群れのなかにいることと自分で考えること
群れのなかのその時その時のノリで「いい/悪い」が決まってしまう世界がある。内藤朝雄氏の『いじめの構造』という本では、そんな秩序を「群生秩序」と呼ぶ。学校の秩序とはそういうものだ。この本はいじめについての本のなかでも、いじめをする側の心理を解き明かしている点で特に優れている。一方、普遍的なルールによって善し悪しが決まる秩序を「普遍秩序」と呼んでいる。確かにそういうものは、学校の外にもある。
例えばグループのリーダー格の人物がハンバーガー店の看板を見て、「ハンバーガー食いてえな」と言ったとする。「ハンバーガーうめえよな」とまわりの者がそれに次々に従う。そのなかで「昼飯ならさっき食べたばかりじゃないか」と思っても、それが理にかなっていても、言わないでいたほうがいいかもしれない。
自分が思うのは、こういう秩序のなかで生きていると、「みんながどう思っているか」ばかり考えることになるということだ。特に身に危険が及ぶ時などは、必死にそればかり考える(「読む」と言うべきか)だろう。普遍的な秩序のなかにいれば、もっと普遍的なことを考えるはずなのに。群れのノリのなかで生きる場合は、一般的に見たらどうかにこだわるとむしろ身が危ない。(ナチスドイツのなかで官僚だった場合とか)。
自分は常々、「自分の頭で考えずに他の人の考えばかりうかがっている」ようなことがどうして起きるかつについて考えることが多い。もちろん自分だって他人事ではないし、それをなくすなんてこともありえない。けれどもひとつには、こうした群生秩…