サルトルの『壁』と「生の不安」への向き合いかた

DSC_2303.JPGサルトルの『壁』という短編小説は、おそらく自分の人生における最も重要な小説だ。けれどもこれまでトークや原稿などでは、この小説の性質上ネタバレになってしまうので、まともに語ることができなかった。
それでもブログなら、ネタバレしてしまっても書けることに、前々回のブログを書いて気づいたのだった。

ちなみにサルトルという思想家については、それほど多くを知らない。むしろ同期のカミュのほうが好きだ。第二次大戦の前後に世界中に大変な影響力を持ったようであるフランスの実存主義の思想家・作家で、『壁』は彼の代表作だ。

【ネタバレ】
主人公ら3人は、スペイン内乱でファシズム勢力に実力抵抗していたが、捕まって同じ部屋に閉じ込められた。
そして、明日の朝には銃殺されることを告げられた。銃殺は確実である。
そこから3人の極限の恐怖の一夜が始まる。3人は殺される瞬間の苦しみや、この自分が死ぬという恐怖に取り憑かれ、ひとりの少年は精神の限界を超えて、錯乱から、気絶したような放心状態に至る。
夜が明けると二人は連れ去られ、処刑されたのだろう。
主人公も極限状態にいるが、彼だけは別の部屋に連れていかれ、反乱軍のリーダーの居場所を尋問される。

このあたりから彼に変化が起きる。なぜか、少しずつ笑いがこみ上げてくるようになったのだ。
彼はリーダーの居場所など言う気はない。尋問が続くうちにますます笑いがこみ上げる。
彼はこう思う。

「何もかもくだらなくなってしまった」。
(直訳すると「もはや何も重要ではなくなった」)

彼はでたらめな居場所を教えることにした。
意外なことに、しばらくすると彼は解放された。彼の言ったでたらめな居場所に、まったくの偶然に、本当にリーダーが移動しており、見つかり殺されたからだ。
彼はどうしたか。
彼はとうとう「笑って笑って笑いこけた」のだった。

【ネタバレ】ここまで。

自分の大きな「生きるうえでの方向性」のようなものが、この小説から来ているとは言わない。自分の体験から、この方向しかないと、自然に編み出されたものだ。けれども、たまたまこの小説と同じだ。
死への極限の恐怖のなかで、少しずつ笑いがこみ上げてきて、すべてがどうでもよくなる下りは、暗記するほど読み返し、原文にまで当たった。

ここまでの濃い経験をする人はまずいない。
けれども、ここまでではなくても、我々の全員が不安や恐怖を抱えながら生きている(死への恐怖ということではなく)。時には耐え難くもなる。その時にどういう方向に向かえばいいだろう、ということだ。
確実に死ぬこと、偶然に支配されていることも、ここまでではなくても、誰でも同じなのだ。

これについては、勢いで余計なことをあまり書きたくないが、『檻のなかのダンス』という本の前書きの最後のほうにはこのことが、もっと練った形で書いてある。
90年代に出したすべての本の根底に、このことが流れている。

『水いらず』という新潮文庫の短編集に入っている。30ページくらいしかない。

※小説で扱われるのは死への恐怖だが、この記事で言いたのは「死への恐怖がなんとか」とか
そんなことではなく、ましてや「生き抜こう」なんてことでもなく、全般的な不安や恐怖の底と、くだらなくなって笑ってしまう方向性についてなので、念のため。またこの主人公は気が狂ったという話でもない。後で読み返したら、色々な意味に解釈できるなと気づいたが、この記事ついては誤解されたくない。

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