、お祝い、寄付、募金、ネット掲示板の「あげます」情報、互助会、ボランティア活動、海外援助、歳末助け合い……。

なぜ我々はこんなことをするのだろうか?

ただで物を他人に渡してしまうなど、今の資本主義(カネ儲け主義)経済の常識からすると完全な「損」だ。各個人はこの「損」を減らし、一円でも儲けを増やすために、かかったコストにできるだけたくさんの儲けを上乗せして対価を得ようとするはずではないか。


つまり一般に言われるほど資本主義は勝利などしていない。これほど多くの資本主義的でないやりとりが、どうしても社会に存在してしまうのだ。我々のなかに、カネ儲けに覆われて見えづらくなった、ヒトという生き物が持つ大きな何かがある。


貨幣経済が普及する前の社会では、人々は互いに物と物を交換していたというイメージがある。けれどもこの物々交換は本当に起きるのだろうか? ある魚を持った人が、それを麻布と交換したいとする。けれどもちょうど麻布を持っていて魚が欲しい人はいないかもしれないし、万一いたとしても出会えないかもしれない。


文化人類学者のモースによれば、実は個人どうしの物々交換など存在しなかったそうだ(註1)。確かに物々交換経済のイメージは今の商取引に似すぎていて不自然だ。交換を行っていたのは、必ず部族などの共同体どうしだった。そして交換は、価値がつり合うものどうしの取り引きではなく、まずは一方的な贈与という形で行われたのだ。共同体に贈られた物は、誰かに独占されることなく、内部で分配された。そしてその贈与には返礼が行われるのが常だった。


D.グレーバーの『負債論』には、物々交換の社会などというものがなかったことが、より詳しく立証されている。では何があったのかというと、著者によれば「貸し借り」であった。貸し借りは時間差のある物々交換ともいえるが、そこには即時決済の概念がない。


こうした贈与と返礼の連鎖が経済を成り立たせていたどころか、それは宗教や政治などあらゆるものを含んだ制度で、経済などその一部分でしかなかった。

つまり、贈られるのは物に限らなかたっだろうし、それは今の贈与・返礼についても言える。この前歌を歌ってもらったから、今度はこちらが踊りを踊ってあげよう、でもいいし、のこぎりを借りたから、味噌の作り方を教えてあげよう、でもいい。無形の贈与まで含めて考えると、贈与の範囲は限りなく広がり、贈与も共有も交換も区別がしづらくなる。「○○してもらったから、××してあげよう」という気持ちのやり取りがあるだけなのかもしれない。


資本主義より大きなもの


ただしかつてはこの返礼は義務でもあったとモースは言う。我々が贈物を貰うと、お礼をしなければいけないような落ち着かない気分になるのは、そのせいかもしれない。

実は贈与・返礼の習慣も、いいことばかりではない。贈与には返礼の義務がつきものであり、それをしないと戦いになることもあった。より多く贈与する側が偉いと見なされたり、返礼できるかどうかに面子がかかっていたというのも、どうかと思う。女性が贈与される物として機能していることもあった。そもそもしきたりと人間関係でがんじがらめになるのは辛い。これらを見るにつけ、近代以降の人間が「自由な個人」になって気楽になろうとしたのには、一理も二理も三理もあると思える。


けれども自分は古いしきたりを崇めたいわけではない。ただ、古くからあることを今に生かしたいのだ。

返礼の義務などなくていい(註2)。自然界は我々に見返りを期待せず、エネルギーや食べ物を与え続けている。果樹や花も、甘い実や蜜を一方的に動物に与えている。その原則を自然界の一部であるヒトが身につけていないはずがないではないか。

返礼はできる時に、できる形で、できる分だけすればいい。贈与してくれた当人ではなく、別の人に返してもいい。それが巡り巡って、当人に返っていくこともある。「恩返し」ではなく「恩送り」という言葉が、かつてこの国では普通に使われていたのだ。それを考えれば与えた方も、返礼がないからといって怒ったりはしないだろう。これならカネがない人でも、カネを儲けるのが苦手な人でも、何らかの形でこの「経済活動」に参加できる。


これが資本主義よりはるかに長く続いてきた、ヒトという生き物の経済なのだ。

この社会で一番まっとうと見なされるのは、バリバリ働いてカネを稼いでいる人である。そもそもカネを稼ぐことしか、生きるうえでやるべきことがないような気がしてくる。就職活動や会社勤めやカネを稼ぐのが得意でないなら、生きていくのは物質面でも精神面でも辛い。いや、会社勤めやカネ稼ぎをしていても、十分生きるのは辛いのだ。これはいい加減になんとかしなければならない大問題だ。

ただし、我々のなかに眠る贈与の本能をもう少し目覚めさせるだけで、これが変えられるかもしれない。


(註1)『贈与論』(マルセル・モース著、吉田禎吾他訳、ちくま学芸文庫)

(註2)ただし返礼があったほうが、贈与・返礼の連鎖は続きやすい。無料でなにかを与えてくれる活動をしている人には、返礼として手助けしたり、カンパしたり、その人の店で何か買ったりしたほうが、その活動も長く続くだろう。

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