「人はみんな死ぬ」と思っただけでもホッとする

転んだことが直接の原因になって死んでしまう人は、国内で年間1万人もいる(間接的な死因となる人はもっと多い)。
そして去年1月の窒息死亡者は1300人。これらの原因は主に餅を喉に詰まらせたことではないかと推測される。
(季節性インフルエンザで死んだ人は、18年は3325人)。

これらは、最近自分で勝手に調べて分かったことだ。
毎日今日のコロナの死者は10人、今日は15人、今日は13人、減る気配がありませんなどとやられると、絶望的な気分になってくるが、こういう数字を見ると気が楽になる。
以前に本に書いたことだが、今地球上に生きている人が100年後にはほぼ全員死んでいると思ってまわりを見回してみるのも好きだ。

人は死ぬのだと思っただけでホッとするし、死んではならないなどと思うと肩に重い荷が載ったような気分になる。

前から思っていることなのだが、人が死ぬことをすべて、あってはならない痛恨の過ちのように見なして、死から目を背けていると、何かを見誤ってしまう。
人が生きて死ぬというごく当たり前のプロセス全体を、普通に見ることができなくなってしまう。それは我々が生きるうえで、大きな考えの歪みをもたらしているはずだし、精神的な重荷にもなっているはずだ。
(人が死ぬことを「殺された」と見なして、何かのせいにしようとする作戦のようなものも使われすぎていると思う)。

重荷になる言葉の最たるものが「生きることは素晴らしい」だ。
自分は「生きていさえすればそれだけで素晴らしい」とは思ったことがない。非常に頻繁にそう言われるけれども。いい状態、目指すべき状態は「生きていてなおかつ苦痛がない」状態であって、そこに至るのが大変なのではないか。生きていさえすれば、あとは等しくいい状態だ、なんてことはないはずだ。
それなのに素晴らしい素晴らしい言われれば、嫌になるのも当然だろう。


何かがおかしいと感じてきた。
この国では戦後、特に教育の世界(道徳教育)において、「生きることは素晴らしい」があまりにも過剰に叫ばれているのではないかという疑問がある。
他の国はどうだろう。欧米のような他の先進国にそのような文化があるだろうか。詳しく調べるのは難しいが、ここまでのものはないように思う。
中国には? イスラム圏には?と考えると、やはりないように思う。

この日本では、第二次大戦中の特攻やら玉砕やらで、命を粗末にしたことを反省し、それを国内外に示すために「生きることは素晴らしい」「命は素晴らしい」が過剰に連呼されているのではないか。特に海外には、「私たちの国はこんなふうに生まれ変わりましたよ」と示すために。
我々は世界でも一番「命の素晴らしさ」を叫んでいる国に生きているのではないか。それがこんなに抵抗を感じる理由なのではないか。その可能性は十分にある。

自分は「生きること」と「死ぬこと」を、ことさらいいとも悪いとも考えたくない。ありのままに把握したいだけだ。けれどもそれがとても難しい。

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