弱者認定をしてもらうことへの違和感

日頃から自らの弱さの公開はとても大事だと言っているし、自分でもそれをやってきた自負はある。けれども、自分はこんなにかわいそうな立場なんですよと世間や周囲に認めてもらおうとするのは、自分としてはちょっと違う。
例えば、自分は精神病だと言うことで、進んで弱者カテゴリーのなかに自分を押し込んでいけば、「かわいそう」というある種の特別扱いをしてもらえることは予想できる。
けれども、それはとてもムズムズする違和感のあることなのだ。
今は本当に色々な精神障害が認められるようになって、それは掛け値なしにいいことなのだけれども、注意すべきところもある。

DSC_1190.JPGミシェル・フーコーというフランスの思想家は、狂人と言われた人が古くから今までに、ヨーロッパでどんな扱いを受けてきたかを研究した。
かつて狂人は、村のなかで自由にしていたり、後には犯罪者や物乞いなどと一緒に収容所に閉じ込められていた。それが18世紀末から「精神病者」という「病人」として扱われるようになって、今に至っている。

それはいいことではある。
けれどもフーコーは、まさにここに大きな問題があると考える。狂人と呼ばれていた人が、病気で判断能力がないとされ、社会的な責任を免除され、精神科医の子供のように扱われるようになるからだ。
狂人はかつて、我々の「理性的にまとまった判断」を脅かす、不安にさせる、それなりの一個の存在だった。けれども、それですらない「かわいそう」でしかない存在になったわけだ。

これと同じことを、弱者認定の問題に感じる。
自分が90年代に、弱さを公開しつつも、弱者カテゴリーに入れてもらうようなことをしなかったのは、ここに抵抗があったからだ。
「かわいそう」扱いを受けて頭をなでられがならではなく、社会に普通にいる人たちと同じ位置から、社会にものを言う者でありたい。既存の社会通念を揺さぶるようなことをしたいわけだから。「かわいそうですね、助けてあげますよ」などと言っている人たちも、揺さぶる対象に入っているのだから。
わかりやすい弱者でない分、反発も増えるかもしれないが、その代わりにとても大事なものを守っているのだ。
これは社会にものを言う、言わないにかかわらず、もちろん精神障害だけの話でもなく、誰にでもあてはまることだ。

こういった内容は、140字のTwitterでは書けないので、ブログ向きであるなあ。

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